ナイフは私の胸に突き立てて

@kangaru

説明ばかりのお品書き

 死ぬときはナイフを胸に刺されて死にたい、前からでなく後ろから刺されてお腹の辺りからナイフの先が出ていることを見ながら死んでいきたい、という思いがあった。殺されたい願望があるわけではない、自分が死ぬということをはっきりと自覚した上で死にたいのだ。眠るように死ぬことが世の中では理想とされているのかもしれないが、自分では少し眠るだけのつもりがそのまま起きることができなくなってしまうなんて怖いと思う。それともそんな状況にある自分は、この眠りが死へつながっていることを自覚しているのだろうか。そんなことを考えながら、暗い部屋の中、自分のベッドで仰向けになって自分の胸にナイフを突き立てる仕草をする。


***


「めたこ……」

 太郎は、朝自分のベッドで目が覚め、眠気眼で天井を見つめながらつぶやいた。

めたこ。それは昨日の夜、太郎がSNSで使った言葉であった。『目にタコができる』を略した言葉であったが、頭をリセットして考えてみると、特段に略す必要の長さであることを改めて思い知る。太郎が[めたこ]という言葉を使ったときに、他のユーザから【略す必要ないよね】という意見を無視して、その場の勢いで、何度も使ってしまった。夜ならではの自分のテンションに対する多少の後悔と抱きながら、太郎の一日が始まった。


 太郎は着替えを済まし、二階にある自分の部屋から、一階のリビングへ降りていく。二階には両親の寝室と妹と太郎の部屋の三部屋、一階にはリビングとキッチンなどがあり、それほど広いスペースはないが、それぞれのプライバシーは守られている。

「おはよう」

 父と母へ挨拶をする。太郎の父は既に上はワイシャツ、下はスーツで、仕事に行く格好になっている。母はキッチンで、慌しく朝食の準備をしている。妹はまだ寝ているようで姿は見えない。両親はともに公務員、妹は太郎の二つ下の高校1年生である。

「早く顔を洗ってきなさい」

 挨拶そっちのけで母は言う。太郎の母は、一言で言うと口うるさい。そして、何かと自分の思い通りにならないと不機嫌になってしまう、かなり面倒な性格の持ち主だ。父はそれに対して、基本的に何も言わず、はいはい聞いている。太郎は、口答えする時期もあったが、今となっては、口答えをする気にもならない。高校を卒業したら、一人暮らしをしようと考えているので、残り一年の辛抱だ。

 寝起きのぼさっとした洗って整え、ドライヤで乾かし、顔も洗う。それを終えると、新聞に一通り目を通す。一面記事、社説、国際社会……、政治家が漢字を読み間違えた、だとか、どこそこのIT関連の会社が個人情報を漏洩しただとか、そんなニュースがある。常日頃、太郎は、どうしてこんなにニュースになるような事件があるのか、不思議でたまらない。『普通』のことを『普通』にしていれば、事件なんて早々起きるものではないと思っている。高校の教師や塾の講師が大学受験に向けて政治や社会に関心を向けることが大事だ、と言うので新聞を読むようにしているが、注目すべきニュースよりどちらかというと小さい記事に目が行ってしまい、突っ込みを入れてしまうのが日課だ。

 ”高校生自殺 またいじめ問題か“

最近、いじめによる自殺がまた増えてきた。太郎が小学生のころに、ひどくニュースに取り上げられていたのを覚えているが、ここ数年は頻繁に取り上げられることも少なく、いじめ問題はほとんどなくなったと思っていた。しかしながら、ここ二、三ヶ月でまた取り上げられることが多くなり、一種の『ブーム』になってしまっている。

 太郎はテレビをほとんど見ないので、テレビ欄には目を通さない。小学生の頃は、テレビ欄を見てアニメのチェックをしていて、新聞はテレビのスケジュールをチェックするための媒体で、テレビ欄こそ『一面』だと思っていた時期があった。今では、部活や塾で忙しく、夜の帰宅も22時ごろになることが多いので、テレビを見る時間がない。

