110/月光のなかで

 同じく、一度川に落ちたのだろう。濡れた服で、髪から水滴を滴らせたまま、アスミもジョーを見つけた。


「大丈夫か?」

「大丈夫じゃないわ。身体動かしちゃったから、『月の光の力』、溜め終わらなかったもの」


 ジョーがアスミを引き起こすために手を貸そうとすると、アスミは片手をあげてそれを拒んだ。


「優先順位を付けましょう」


 自力で立ち上がりながら、アスミは炎の中の機構怪獣と巨大蝶を遠望する。アスミの言葉には、現在は敵のみならず、志麻も破壊をもたらす存在になっていることが含意されている。


「まずは蝶女王と巨大蝶、そして残りの怪人たちを倒す。次に志麻を落ち着かせる。この順番でいきましょう」


 こんな時だが、きびきびと状況を整えて把握し、絡まった糸を一本にほぐして見せるようなアスミの思考に感心する。ジョーとしても、少しだけ頭がスッキリした気がする。


「優先順位はそれでイイが、どうする?」

「ジョー君はムっちゃんを探して。私は『ハニヤ』で何とかしてみるから」

「『月の光の力』を溜めるの、失敗しちまったんじゃないのか?」

「うん。あと二分二十二秒くらいだったんだけどね。そこは六割の力で起動して頑張るわ。何か私の人生、こんなんばっかだったわ。余裕が欲しくて前もって色々やっておこうと思うのに、想像を絶する破壊的な出来事は予想を超えた規模・タイミングでやってくる」


 ジョーは、人生って言葉は重いな、と思った。またアスミに共感もした。ジョーも自分の余力ではどうしようもないような出来事がいきなりやってくるってことは、経験してきた方だから。今だってそうだ。


「でも、ま、準備不足な状態なりに、破壊的な出来事には立ち向かうしかないのよね」


 アスミは少しの間、仰ぐように天を見上げると、おもむろに髪をツインテールに結んでいた藍色のリボンを解いた。ジョーがあっと思った時には、思いのほか長い黒髪が、風になびいていた。


 少女の、外の他人には見せない姿。ジョーの記憶でも、ジョーの瞳に映るアスミはいつも髪を両サイドで束ねたツインテールで。


 しかし同時に、不思議なことにこの髪をほどいて月光に照らされる少女の姿に既視感を覚える。ジョーの脳裏にフラッシュバックしたその、目の前の黒髪ストレートになった少女と似た人は。


(アリカ小母さん)


 アスミと再会した時「遠くに行ってる」と聞いていた。そのまま、ジョーの認識の空白になっていた人。でも今、昔日に想いを馳せれば確かに幼少時の記憶に存在している人。アスミのお母さん。空瀬からせアリカに今のアスミは似ている。自分は何故、今までアリカ小母さんのことを忘れていた。今、アリカ小母さんはどこにいるんだ。


 ジョーの意識が過去に向おうとした時、目の前のアスミが不思議な言葉を口ずさみ始めたので、ジョーの意識は現在に引き戻される。


(詠唱? アスミも使うのか)


「何で出来ている? 何で出来ている? 無謬むびゅうの勇者に立ち向かう、孤獄こごくの王の体は何で出来ている? 出来ていた。出来ていた。孤獄の王の体は、虚体きょたいで出来ていた。間違ってる。間違ってる。そんな存在は間違ってる。その通り。その通り。それゆえに王は、誤謬ごびゅうの身一つで立ち向かう」


 詠唱が終わると、アスミの身体はひとしきり薄くなった。流麗な黒髪は、美しさを保ったまま灰色に近く。生き生きとしていた衣服から伸びていた手足の肌色は、耽美な骸骨がいこつのような白色に近く。やがてその存在に、朧な月の光を纏い始める。


「『月光のハニヤ』」


 ここにいるのに、どこかとても遠くにいる。アスミが纏っている光は、認識を狂気にいざなっていく。今、この場所でちゃんとアスミひかりを見てるはずなのに、その光はどこか遠い場所から時間差で送られてきていて、実体を反映していない。ジョーが見ている光は真実の仮想に過ぎない。そんな感覚に囚われる。


「アスミ、大丈夫、なのか?」


 ジョーは頭を振って意識を覚醒させて、ようやっと言葉を絞り出した。怖い。今、矢継ぎ早に言葉を浴びせて問いただし、ジョーが感じている、目の前のアスミという存在の違和感をはっきりとさせてしまったら? それをしたならば、信じていた魔法が解かれてしまうような気がする。


 アスミは、手に持っていたツインテールをとめていた二つの藍色のリボンを、ジョーに投げてよこした。宙に舞ったリボンを掴みとると、こちらには確固たる存在感がある。自分は夢を見ているわけじゃないのだと、ジョーは意識を持ち直す。


 アスミはジョーに向かってはにかむと、やがて浮遊を始めた。アスミは頻繁に笑う女ではなかったけれど、それでもこれまでに何度か微笑を向けられた記憶はある。しかし、今はいつもと違って長い黒髪を流しているからなのか。たった今アスミが見せた表情は、今まで見たことがない別人のものに思えた。


「志麻が苦しんでいるのが『自分は生きていていいのか?』ということだとすると、私は『最初から生きてない』の。だから私のことはあまり気にしないで。今までありがとう、ジョー君」


 アスミはそう言い残すと、ジョーに背を向け、地獄の中心である機構怪獣と巨大蝶が向かい合っている場所に向かって、飛んで行ってしまった。


 先ほどの「風」の技を使った飛行とも違う。その高速は鷹のように鋭く、近代的な飛行機のように安定していたが、一方でどこか、幽霊の浮遊を連想させた。

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