∠12 男の意地と女の意地


「俺がやりました。すみません」


保健室の前の廊下の真ん中で、光太郎は体を直角近くまで折り曲げた。当惑した様子のイルカが傍らに立っている。


保健室の大立ち回りの代償は高くついた。あれからすぐ保険医が戻ってきて、光太郎は経緯を訊ねられたのである。薬品棚のガラスを壊したのは彼なので、非を認めざるを得なかった。


光太郎は保険医と担任教師の前で謝罪したものの、教師らの目は節穴ではなかった。光太郎の顔や腕は傷だらけだったし、見た目はともかく中身は実直そうな少年が、嘘をついていることを見抜いていた。


「一人で暴れたわけじゃないだろう。喧嘩の相手がいたはずだ」


 「いや、その」


光太郎は、煮えきらない態度を続けながらも事情を知らないイルカに消えて欲しいと願った。ただでさえ嘘をつくのが苦手だし、恥の感情が彼の顔を必要以上に曇らせていた。


「貴殿らが憂えているのは、ガラスの欠損ですよね」


イルカは光太郎をかばうように一歩前に出た。


ぼんやりした様子の姫カットがいることに、教師らは初めて気づいたように目を細める。


「君は?」


「綾瀬イルカ。輝夜の姫にございます」


優雅に腰を曲げるイルカは、事態の混迷化に拍車をかける。


イルカが絡むと事態がややこしくなる。停学程度ですむのなら、黙っていてくれた方が光太郎は助かるのだが。


「と、とにかくちゃんと話さないと親御さんに来てもらうことになるぞ。登校初日にそんなことしたくないんだがな」


教師達だって自分の失点につながりかねないのだから、問題は避けたいのが本音だ。脅迫というより最大限の譲歩をしてやるという主張が透けて見えた。


やはり自分が全てを被るしかない。光太郎が口を開こうとした瞬間、イルカは保健室に入り、中から鍵をかけてしまった。


「ん? あの子は何を」


保険医が扉が開かないことを不審がる。


残された三人はイルカの動きが読めず、一体自分達は何のためにこの場で顔を付き合わせているのかわからなくなりそうだった。


「入っていいですよー」


暫くして鍵が開けられ、イルカは三人を招き入れた。散乱していたガラスは影も形もなく、薬品棚のガラスは整然と元の位置に収まっている。


教師達は慌てふためき、自分たちの目が信じられずにいる。唯一納得のいく解釈は保険医が見間違いをして、光太郎を犯人にでっちあげたということだった。


「ほ、本当に、ガラスは割れていたんだ。そうだよね、君たち」


救いを求めるように生徒二人に訊ねる。けれどもイルカは微笑みながら首を傾げているだけだし、光太郎も目を合わせようとしない。


進退窮まった保険医は、光太郎に詰め寄る。


「ほ、ほら、怪我してるじゃないか、手当しないと」


その場凌ぎとも取れるような突然の検診に、光太郎は我慢ならなくなった。


「ほんっとうに、俺がやったんす! 相手は多分、上級生です。知らない顔だったから」


光太郎は、眠っているイルカがその人物に襲われそうだったため、防衛のために格闘したと説明した。


「何故はっきり言わなかった。お前は何も悪くないじゃないか」


「それは……」


光太郎は横目でイルカの様子を伺う。


イルカの体面を保つために、黙っていたのだ。教師にもうすうすわかってきた。


怒ったように口を曲げ、担任教師は判決を下す。


「よおくわかった。八角。お前の話を信じよう。しかし校内で暴行未遂事件とはな。職員会議で取り上げねば」


「大事にするのは……、やめてもらえませんか」


「お前の気持ちはわかる! わかるぞ。大事な彼女にあらぬ噂を立てられるのではないかと心配なんだろ。大丈夫だ。先生ちゃんとやるから」


この体育会系の若い男性教師は、幾分感情的すぎるきらいがある。光太郎は、説明するのが面倒になってきた。


「いや、彼女じゃないっす」


光太郎が淡々と事実を述べると、イルカも赤くなりながらこぎざみに頷いた。


光太郎は無罪放免となり、一旦教室に戻ることを許された。上級生に疑いの目が行くことは申し訳なかったものの、場を切り抜けるにはああするしかなかった。まさかボンテージ姿の女に鞭で打たれたとは口が裂けても言えない。


「八角殿、お待ちになって!」


イルカが早歩きで光太郎に追いすがる。


イルカのことを忘れていた。気づけば光太郎はだいぶ彼女の先を歩いている。


「悪かったな、騒ぎに巻き込んで」


立ち止まりはしたものの、振り返ろうとさえしなかった。彼なりの意地と配慮が悪い方向に働いた結果だった。


「何故、八角殿が謝るのです? 私を助けてくれたんでしょう? それなのに、どうして罪を被ろうとしたのです」


気づいているか、イルカ。俺を責める時のお前は、俺の目をまっすぐ見てくるんだ。普段は目なんか合わせやしないくせに。


「俺のことはどうでもいい。さっき”膝”を使ったな。絶対使わないって約束しなかったか」


イルカはバツが悪そうに目を伏せた。


「約束破るなら、もう一緒にはいられない」


イルカと一緒にいると、自分が自分でいられなくなる。光太郎は、側にあった男子トイレに駆け込んだ。


トイレの扉が閉まると、イルカは手を伸ばしたまま固まった。


男子トイレに入るほどの度胸も無神経さも兼ね備えていない彼女は三角定規を弄び、彼を待った。出てきたら謝るつもりだった。


「あー、姫ー、いたいた」


廊下の静寂を破るけたたましい足音を立てながら、家来の二階堂宇美が近づいてきた。


近寄るなりイルカの腕を掴み、滑らかに喋り出す。


「保健室行ったんじゃないの? 具合いいの? ねえ、八角は一緒じゃないの? あいつといると気詰まりになんない? 楽しい? どんな話すんの」


イルカの目が剣客のように鋭さを増す。三角定規の先端を宇美の低い鼻に突きつけた。


「宇美殿、私今忙しいんですの。後にしてくださるとありがたいのですが」


言葉遣いは丁寧だが、有無を言わせぬその迫力。三角定規が妖刀のように思えてくる。


宇美は格の違いを見せつけられ、震えが止まらなくなった。


「はあ……、早く出てこないかなー」


イルカは男子トイレの前で地団太を踏んだ。しまいには大声で呼ぼうとさえ思ったが、面と向かって話すべきだ。


誤解を解きたい一心で、彼女は辛抱強く待つと決めた。

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