 朝食を食べ終え、スマートフォンからSNSをチェックし、制服に着替える。ようやく妹が起きたようで、先ほどまで太郎のいたテーブルで朝食を食べている。家を出る時間は父が最初で、母と太郎、最後に妹が出ていく。妹の高校は太郎の下車する駅の一つ手前の駅なのだが、その時間で本当に間に合っているのか疑問である。SNSには特段面白い話題もなく、最終更新は、深夜2時であった。


***


 午前中の授業は全て教室での座学で、授業中の科目ではない科目の勉強をしていたり、寝ていたりする生徒もいる。高校三年生ともなると、受験する大学が固まっている生徒は受験科目の勉強に集中するようになる。そのため、受験科目ではない授業中は、受験科目の勉強をしたり、休憩したりする時間となっている。太郎は、まだ受験する大学が決まっていないため一通り授業を聞いているが、得意な科目と苦手な科目はあり、苦手な科目の授業ではいつの間にか眠ってしまっていることもある。得意科目と苦手科目を総合的に考えると、理系の道に進むことだけは明らかではあるけれど、せっかく今まで勉強してきた文系科目をここで捨てていくのはもったいない気もしている。

 今日は何とか眠らずに午前中が終わり、昼食を買いに廊下に出ると、後ろから助さんと角さんがついてきた。買いに出かけるといっても、昼休みの時間を考えると校内にある売店か、校門前にある小さな駄菓子屋兼パン屋のどちらかしかなかった。

「今日は焼きそばパンがいいなぁ」

 太郎より少し大柄な助さんが、腹減ったといわんばかりに、おなかを触りながら言う。

 太郎には、友人がそれほど多くいなかった。周囲の人間から嫌われていたわけではなく、どちらかと言えば、好かれている方だった。しかしながら、太郎の考える友達の定義からすると「友人」と一括りにできる人間はこの二人だけであった。太郎の主な生活の場は現在通っている三角高校と学習塾であり、学習塾では人間関係を広げようと思えば、広げることは可能であったが、積極的に広げるつもりはなかった。新しい人間が太郎の前に現れても、友人を増やしたいと考えているわけでもなく、知り合い以上、友人未満の人間関係が増えていく一方だった。二人の友人は小学校からの付き合いでいわゆる幼馴染という関係である。

 この二人の友人のうち、一方が、あるいは両方とも友人でなくなってしまった場合には、多少の熱意を持って、新しい友人を作ろうと考えるかもしれないが、知り合い以上、友人未満の人間関係から、友人に繰り上げ当選するわけでなく、新しい知り合いから一気に友人の関係までになりたいと思っている。それは、太郎が、自分で今の人間関係を作ってきたと自信を持って言えるからで、太郎と周囲の関係が、初めてにしてはうまくできていると実感しているからである。他の人間がどれだけ、人間関係に力を入れてきたか、知りたいという欲求も密かにある。だからこそ、今の人間関係を変更したくない。一人動かすことで、大幅な人間関係の変更を余儀なくされるからで、周囲が変わるということは太郎自身の立ち位置にも変更が必要とされ、面倒ごとになりかねないからである。人間関係の景観美、太郎はそれに満足している。


***


 助さんの提案通り焼きそばパンを求めて外の駄菓子屋兼パン屋に出かけることにした。助さんと角さんが何やら昨日のSNSでの話を再燃させて会話している。当然、太郎の失言というか、失敗談である【めたこ】の話になる。

