∠11三日月の襲来


「おい、イルカ。保健室に着いたぞ」


光太郎は保健室の扉の前に立ち止まり、背負っているイルカを手厚く揺すりながら声をかける。


イルカは薄目を開けたが、ナマケモノのように光太郎の体にしっかり掴まり下りようとしない。


イルカの長く美しい髪が光太郎の首筋にかかっている。男ならずとも触れたくなるような肌触りと共に、イルカの甘ったるい匂いに包み込まれているようで、早く離れなければと光太郎は少し焦っている。


「だらしないぞ。寝るならベッドで寝ろ。お前の爺が見たらなんて言うか」


「はあい、はい。わかりましたから、もう」


夕べ一睡もできなかったためか、イルカに急激な眠気が襲ってきていた。光太郎に気を許しているので、ベッドに運んでもらうことを疑ってすらいない。


イルカは一度駄々をこねると叩こうが何しようが起きないことを光太郎は知っている。仕方ないとあきらめ、怪我で動かしづらい右手で扉に手をかけた。


元々、自分の怪我の具合を見るために来たというのに、イルカの世話をする羽目になっている。本末転倒だが、仕方ない。頼られるのは悪くないものだ。


「友達だからな。これくらいお安いご用さ」


立て付けの悪い引き戸を滑らすと、部屋にこもった空気が一挙に漏れだした。


 「む……」


単なる空気に敏感になったわけではなく、保健室には胸の悪くなるような甘い煙が充満していた。柔軟剤の類ではなく、幾分素朴な感じがする。理由はすぐにわかった。保健医の使う机の上に香炉がちょんと載っている。そこから細々と煙が伸びているのだ。


「古風な趣味だな。イルカと気が合うんじゃないか」


保健医の計らいと取れば納得だが、どこか違和感を覚えるのも確かだ。


とはいえここまで来た以上、教室にイルカ連れて戻るつもりもない。


光太郎は、きれいなシーツの敷かれた古めかしいベッドにイルカをゆっくりと横たえた。首を持ち上げ、枕をあてがう。丁寧な仕事を終えた。


「じゃあな。一限目の授業だけは代弁しといてやるよ。起きたらちゃんと出席しろ。いいな」


イルカには既に光太郎の声は聞こえていない。仮に聞こえていたとしても、言うとおりにするとは限らない。


光太郎は右手の包帯を手際よく代えると、保健室を出た。


数分後、入れ違うようにして、保健室に別の人間が入ってきた。


赤いヒールが、こつこつと、木の床を叩いていく。


やってきた女は、胸元が広くあいた黒のボンデージを着て、目元だけが隠れる赤いマスクをつけている。波打つ金髪を揺らしながら謎の女は注射器を手に持ち、イルカのいるベッドのカーテンを断りもなしに開けた。


「ふふ、よくお休みね。夕べはお楽しみだったのかしら。男を知った女の顔だわ」


女は気取った嫌らしい笑い方をすると、イルカのベッドに腰掛け足を組んだ。ヒールのつま先をぶらぶらと振る。


「光栄に思いなさい。貴女は王の子供を身ごもるのだから。不本意だけど、私もお手伝いしてあげる」


イルカの細腕を持ち上げ、注射器を近づける。血管に銀色の針が触れる寸前で、女の腕がしかと掴まれた。


厳めしく眉間にしわを刻んだ光太郎が、凶行を未然に防いだのである。


「どう見ても、保健医じゃないよな。あんた誰だ? イルカから離れろ」


怒気を含んだ警告に、女は口元を綻ばせる。まるで美しく狂気をはらむ三日月のように。



「質問に答えたらどうだ」


光太郎は、怪しげな女の腕を掴んだまま質問を続ける。


「私は、月の船団ムーンウォーカー


愉しげに放たれた不穏な一言に、光太郎の顔色が変化することはなかった。唇を結んだまま、腕に込める力をより強める。


「驚かないのね。さ、答えたわよ。離してくれる?」


「まだだ。その注射器は何だ? イルカに何をしようとしていた」


女は、けらけらと、人の神経を逆撫でするような笑い声を立てた。成熟した見た目に反し、妙に子供じみている。


「単なる元気になるお薬よぉ。ビタミン剤? 私が作ったわけじゃないからよく知らないけれど、体に害はないはずよ」


鵜呑みにできる情報ではないが、嘘を言っている気配もない。


「消えろ。俺たちの前から」


「言われなくてもそうするわ。ただし、消えるのは貴方」


女は注射器を握りつぶした、黄色い内容液がイルカの髪や、肌を汚す。光太郎の意識がそちらに集中した。その隙を女は見逃さない。光太郎の頭を脇に抱え、カーテンの外へと、強引に引きずり出した。


