250/過去編――二〇〇七年~この世でもっとも確かなもの(過去編・了)
砂塵の中で、スヴャトとヴァルケニオンが向かい合っている。
スヴャトの身体は既にボロボロで、知恵も、体力も、技術も、武器も、全て撃ち尽くしていた。最後に、体一つ、心一つだけが残った。
強大なるヴァルケニオンが、スヴャトに向かって前進を始めた。いかなる原理によるものなのか、老い、今まさに擦り切れようとしているスヴャトに対してヴァルケニオンの身体は若く、強く、触れる者全てを挫かんとする傲岸さに満ちていた。
ヴァルケニオンの右の直突きが無造作に放たれた。重さも、スピードも、スヴャトよりも優れた、否、この地球上の何者よりも優れた一撃であった。
それでもなお、スヴャトはその勝者の右ストレートをダックしてかわし、ヴァルケニオンの腹部に左拳をあてることに成功した。
全てを失ったスヴャトの体に残されていた「動き」は、幼い頃に父の兵司から仕込まれていたこの「型」。宮澤流柔術の奥義、「
「虎龍決破」は、相手のどんな動きにも付いて行く。そして、「必ず相手より先に相手に触れることができる」という奥義である。
だが、そこまでだ。
拳をあてるだけでは、人は倒れない。スヴャトは次の瞬間にはヴァルケニオンの返しの左のボディーブローで宙に飛ばされていた。
全身がバラバラになるような衝撃が身体をかけ巡り、
大地に叩きつけられる間際、かろうじて受身を取るが、そのまま膝を落とす。臓腑は破れ、骨は砕かれた。勝敗は決した。スヴャトはもう、動くことができない。
勝者――ヴァルケニオンはスヴァトに止めを刺すべく、左の掌を向けた。
あの一九六三年の戦いと同じように、対象を検索して
「網……か。どこまで覆うつもりなんだ? 人を支配し、街を支配し、国を支配し、次へ、次へ。その果てに、何があるというんだ?」
スヴャトの問いを前にして、ヴァルケニオンに迷いは見えない。
「何があるかだと? いいだろう。我が何を成したのか、教えてやる」
不遜の
「我が『網』は、ついに地球の全てを覆うことに成功したのだ。そしてそれを一世紀に渡り維持できる質・量のオントロジカを集め終えている。いよいよ、始まる。大部分の間違った存在をきっちりと淘汰し、優れた上位の人間が栄えていく『正しい』メカニズムで駆動する世界ッ。それは言うなれば『真実の星』ッッ! 偉大なる達成だろう? 嗚呼、美しいなァ!」
高まるヴァルケニオンの演説に、スヴャトは極めてナチュラルな体で異論を挟んだ。
「そうじゃ、ないな。一見つまらなくて、くだらなくて、そういう存在が、『外』の世界を経由して、時間を超え、場所を超え、「誤って」人に、街に、国に、星に、届けられることがある。そんな「過ち」の伝達こそが、世界を彩ることもある。分からないか?」
「くだらん。そんな敗者の弁明、全て勝者の前に蹴散らされる。お前の頭の中にだけある妄言だ! 誰にも分からんさ!」
「そうだな」
(我が生。分かっては、貰えなかったかもしれない。それでも、守りたいものは見つけたよ……)
勝者が強大な「
「美しき『真実の星』を惑わす不穏な断片こそが、一九六三年に我が遭遇した謎の光だ。正しく作られている王の星を惑わす
――それだけは、看過できないかな。
いきり立つヴァルケニオンの覇気をよそに、スヴャトの内面は静かに、冷たく、落ち着いてゆく。
愛おしいこの心境は。しんしんとアカリが降り続ける「S市」の冬の雪景色のごとしである。
(だったらワシは、お前の言う正しく完成された世界に、あえて「過ち」を残そう)
スヴャトが顎鬚の認識阻害のリボンに触れると、一振りの日本刀がスヴァトの腰に携えられているのが世界に知覚されるようになった。甲剣の「破認」の刀・「氷王」である。
「そういうこと、言うと思ってたんだ。だがね、貴様はワシの一番大事なものに辿り着けはしない」
長い旅路であった。
その人生の終焉で、宮澤新和/スヴャトポルクが守りたいと思ったものは――。
彼がこの世界で手に入れた「この世でもっとも確かなもの」は。
――家族。
(笑える。何て卑近で、ありふれた拠り所なんだろう)
「氷王」の鞘を強く握りしめる。
「『特別』な人間になりたい? 嘘だ」
愛せる父と母。愛してくれる父と母の元に生まれた。その時点で自分は十分「特別」だった。
「世界を救いたい? 嘘だ」
この世界で愛するアンナに出会えた。だから世界は救うものじゃなくて、ただそこに愛を見つけるものだと分かった。
「片隅に光る微細なオントロジカを収奪から守りたい? 嘘だ」
娘のカンナへ。ただ、君を愛している。
「全て偽物のお題目。でも、一つだけ……確かなものを見つけたんだ」
孫のカレンとジョーへ。幸せをありがとう。いつかお前たちに訪れる「過酷」に、負けないでほしい。
「ヴァルケニオンよ。お前はワシの『家族』に辿り着けないよ。ワシと言う存在の記憶は、この世界からなかったことになるから。ワシと関連づけられた家族の存在も、お前は知覚できなくなるから」
――それだけは、守りたいと思えたんだ。
スヴャトは「氷王」を抜刀すると、逆手に持ち変えた。
これが、弓村の「
スヴャトは勢いよく、「氷王」で己の心臓を貫いた。
刹那。場に爆発したのは全てを認識する「永認」の「
これが、現在、過去、未来。そして全ての可能世界からから己の存在を完全に抹消する「奇跡」――「
「無色」の光に包まれながら――。
宮澤新和という人間の命が世界から消えていく。
(曇りなき 心の月を 先立てて――なんて、Parodyだ。お似合いだ、辞世の句も借りものでイイさ)
スヴャトポルクという人間の生きた証が世界から消えていく。
(浮世の闇を――それでも僕が消えた後も、「家族」がこの世界で生きていてくれる。それが、幸せだ)
宮澤新和/スヴャトポルクという存在の物語が世界から消えていく。
(照らしてぞ行く――最後は笑おう。アンナと出会わせてくれた。家族と出会わせてくれたこの世界よ、ありがとう)
「無色」が現在、過去、未来。そして全ての可能世界に伝播し、「滅認」の奇跡が収束する頃、場には砂塵と、彼のことも、彼の家族のことも忘れたヴァルケニオンが佇んでいた。
男はこの世界から消えて。男の家族は守られてこの世界で生きたのだ。それが、この「過去」の物語の終わり。
宮澤新和/スヴャトポルクという男の物語は「自殺」という結末で幕を閉じる。
彼という存在に墓標はない。
この世界のどこかに、静かに振り続ける雪の心象があるだけだ。
/過去編――二〇〇七年
/過去編・了
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