「太郎があんなにテンション高かったの珍しいよな」

「そうそう、あまり見ないよね、酔っぱらってた?」助さんが茶化し、角さんがさらに煽る。

「それは朝反省したから勘弁してくれ」

朝一番でそれを思い出したことを隠すことなく伝えてしまった。

「めっちゃ反省してるじゃん」ははは、と角さんが笑う。

「なんだっけ?目の上にたんこぶ?」

「目の上『の』たんこぶだよ」助さんがぼけたのかわからないけれど、太郎は訂正する。

「オレ文系じゃないからわかんね」

「それ理系文系関係なかったころの勉強内容でしょ」今度は角さんが突っ込み、確かに、と助さんが頷く。

「何で高校生になると文系と理系と分かれるんだろ?」

授業中に太郎の頭の中で話題になった話になったので、聞いてみた。

「勉強をやりたくないから?頭のキャパが足りないから?」

「単純に得意分野を伸ばせってだけじゃないの」

「なるほど、仕事に向けてか」助さんを無視して角さんと話す。昨日の太郎の夜ばりのテンションで助さんはぼけているがいつも通りだ。

「そういえば、」と昨日の夜から少し気になっていたことについて聞こうとしたところ、

「それじゃ、スポーツや芸能人は何系だ?」というまた意味不明なボケが助さんから出たところで、店に到着し、狭い店の中だけれども思い思いに昼食の選び始めた。


***


 三人で昼食を食べていると【帰りに少し話したいことがあります】というメッセージがあった。

この二人の他の親しい人と言えば、太郎には恋人がいる。同じ高校ではなく、塾で知り合った高校二年生の女の子だ。四ヶ月前の年明け早々に、その女の子から告白され、返事をし、付き合うことになった。塾で同じクラスにいることは知っていたが、ほとんど話したこともなく、知り合い未満の関係であった。だから、好意を寄せられていることなど、告白されるまで気づかなかった。

 今まで二度告白されたものの、一度目は転校していく女の子から去り際に手紙を受け取り開けてみたらラブレターであり、返事もできず終わり、二度目は仲の良かった女の子からの電話越しでの告白であったが、後ろから数名の女の子の声が聞こえてきたことから、恥かしさゆえに断ってしまった。一方で、告白したことは一度もなく付き合ったこともなかった。その時、その時の人間関係に変化が及んでしまうのを恐れていたからである。それでも今回付き合うことにしたのは、今の人間関係とは別のところから湧いてきたもので、変更はほとんどなく、新しい人間関係を築けることに大いに期待したからである。また、二年後に家を出ると決意している今、新しい人間関係を築くことや人間関係を変更することになれておく必要があると思っていたのも事実だ。

 こんなことを彼女や周囲の人間にストレートに伝えてしまうと変な誤解を生んでしまいそうではあるが、正直なところ、何の接点もなかった人間に「付き合ってください」と告白を受けて、太郎自身も彼女も周囲の人間もハッピーになれる理由を作れるほど、太郎はできた人間ではなかった。


***


 塾が終わると最寄の駅まで二人で歩き、電車に揺られながら、学校で起きたことや勉強のこと、など他愛のない話で盛り上がる。しかしながら今日は様子が違っていて、塾の始まる前に送られたきたメッセージのことが頭をよぎる。今まで、どんなに真剣な話でも、話す前から宣言されたことはなく、最近の彼女の様子や彼女とのやり取りを思い出しながら、【分かった】という返事を送っていた。

 五月に入り、暖かくというよりはむしろ暑い日も増えてきていて、制服の上着を脱いでいる学生も多くなってきた。

 塾のロビーで暑い、とワイシャツの首元を掴みパタパタと風を送っていると、彼女がやってきた。塾でいつも一緒にいる彼女の友人三人と話しながら歩いて、その話す表情や仕草からはいつも通りの彼女を感じさせた。彼女が、また、と友人三人と別れ、こちらにやってきた。彼女と付き合い始めてから、彼女の友人たちとも顔見知りになり、会話をする機会も幾度となくあった。太郎は彼女の友人たちにに軽く挨拶をしてから、さて、と緊張感を持って彼女を迎える。