「さあて、お仕置きの時間よ。ボウヤ」


うずくまる光太郎のすぐそばの床に、女の鞭が叩きつけられる。


「そういう趣味はないんだがな。相手をしろというのなら付き合ってやるよ、化け物」


開戦前は威勢がよかった光太郎だったが、女の鞭捌きは、常軌を逸する手腕だった。


手指や、足など防御しづらい箇所をこぎざみに、しかも正確に狙ってくる。甲高い音と共に、肌が破れ、小さくない傷を刻んでいく。光太郎は膝立ちのまま立ち上がることも出来ず、濁流のような鞭を一身に浴びていた。


「ちょっと、元気ないわよ! 若いんだから気張りなさい」


調子に乗った女の体力が尽きるのを待っているのか。しかし、女が腕を振る速度を落とす気配はない。熟練の技に手も足も出ないようにも見える。


鞭の流れるようなサイクルがわずかに滞った。時間にして一秒にも満たない。光太郎は、その隙を逃さない。切れた唇の血を拭う。


「別に……、動けないわけじゃないさ。あんたをどう倒そうか段取りを考えてただけだ」


「そう? じゃあ早く考えなさいな。気持ちよくなって死んじゃうわよ」


「もう考えた」


光太郎の顔面に向かって飛来した鞭の先端をタイミングよく掴む。女が鞭を引き戻そうとするが、びくともしない。


「いい胴体視力してんじゃない……!? 見切ったってわけ?」


「止まって見えるぞ。これならヒグマの腕の振りの方が早いな」


身体能力なら自分の方が上だ。武器を封じれば勝負はつく。冷静に分析していた光太郎だったが、腕を駆け上る激痛に顔をしかめる。


鞭を握ったまま、体が前に傾いだ。


「すごいわねえ。それでも鞭を離さないなんて」


「何を……、した」


「離さないと死んじゃうわよ。気持ちよくってさあ!」


光太郎は、自分の状況を確認しようと必死であった。鞭の痛みとは別の強烈な痺れ。体が断続的に硬直と弛緩を繰り返し、意志の力を無力化していく。


「電流……、か」


「ja。でも気づくの遅いわ。おやすみ、ボウヤ」


光太郎は鞭を放り出し、ドイツ語で肯定した女に肉薄した。肘を曲げた腕を女の首を押し込み、体ごと背後の薬品棚に叩きつける。痛みと動揺からか女の額に汗が浮かんだ。


「すごい根性。あの子がそんなに好きなの」


「はあ、はあ、そんなんじゃない」


光太郎にとって、イルカは単なる幼なじみで友人だ。それ以上の関係に進展することは永遠にない。


「俺が勝手にやってるだけだ」


「あっそ。でも離れてくれる? しつこい男は趣味じゃないの」


光太郎の体を電流が貫く。鞭には触れていない。首を押さえている腕がわずかに浮く。ここで距離を取られたら、終わりだ。光太郎は気力を振り絞り、女を棚に押しつけ続けた。


「くっ……、しつこい! わかってると思うけど、私、放電体質なのよ。死ぬわよ、いいの!?」


「拷問の訓練なら、爺から一通り受けた。普通の奴より耐えられるだろう。根比べなら自信がある」


膠着の末、女の方が光太郎の意地に負け、両手を上げた。


「Nicht! やめやめ。ちょっとからかっただけ。本気で殺す気なんてないし。輝夜の健康チェックしに来ただけなの。全く冗談が通じない男だこと」


半信半疑ながら光太郎は腕を離した。女は、小声で光太郎に何か言うと、保健室を静かに出ていった。


「あの子のことはあきらめなさい。その方がボウヤの身のためよ」


足下にガラスが散乱している。棚のガラスが割れていたのだ。


ふらつきながら、イルカのベッドに近づく。イルカは光太郎の大立ち回りに気づかずにいたらしい。健やかな寝息が聞こえる。


光太郎が意識朦朧の状態で見下ろしていると、イルカが薄目を開けた。


光太郎のこめかみや腕は裂傷に覆われている。詮索をされるのは面倒だし、イルカの制服の汚れはどう説明するべきか。


「こーたろー、髪。ぼさぼさですよ。直してあげる」


幸いイルカは寝ぼけているようだ。言われるがまま頭を近づけると、手で撫でつけられた。


光太郎はいつものようなぶっきらぼうな口調でこう答える。


「知ってる」

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