∠14 ツクヨミ逃避行
自称イルカの許婚のツクヨミは、讃岐邸にて嗅覚を駆使していた。イルカの布団を至福の表情で嗅いでいる。
「惚れた女子の匂いを覚える。これぞ男子の本懐。予は満足じゃ」
ツクヨミは年端もいかぬ童の姿だったものの、イルカを求める気持ちは宇宙一だと自負していた。
恍惚としていたのも束の間、鉈を手にした媼が襖を開け、ツクヨミの首根っこを掴んで連行する。翁の取り決めにより、ツクヨミの体力を削る作戦に出たのだ。
ジャージ姿に着替えさせられたツクヨミは、手伝いという名の奴隷労働を強いられることになった。
「予は媼に問おう! 柴刈りとは何ぞや」
深い山中にて、ツクヨミは雄叫びを上げる。媼は、その後ろで籠に山菜を詰めていた。讃岐家所有の山は、竹だけでなく山菜の宝庫でもある。そこはイルカの生まれた竹林の側であり、広大な野山は新緑の息吹を風に乗せて街へと運んでいた。
「お風呂を沸かすのに使うんですよ。イルカちゃんのために頑張りましょうね」
日は既に高く上り、ひ弱なツクヨミの体力は限界に近い。汗が滴り、腰を曲げるのが辛くなってきていた。
「予、予は王だ。こ、これは下賤の仕事ではないのか」
「職業に貴賤はありませんよ。さあさ、籠を持って」
媼は穏やかにたしなめ、ツクヨミに籠を背負わせてしまった。押さえつけるように言われば反発できるのだが、これでは従う他ない。籠には茸や山菜が山ほど積まれており、さらに束ねた柴を持たされる。
「も、持って行けばいいんだろ! やるわい!」
小さき身なれど王たる者、弱みは見せない。
けれど赤い瞳に涙を溜めているのだ。誰でも哀れを誘われる。媼は、少し労役を減らそうと考えていた。
それも束の間、ツクヨミは何を思ったか、斜面の方に向かって歩き出していた。
「ツクヨミちゃん! そっちは危ない!」
警告が遅かったのか、ツクヨミの姿が消える。石が転がり落ちる音に、媼は肝を冷やされる。急ぎ斜面を見下ろすと、十メートル下の沢にツクヨミが走る姿を確認できた。水を跳ねる音が遠ざかっていく。
媼は冷静に着物の懐からトランシーバーを取り出し、翁と連絡を取った。
「すみませんねえ、おじいさん。やっぱりまかれてしまいました」
通話先の翁はそうかと、言ったきり黙った。翁も仕事中なのだろう。ツクヨミにはGPSをつけているため見失う心配はないと、要点だけ伝えて切ることにした。
「ふふ……」
「どうかしたか?」
「いえ、あの子、本当にイルカちゃんのこと好きなんですね」
「笑っとる場合か。イルカの側には“月影”がおるが、万一のこともある。すまんが、お前行って見てきてくれんか。儂は手が放せんから」
「そうですねえ。運動がてらやってみますか」
媼は、ついでとばかりに追跡を請け負った。GPSの赤い矢印は、山を奥深く進んでいる、道に迷っているのかもしれない。半日働いてくれたし、媼は彼を保護するつもりで動くことにした。
「と、考えるのは素人のやることよ」
ツクヨミは、迷ったふりをして道を遡り、讃岐邸の門の前にいた。籠を下ろし、戸を静かに開ける。ジャージの裏地についていたGPSのチップは既に取り除き、山中で遭遇したヒグマにつけておいた。これで動向を悟られる心配はなくなったと言える。
台所で水を飲み、喉を潤してからイルカの部屋に舞い戻る。匂いを覚えているため、迷うことなくたどり着く。
布団は既に媼によって、押入に仕舞われていた。ツクヨミの目的は別にある。
和室にそぐわぬ人体模型を、ツクヨミはしかめ面で見上げる。
イルカの部屋で一際異彩を放つそれは、内蔵や、脳まで色鮮やかな微細なパーツで分割され、ボディーに収納されていた。
「不審に思っていたのだ。輝夜はどういうつもりでこんな物を置いておるのだ。しかもこやつからは」
ツクヨミは人体模型の側で鼻を鳴らす。
「輝夜の匂いがするではないか。うーむ、謎だ」
一度気になり出すと止まらない。子細に調べようとして、人体模型に触れると、肺の部分のパーツがぽろっと落ちてきた。
「おっと」
手のひらでキャッチした。えんじ色の肺はずっしり重く、弾力に富んでいる。精巧過ぎて少し不気味だった。
しかも落ちてきたのは肺だけではない。堰を切ったようにポロポロとパーツがこぼれ落ちてきた。
「え、ちょ、ま」
ツクヨミは抱えきれずに、内蔵や眼球、鼻に至るまで人間一体を構成する要素がバラバラになった。
「うおー、余計な手間をかけさせてくれる」
放置すればイルカに嫌われるのは必定。渋々、畳の上にパーツを並べがらんどうのボディにはめ込んでいく。どの部位もほのかに温かく微妙なリアリィティーを想起させた。
パーツ自体は実寸大ということで位置さえ把握していれば組立は容易だった。ひとまず完成したもののツクヨミの顔は晴れない。むしろ、混迷していく。
「ま、まずい。パーツが足りないぞ」
ぽっかり空いた右の眼窩が自己主張をやめない。ツクヨミは目玉が落ちていそうな場所を片っ端から探すも見つからなかった。
今やツクヨミは窮地に立たされていた。イルカの評価が下がることを極度に恐れ、まるでギロチンにかけられたような心境だった。
部屋の外に転がった可能性を考え、縁側に面した廊下に出る。ひさしの下に出てみると、庭に光るものを認めた。
「あった!」
ガラス性とおぼしき眼球は光をよく反射する。
歓喜のあまり叫んでしまう。ところが、眼球の側に影が伸びていた。
スキップするような足取りで烏がやってきて、眼球をくわえて飛び立ってしまった。
ツクヨミは、届かない手を伸ばして唖然としていた。
王を名乗っておきながら、娘一人の掌も掴めず、今またガラス玉すら見失う。
だが、落ち込んでいる暇はない。これが正しき絶望なら、挽回する手だてもあるものだ。
王は楽観的であることが望ましいのである。
ツクヨミは玄関でスニーカーを履き、街に下りる階段へと急いだ。
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