「さあ、行こうか」

やはりいつもどおりの勢いで、彼女が言い、太郎の前を歩き始める。心配しすぎていたのか、と少し気が楽になり、彼女の後を歩きはじめる。と、その時であった。

「…………」

 花子が何かつぶやいたような気がした。最初は、音が太郎の耳を駆け巡り、そのままどこかへ飛んでいってしまいそうであったが、何とかその尻尾を掴み、言葉を認識した。もしかしたら別の言葉であったかもしれないし、二つの別の言葉同士がくっついてそう聞こえたのかもしれない。しかし、昨日、太郎がSNSで使用した言葉と音感が良く似ていたため、ドキッとした。その言葉の音源の方へ耳を澄ますが、そう何度も聞こえるわけもなく、声は雑音へと変わっていった。

 前へ行く彼女に追いつきながら、太郎は、何か気持ち悪いような感じがした。太郎は、人間関係をネットワークのようにイメージしていて、ウェブの語源であるクモの巣を具体的にイメージしている。太郎が中心にいて、そのクモの巣を形作る人間の微妙な変化を感じ取るのである。新しい糸を張ったり、多少の微調整を図りながら、クモの巣を運営する。

 今、そのクモの巣に何か得体の知れないものが引っかかった気がした。太郎が人間関係に自信があるが故に感じる不安感。実態のない何かが、どこからともなく、太郎の城に侵入を果たした。


***


 彼が追ってくるタイミングがいつもより遅い、彼が何か逡巡していると考えてしまうのも、そんな些細なことに敏感になってしまうのも、花子が出したメッセージが原因であると分かっている。そもそも、そんなに重い内容ではない。会話の中でそれとなく切り出せばすむものであると思うが、花子はとにかく誰かに悩んでいることを伝えたかった。それがあの、【帰りに少し話したいことがあります】というメッセージになってしまった。兎にも角にもこの重い雰囲気を早く解消するため、隣に追いついてきた太郎の方を向き、花子は切り出した。

「太郎君、あのメッセージのことなんだけど……」

「ああ、うん。歩きながらでいいの?」唐突過ぎたのだろうか、太郎が少し驚いたような声を出し、その声がおかしく花子は微笑みながら言う。

「うん、全然大丈夫。あのね、そんなに緊張しなくて良いよ。そんなに大げさな話でもないのよ」

「あ、そうなの。とりあえず話してよ」

「あのね、私の学校の友人に華子って子がいるのよ。もう小学生の時からの友人で、クラスが分かれることが合っても、中学も高校も同じ。話したことあったっけ?」

「いや、ないね」

太郎がほぼ即答する。太郎は花子が話したことのある友人の名前は大体覚えているようで、花子に対する興味からなのか、そもそも太郎の持つ特技なのかはいまだ不明だ。ただ、人の名前を覚えるのが得意というわけではなく、たとえば、近所の鈴木さんというおばさんの話をしても覚えていることはないようで、どういう覚え方をしているのか少し不思議ではある。

「私が唯一親友と思っている子なの。小学校の時はよく遊んだわ。中学校になると、それぞれで友人を作って少し離れてしまった感じはあるけれど」

花子が思い出にふけりそうになってしまっているとき、太郎は、うんうん、と話を聞いているようではあるが、それよりも本題へ入って欲しい、というようなどうにも表現しにくい表情になっている。これに気づくまでに、花子は時間がかかったが、今では太郎の表情の中でもトップ3に入るよさがある。

「ああ、ごめんごめん。で、その華子なんだけど、いじめのような扱いを受けているらしいの」

「いじめ?」太郎は怪訝そうな表情をする。

「あのね、私もクラスが違うから詳しくはわからないのだけど、クラスで省かれているみたい」

「えっと、『いじめをうけているらしい』というのは、誰かから聞いたって事?それともその状況を見たの?」

「華子の友人から聞いたの」

「なんで、その人は花子に伝えてきたの?」

花子はその時の状況を思い出そうとする。

塾から駅まではほとんど直線コースで、五百メートルほど先の突き当りを右に曲がればすぐ駅に着く。二十二時近くになり、辺りの明かりは街灯だけではあるが、同じ塾帰りの学生も多く、友人同士で話す声が盛んに聞こえるため、あまり暗さを感じさせない。

