169/ミスチルの二枚目のシングル(第八話・前編・了)
人類の文明が、地下に広範囲に及ぶ空間を作ることを可能にした。外界とは距離があり、外の熱が緩和された地下鉄駅構内という空間は、街という生態系の盲点のよう。やがて移動する音を残響させながら下りの地下鉄が到着したので、ジョーとアスミは乗り込んだ。夏休みの時期にしては、一車両まるまるが空いている。二人、車両の隅に並んで腰かけると、地下鉄は徐々に移動を開始する。
「震災の本震から数日の頃なんだけど」
アスミがポツポツと語り始めた。
「沿岸地域側にビール工場があるじゃない? あそこが被災して、沢山のビールが津波で流れ着いてね」
アスミは、こくり、こくりと首が頭を支えるのが重くなってるという
うん、とジョーが相槌を打つと、アスミはボンヤリと続けた。
「地域の人達とか、お父さんが、そのビール拾ってきたのよ。で、飲んでた。私は飲まなかったんだけど。でも、何かね……」
アスミにしては特に目的もオチもない話で。地下鉄から二人が下車する頃には、泡のように消えてしまう類の話。
「私のお父さん、凄い! ってその時思ったの」
そう言って当時を思い出しているのだろう。微笑すると、アスミは瞳を
「まあ、ビールって栄養もあるしな……」
ジョーなりに気の効いた返しをしようと思ったのだが。
(寝てる)
スぅ、スぅと呼吸で胸を上下させるアスミは、柔和だ。
(家族のことを話す時のアスミは、幸せそうだなぁ)
それは、かけがえがない。
まず、温情という感情を感じ、続いてジョーが、アレ? と思ったのは、抑制する気持ちを抱いたから。それをやっちゃダメだっていう、自制の気持ち。
ジョーがどんな気持ちを抱き、そして抑制したかといったら。ジョーはこの時、眠れる幼馴染、アスミって女の子を、抱きしめたいと思ったのだ。
ガタン、ゴトンと、地下鉄が揺れている。
まだ、とまどいが半分。なんだろう。自分はこの気持ちをいつから持っていたのだろう。今の出来事が過去の意味合いを変えてしまうこともあるから、そういうのはたいてい曖昧な話。でも、震災の日の夜。近づいてくる同盟国の戦艦の報道を聞いていた頃だ。社会の枠組みであるとか、建前、外部からの自分という存在への干渉が外れて、宮澤ジョー個人としてのこれからのことを考えていた時、ジョーは確かにアスミのことを思い出していた。
ジョーの心臓の鼓動が早くなる。S市の地下鉄は環状線じゃないから、ずっと廻り続けることはできなくて、いつか終わりは来る。でも、どこかで確かに願っている。世界を守りたい? 勝ち抜ける強さが欲しい? 確かに思ったこともあったけれど。そうじゃないんじゃないか。宮澤ジョーって人間がもう長いこと継続して持っている、大切な気持ちっていうのは。その気持ちがあるから自分は温かい存在でいられるって気持ちは。ずっとこうしてアスミの側にいたいって、それだけなんじゃないか。
やがて終わりが来るとしても、再び構築し、できるなら壊れる前よりも少しだけ
自分の本当の気持ちに気づき始めたのは、男の方が少し先だった。
/第八話「夢星」・前編・了
第八話(後編)へ続く
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