ex4 光と影
こーたろーは、イルカの十二歳の誕生日に贈り物をした。わざわざ家まで出向き、渡すタイミングに苦労しつつもなんとかやり遂げた。
文房具店で買った何の変哲も無い三角定規だったが、イルカは感激した。
「ありがとうございます! 大切にしますね」
イルカの持ち物は、心ないクラスメートにたびたび隠されている。この三角定規も長持ちしないかもしれない。それでも、こーたろーにとってはなけなしの金で買った贈り物だったのだ。大切にしてもらわなければ困る。
「こーたろー、お家は大丈夫?」
定規を抱えたイルカは、こーたろーの家庭の事情を心配した。
こーたろーの実家はネジなどを作る工場を営んでいる。
丁度その頃、世界的な不況の波が起こり、こーたろーの家もそのあおり受けた。出荷先との取引停止、業績悪化により銀行も融資を引き上げると言ってきた。幼いイルカはそこまで知らなくても一家が危機に瀕していることは理解していた。
「あー……、大丈夫になった」
「本当に? 本当?」
こーたろーが夜逃げするのではないかと、クラスメート達が噂していたのをイルカは真に受けていた。しつこく聞き返す。
「もし困ってるなら、翁に頼んで何とか……」
口添えをほのめかした途端、こーたろーは烈火の如く怒った。
「うっせえな! 大丈夫だって」
びくっと、イルカは体を戦慄かせた。こーたろーが大声を出すのは珍しい。よほど神経が逆立っていたのだろう。
取りなすようにこーたろーは声を落とした。
「お前が心配することなんてなんもないんだよ。夜逃げなんて格好悪いことするか? 普通」
「普通じゃないから心配なんです」
もし世界からこーたろーが消えたら、イルカは今のままではいられない。変更を余儀なくされる。生まれて初めての家来を失うことは恐るべき損失だ。
「新しい家来でも見つければ?」
「こーたろーじゃなきゃ駄目なんです!」
先ほどのこーたろーと負けず劣らずの大声でイルカは訴えた。
二人は見つめあって押し黙った。両者ともおもむろに目線を下げ、自分の膝頭を見つめた。
「俺たちももう良い年だしさ、あんまり一緒にいるのも誤解を招くつーか」
こーたろーは口実を設けて、イルカから離れたがっている。イルカは涙を見せたくないばっかりに拳をぎゅっと握った。
「誤解って、何ですか……、教えて下さい」
「男と女は、そんなにベタベタしないもんなの。俺らの他にいるか? この年になるまで一緒に遊んでる奴。それこそ普通じゃないよ」
こーたろーは逃げを打つように一般論を口にした。イルカは逃すまいと弁舌をふるう。
「今は男女平等参画社会です。一緒にいたっていいじゃないですか」
「平等っていうならさ、家来っていうのやめろよ」
彼の鋭利な目がイルカを射すくめるが、適当な威力はなかった。姫の微笑を誘う。
「なんだあ……、よかったあ、こーたろーも私と離れたくないんじゃないですか」
「バ……、違うし。いいから考えとけよ。そうじゃないと夜逃げするからな」
こーたろーはすごすごと退散した。イルカは胸をなで下ろした。こーたろーを家来扱いしないとしたら、どう呼べばいいか考えた。
「犬? 猫? 虎? うーん……、いまいいちしっくりきません」
イルカが思案していると、部屋にこーたろーのトートバックが置かれていることに気づいた。忘れ物らしい。
まだ走れば追いつけそうだ。バッグを持ち上げようとした時、中のノートに目が吸い寄せられた。いくら家来とはいえ、プライバシーに踏み込むのは御法度だとはわかっている。
ところが、事、こーたろーに関することでは自制心が弱い。
結局、誘惑に勝てず、ノートを盗み見てしまった。
こーたろーは、頭の後ろに両手を組んで国道を歩いていた。町のいたるところで祭りの横断幕や、ポスターが散見された。少年の目にはすすけた色の町が厚化粧しているように映る。
八月の半ばに行われる祭りに、町全体が浮き足立っていた。
こーたろーはそれらの熱気に当てられることもなく、冷めた面をしていた。
(神様なんていやしねえんだ。いたってひでえ奴なのさ)
鼻をすすり、イルカの家のある山を振り返る。一際高い山の頂上を仰げば、木々の隙間に屋根が小さくのぞいていた。
もしかしたら、イルカとは金輪際、会えなくなるかもしれない。今日は別れを告げに来たのに、丸め込まれてしまった。
イルカとはもう会わないでくれと、イルカの爺に通告されたのは先日のことだ。以前から煙たがられていた節があったから、ようやく来たかと思ったぐらいだ。
但し、どうしても一緒にいたいのならと、狡猾な表情の爺は付け加え、こーたろーにある条件を提示した。影ながら、イルカを守れという密命だ。
「ねえよなあ。俺がイルカの”影”になるなんてさ」
翁の提案はイルカの信じるおとぎ話を裏書きするような内容だった。彼としても全ては信じられず、一家揃って自分を騙しているのだと思いたかった。
四年後の今日。八月十五日にイルカは死ぬ。
人としての生が終わるだけで、イルカそのものが消滅するわけではないそうだが、同じ事だ。
こーたろーの前からイルカがいなくなる。手を触れることはおろか、記憶からも抹消される。難しいことはわからないが、全て忘れることだけは理解できた。
これまでイルカは実社会と折り合いをつけようとして、結局失敗してきた。いっそ楽に行かせてやるのも手ではないか。本人も輝夜姫を名乗っていることだし。
こーたろーは一瞬だけそう思ったが、二人の養育者の苦悶に満ちた顔を見ていたら、そんな無粋なことは言えなくなった。
こーたろーとて、肉親が五年後に死ぬと聞かされて平静でいられるか。恐らく無理だ。冗談だったとしても取り乱す。
しかも生きた証すらも否定されるとしたら、一緒に過ごした自分達の時間はどうなるのか。
納得はできない。しかし、歴史が繰り返すとしたら、ちっぽけな人間に何ができるというのだろう。
こーたろーは物事を深く考えるのが苦手だ。頭痛がしてきた。丁度交差点の信号にさしかかったので足を止めた。向かいの歩道に自販機がある。
タイミング良く信号が青に切り替わった。
喉の乾きに耐えかね、こーたろーはもどかしく足を前に踏み出した。
左側からバイクが進行してきたが、こーたろーの背後を徐行して過ぎた。
渡りきるまであと数歩という所で、猛スピードのトラックが、先に交差点に進入したバイクの側面からやってきた。
前方不注意のトラックはほとんどブレーキを踏まずにバイクと激突した。バイクの運転手は万歳したまま宙を舞った。不幸中の幸いか、運転手は空き地の柔らかい地面に落下して大けがはしなかった。
人間の手から放たれた銀色の鉄の塊は、少年の頭上に滞空したままだ。こーたろーの目には落下するまでひどく長く感じられた。バイクの影が大きくなるに至って、ようやく腕を顔の前に出すことができた。
「何かしら、すごい音」
鳴りやまないクラクションと、ガラスの砕ける音にイルカは仰天した。こーたろーを追ってきたのだが、胸騒ぎがして足を早める。
「え……!?」
肩からトートバッグが滑り落ちる。目の前の光景に目が釘付けになった。
バイクの下敷きになった何者かのスニーカーは、先ほどまで讃岐家の玄関に置いてあったものと同じだった。
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