駅まで残り七、八分で花子はこの話を終わりにして、明るい話で太郎と別れたい、そう思いながら続きを話し始める。

「なんで、……か。華子と話しているときに、何度かその子、園子っていうんだけどね、その子。園子と会って、華子と私が小学校以来の友人ということを話していたからかな。園子と私は顔見知り程度だと思う。そのいじめっぽいことは、前からあったらしいのだけど、園子と他の子が華子を助けてあげていたから、園子はそれほど深刻な状況ではないと考えていたらしいの。でも、今日の昼休みに何かひどいことを言われて、華子が泣いてしまったみたいなのよ。いじめが始まってから、華子が泣いたことは一度もなくて、これが初めてのことだから、園子たちなりにはフォローしたらしいのだけど、できたら私にもフォローして欲しいって言ってきたの」

「なるほど。」

太郎が少し困ったような表情をする。それもそうで、花子は事実を伝えただけで、太郎に何かして欲しいというお願いはまだしていないからだ。まだ、というよりも、今の花子は太郎にお願いできることは何もなかった。

「ああ、うん、でね。話といっても、今日はこれで終わりなのよ。ちょっと悩み事があるということを伝えたかっただけなの。えっと、英語で言うとシェア?」

「シェアね。そうだなぁ。今のところ、その華子さんの助けになってあげて、くらいしか、僕にはいえないかな。華子さんが言われたひどいことって何だろうね。」

「うーん、私も園子さんに聞いたのだけど、園子さんも何て言われたか聞き取れなかったらしいのよね。周りの子も同じ。華子に聞いても答えてくれなかったようで。」

「今までどんな扱いを受けてきたかわからないから一概には言えないけど、泣くのだから、よっぽどひどいことを言われたんだよね。」

太郎は冷めてる。最低、むかつく、などいじめている側への敵意や嫌悪感などが一切ないコメントをする。このような真剣な話をしたことがなかったので、花子にとって見ても初めての経験で、太郎の違った一面を見れた気がする。

「華子とはPCでチャットしたりするから、今日ちょっと話してみるよ。」

「その言われたひどい言葉に触れるのは避けた方がいいかもね」

「そうね。私もそう思ってる。今日のこの話はおしまい」

「また何かあったら相談してよ。でも、意味深のメッセージはちょっと勘弁。心臓に悪いわ」

「ごめんごめん。相談はさせていただきます」

花子は、ふざけた感じで軽くお辞儀をして言った。ちょうど、突き当たりにたどり着き、駅前の明るい景色が、二人を向かえた。

その後花子は、小学校の頃近所の花壇でいたずらして華子の母親に怒られたことや、中学校で同じバドミントン部に入ってダブルスを組んだことなど、思い出話を太郎に聞かせたのだった。


***


 次郎には友達が沢山いる。そのほぼ中心部に自分がいることに喜びを感じ、次郎より楽しい人生を送っている人間がこの世にいるとは思えなかった。これから今以上に多くの友達が増え、もっと雑多な人間関係の渦の中で、大いに盛り上がり、華々しい人生になる予感がする。いや、予感でなく、確信している。どんな友達ともうまくやり、どんな友達といても自分が中心にいると信じて疑っていない。勉強もでき、スポーツもできた。中学でつまづいてしまったこともあり、落ちぶれてしまっていることは事実ではあるが、それでも友達は見捨てずに今でも一緒にいてくれる。友達に感謝するのと同時に自分の自信の支えとなっている。

 今日も部活が終わった後、友達とカラオケに行き、二十一時までファーストフードで話をしていた。部活といってもたいした練習量もなく、話といってもたいした内容はない。ただ、友達と一緒にいて騒ぐということに幸せを感じている。その後もすぐに家に帰宅するわけでなく、コンビニエンスストア、公園など、色々なところに寄り道をして、家に着いたのは、二十二時半を回ったところだった。次郎は母と二人暮らしである。母はまだおきているようで、リビングの明かりはついているが、帰宅の挨拶もせず、自室に向かう。

