271/英雄より

――「境界域」。


 暗黒大巨神が振り上げたニ擊目の鉄槌で、まさに「祝吉屋」を粉砕しようとしたその時だった。


 球体世界「構築物コンストラクテッド・歴史図書館ヒストリア」の頂天を貫き、千変万化する百色の稲妻、降雷す。


 現れた電光は銀のナイフを手にしていて。


「どぅえい! どぅえい! どぅえい!」


 陽気なノリに満ちていた。


 ノリと勢いのまま、暗黒巨神の頭頂から股間まで一気に切り裂いてゆく。


 暗黒大巨神、揺らぐ。「祝吉屋」への第二擊、撃てない!


 無彩限の少女は「境界域」の大地に着地すると、スカートをなびかせながら一歩、二歩とバックステップで暗黒大巨神との距離をはかった。


 その間合いの調整は、何か大規模攻撃を仕掛ける前の準備のようで。


 アンナ――夢守永遠が僅かに陽毬、アスミに視線を向けた。


 彼女からすると、夫の母と、孫の妻である。


 まなざしは先人への敬意と継ぐ者への温かさに満ちていた。


「もう~、ひとつ!」


 遠距離から、横の斬撃。


 光が刃となって、暗黒大巨神をさらに切り裂く。


 先ほどの縦の斬撃と重なり、暗黒大巨神に十字の光の跡がつく。


 その十字の中心点に向かって。


「『ザ・プリンセス・オブ・ザ・フレイム』」


 夢守永遠は紅蓮の和弓を構えた。


 一九六三年にヴァルケニオンをとらえた光の矢が、再び「境界域」で暗黒大巨神を照射する。


 「炎輝姫」の別称は、「転想の矢」である。


 言葉はリズムを刻み、音は踊り、意識の支配を離れ、異なる事象へと変化してゆく。「転想」は「転送」となる。


 光に包まれると、暗黒大巨神は「祝吉屋」へと転送された。


 機動温泉旅館・祝吉屋の内部も、また一つの「境界域」になっている。これで、「墓地ネクロポリス」の「犠牲」は「祝吉屋」へと全て移したことになるはずだが。


 一瞬だけ場に訪れた、静謐の後。


「『何か』に、逃げられた」


 アンナがこぼし、上空を見上げる。


 「構築物コンストラクテッド・歴史図書館ヒストリア」の天頂近くに、黒い影が一つ。


 マントをたなびかせる「男」が浮遊していた。


 暗黒大巨神の中心から、「転送の矢」が到達せんとする間際に離脱した、男――白髪の美丈夫だ。


「初めまして。スヴャトポルク/宮澤新和の縁者たち。君たちの協調は愛に根ざしていて、それは実にくだらないものだ」


 「何か」――、「男」――、その「存在」が何者であるかに最初に気づいたのは、陽毬だった。


「お写真を、拝見しておりますよ。歴史に刻まれた、あなたですから」

「そう。僕は歴史の勝者で、『犠牲』の代弁者だ。君たちの愛を、糾弾する者だよ」

「息子とは、知己だったということで?」

「すれ違っただけさ。一度、そう、一九六〇年。ソビエト連邦第一宇宙開発局で」


 陽毬がその「存在」、「人類の英雄」の名を告げた。


「ユイリィ・ガガーリン。あなたほどの人でも、道を違えることがあるのですね」


 ユイリィ・ガガーリン―一九六一年に旧ソ連が打ち上げた人類初の有人宇宙船「ヴォストーク1号」の搭乗者。――


 生まれついての勇気と、明晰な知力と、驚異的な勤勉さと、そして手にした栄光を讃えられた者。――


 そして、そんな人類の「進展」の道を記した「存在」でさえ、「世界」を切り開いた七年後に事故死することとなる――人間。


「ありがとう。宮澤陽毬。そして、愚かだよ。罪を帳消しにできる、そんなことを考えてしまっているのだろう?


 栄光の果てに、僕は死んだ。『進展』という夢の終わりの『犠牲』が僕だ。僕は『進展』を目指しながら逃走し、家族なんて『日常』に殉じた宮澤新和を許さない。僕のような『犠牲』の上で成立する、新和が守った『日常』を許さない。


 罪は消えない。『犠牲』は人類を、世界を許さない。僕はその『破滅』こそを愛している。全て『破滅』に至りさえすれば、ようやく世界のどこにも『犠牲』は出ないのだから」


 ユイリィの身体が黒い光に包まれる。


 「この世全ての犠牲ネクロス」の暗黒とはまた異なる。彼自身のオントロジカの色――黒色。


「目的は達した。ここにはもう、用はない。最後の駆動力を暴発させ、大願に至るとしよう」


 ユイリィは『何か』を握りしめている。


「さらばだ。愚鈍なる欠陥存在――『犠牲前提・人類』たちよ」


 そう告げると、ユイリィは飛翔し、光の速さを超える暗黒の速さで、球体「境界域」――「構築物コンストラクテッド・歴史図書館ヒストリア」の天井を突破して、大宇宙の戦場へと向かっていった。

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