 かばんを部屋の隅に放り投げ、そのままベッドの上に寝転がる。制服のポケットから携帯を出し、操作する。学校のSNSを開くと、先ほどまで一緒にいた友達がすでに何人かログインしており、チャットを開始している。次郎もすぐにそれに加わる。

次郎は、チャットをしながら、今日の出来事を思い出す。いつもと同じく楽しい一日であった、が、一つ引っかかっているのは、ある女の子に言ってしまった一言。次郎の一言のせいで、その女の子は泣いてしまった。その女の子の友達に何をしたのか問い詰められたのだけれど、理由は全く分からない。その場は謝り、その後は友達と気にしていないように振る舞い、笑って過ごしたが、心のうちは、ひどくざわついていた。ただ、もうその言葉を彼女に向かって言わない、とそう誓った。


***


 太郎は、一週間後、先週以上に驚くメッセージを花子からもらう。

「華子が自殺した。どうしよう。」

 太郎のここ一週間の記憶、どこを探しても、あの最初の相談以来、華子の名前を聞いたことも、いじめについて新しい情報をもらったこともない。どうして突然、そんなことになるのか、全く分からなかった。電話をかけても花子は出ない。

「大丈夫?電話して欲しい」

そうメッセージを送ったものの、一向に花子から返事はない。ふと思いついて、太郎は、花子の学校のSNSを覗いてみると、それらしき書き込みが多数あった。飛び降り自殺、警察が来てる、学校休みだ、等々、断片的に情報が読み取れる。太郎は、学校の授業も上の空で、あらゆるサイトで、それらしき情報を集め、学校が終わると、再度、花子に電話をかけてみたが、電話には出ない。

休憩時間、助さんと角さんと話している時に話題になった。

「ニュース見た?四角高校で生徒が自殺だって。」

「ああ、見た見た。またいじめか?そういえば、太郎の彼女、四角高校じゃない?」

「そうなんだけど、連絡取れないんだよね」

太郎の言い方が悪かったせいか、二人の目が、お前の彼女じゃないよな、と暗に聞いている感じがして、太郎は答える。

「いや、彼女からメッセージが入って、それ以降連絡が取れないってことな」

「よかったあ。どうしようかと思ったぞ」

「塾には来るかね?」

「どうだろう……正直、状況がわからないし、なんともいえない。」


***


 部活を終えると、いつもより駆け足で、塾に向かう。花子からいまだ連絡がないので、太郎は心配になる。中学の時の同級生で、四角高校に行った知人にもメッセージを出してみるが、連絡は来ない。中学の時は仲が良かったが、今では疎遠になってしまっているので仕方のないことである。他にも何名か顔が浮かんだが、こんなことがあってから、突然連絡を取るほどに近しい存在ではない。彼女の友人が自殺したという状況のときでさえ冷静に、自らの人間ネットワークを微修正していることに気づくが、こういった非常時だからこそいつも以上に『クモの糸』の強度判定に利用ができる。

 塾に着き、クラスの部屋に行っても、四角高校の生徒は誰も来ていなかった。机にかばんをおき、ペットボトルのジュースを飲んでいると、花子の友人の三人がクラスに入ってきた。花子はいなかった。太郎は立ち上がり、三人に話しかける。

「あの、花子は?」

「それが、今日うちの学校で自殺があって……」

「それならニュースで知ってます。あと花子からメッセージもきました。」

「そう……ああ、で、花子なら、警察から話を聞かれてて…」

「その後、帰るところ、私見かけたよ。太郎君に連絡ないの?」

「何度かメッセージを送ったり、電話をかけてみたのだけど、連絡が取れなくて」

「自殺したのが、彼女の中学時代の友人らしくて、花子、ひどく落ち込んでたわ。」

「彼女自身が怪我をしたとかではないから良いのだけど…太郎君、ちゃんとフォローしてあげてね」

「ああ、はい」

ここでも花子の情報は得られなかった。


***


 塾が終わると、その足で、花子の家に向かった。花子のことが気がかりで、今日中に言葉を交わしておきたかった。花子の家には、何度か訪れたことがあり、場所は知っている。四角三角駅から十五分ほど歩いたところで、そう時間はかからない。

四角三角駅を降り、十分ほど歩いたところで、メッセージが入る。

「連絡取れなくてごめん。私は大丈夫。落ち着いたら電話する。」

いつもは絵文字満載のメールも、一切絵文字がない。これで、絵文字無しメールは二回目だ。太郎は、心臓に悪いと思うものの、花子からやっと連絡があって、ほっとした。

「分かった。いつでも連絡して」

メッセージを送って、ふーっと息をつく。なんにせよ安心、とりあえず安心だ。本当は顔を見たかったが、メッセージでやり取りをしてしまったし、今日は退散することにする。引き返そうとしたところで、公園が目に入る。公園の入り口の横には、花壇が広がっている。

先週、花子から聞いた話を思い出す。

(ここで、華子さんとふざけて、怒られたって言ってたっけ。)

何度か通った道なのに、気にも留めず、あることさえ気づかなかった花壇が花子の思い出話によって、ようやくスポットライトを浴びる。

そのとき、後ろから声がかかる。

「どなた?そこで何をしているの?」

コンビニエンスストアの袋を持った中年の女性が立っていた。

「ああ、すみません。花壇を見てました。」

太郎は、なぜか謝ってしまう。

「昨日、花壇を荒らしたのはあなたじゃないでしょうね」

太郎はあらぬ疑いをかけられ、必死で否定する。

「ああ、いえ、僕がここに来たのは一ヶ月ぶりくらいなので、僕じゃないです。すみません、失礼します。」

ややこしい話になる前に退散するに限る。十mほど歩を進めたところで、振り返ってみると、中年の女性は、太郎としてたのと同じように花壇を見つめていた。


***


 次郎は、自室で放心状態になっていた。今朝、学校に行くと例の女の子が自殺をしていたのだ。一週間前、彼は、もうあの言葉を言わない、と自身に誓っていたが、次の日の友達のノリによって、粉々に砕け散り、その夜後悔し、また誓いと、毎日同じことを繰り返し、果たすことはできなかった。そして、彼女が自殺してしまうという結果になってしまった。

(俺だけが悪いんじゃない)

周囲も明らかに楽しんでいたし、友達だって、次郎と例の言葉を繰り返し言っていた。

(俺が殺したのでもない)

それでも次郎は、恐ろしくて、習慣となっている学校のSNSを覗くことすらできずにいた。

 玄関が開く音がし、母の声が聞こえた。先ほど、コンビニエンスストアに明日の朝ごはんにする食パンを買いに行ってくる、と次郎に言いにきた。母は、次郎の学校で、自殺事件があったことしか知らない。

 次郎は、遊びほうけているものの、母親には迷惑をかけたくはなかった。中学の時、出来心でタバコに手を出し、部活も追い出され、確実といわれていた高校受験も、内申の影響で失敗してしまっていた。そのとき、母親にかけた迷惑を今になっても忘れられずにいるものの、決めたことにまっすぐ向かうことのできない性格が邪魔をして、何一つ孝行できずにいる。

 いじめのことを、いじめの首謀者が次郎たちであることを、自殺した女の子を泣かせたことを、クラスの誰かが教師や警察に言ってしまったら、次郎達はどうすればよいのか頭がいっぱいで、眠れそうになかった。


***


 桂は、今朝の自殺に関する経過報告書を部下から受け取り、目を通していた。最近になって、学生の自殺が増え、桂の所属する管轄内だけでもこれで三件目になる。自殺でもなんにしても、子どもの遺体を見るのは嫌なものだ。桂にも、中学生になる娘がいて、自殺の事件があれば、学校ではいじめられていないか、殺人の事件があれば、夜遅くなるな、と口うるさく言ってしまう。最初のうちは、分かっているよ、と返事が返ってきたものの、はいはい、とそっけない返事になり、今では、うざい、の一言で片付けられてしまう。妻にも、少し言いすぎよと釘を刺されているが、こうした現実を見るたびに不安になってしまうのは仕方がないものではないか、と思ってしまう。きっと妻であっても、他の親であっても、テレビドラマのような綺麗な死体ではない、首、腕、足があらぬ方向へ曲がっていたり、一部欠損しているような悲惨な現実を突きつけられては過剰に心配してしまう、と自分で自分を納得させる。

 今回の事件は、自殺としてほぼ決まっている。遺書も見つかり、飛び降りたと見られる学校の屋上、遺体となった学生の身体にも争った形跡は見られない。ただ、自殺に至った原因については、いまだ分かっていない。学校の校長、担任の先生や、自殺した学生の親に少しだけ話はできたが、本格的な聞き込みは明日からになる。

「栄、これどうだ」

「どうも何も自殺で決まりでしょう」桂の右前に席を置く栄は、自分のPCに向かいながら、答える。「遺書が残っていて、自殺、事故というのは考えられないでしょう」

「美馬、遺書には何と書かれていた」

「報告書を読んでくださいよ」

美馬は素っ気無く答える。娘もこんな大人になってしまうのだろうか、と思いつつ、報告書に目を落とす。

『生きているのが嫌になりました。ごめんなさい、お母さん。お母さんのせいではありません。』

おや、と思う。

「この学生、父親はいないのか?病院にも来なかったな?」

誰ともなくたずねると、美馬が答える。

「三年前に離婚しています。それも報告書に書いてあります。」

美馬は、三十代前半で、まだまだ若い世代で、現代風の若者である。桂は、口頭でのコミュニケーションが望ましいが、美馬は主にメールベースのコミュニケーションを好んでいる。

「母親は今どうしてる?これは報告書に書いてない」

「昼間、病院で話を聞いた後、一度自宅に帰ったのではありませんか。その後どうしているか我々にも分かりませんよ。」

「後追い自殺なんてないよな」

「桂さん、そういう不吉なことは言わないでくださいよ。悪い癖ですよ」

「単にリスクを述べただけだよ。明日もう一度、母親に事情を聞きに行くから、栄一緒に来てくれ」

栄がうなずくのを確認すると同時に、美馬がノートパソコンを閉じるのが目に入る。

「失礼します」

時刻は十九時ジャスト。美馬は帰っていった。


***


 太郎が自宅に着いたのは、いつもより一時間遅く、22時を回った頃だった。親に何をしていたか問われたが、友人と話し込んでしまった、と説明をし免れた。夕食を食べながら、母親に四角高校の自殺について聞いてみたところ、テレビのニュース番組で取り上げられていたようだ。助と角と同様に、彼女の心配をされたが、大丈夫、とだけ答えておいた。

 太郎は、おおよそ大体の人間関係は親に伝えてあった。特に隠す必要もないと考えていて、聞かれたら答える、聞かれなくても太郎が面白いと感じる人のことは伝えた。親との人間関係も良好で、普通の高校生と比べたら、オープンな家庭だったと思う。ただ、おおよそ大体の、というのも、些細な本当にどうでもいいことは伏せていたし、あえて嘘をつくこともあった。伏せているものに関しては、話すタイミングを見計らってのことで、嘘をついたことに関しては、これから先も嘘を貫こうと考えているものである。嘘は、嘘だと知っているものから見れば偽りで、嘘だと知らないものから見れば真実である。真実と思い込ませるために多少の真実を交えて伝える。嘘がばれる、ばれないというスリルとは異なる、嘘を真実と思い込ませるスリル、これを体験するためにも日ごろから誠実である必要があった。そうでなければ、疑われてしまう。嘘かもしれない、と思われたら負けだ。太郎にはこれがとても面白かった。

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