滅びゆくネトゲに魂を捧げよう
スランプマン
ルピナス・ストーリー・オンライン
「私の願いは...好きな人とずっと一緒に居る事かな」
少女はパソコンに向かって呟いた。
黒く濁った空気が立ち込める小さな部屋に、カタカタとキーボードを打つ音だけが侘しく響いている。
12月10日、時刻は午前7時。
冬の朝はまだ薄暗く、冷ややかな空気が
夢想という名の、体全体を浸していた羊水は目覚まし時計の音と共に弾けて消えた。
水軌は自室の扉をゆるりと開き、急ぎ足で階段を降りる。
自身の足音が、母と父の寝室に響き渡っていないか、自分の思慮が足りない行動を反省しながら鏡で自分の顔をチェック。
誰もいない、誰も使っていない早朝のリビングは、まるでオモチャの模型のようで、自分は今小さい人形として誰かに操られているんじゃないかと感傷的になってしまう。
寝癖がなっていないか、目にゴミは付いていないか丹念に確かめて、玄関前に予め準備し、置いていたバックの中を探る。
昨日夜遅くまで取り組んだであろう課題はちゃんと入っているか確認を。
それにしても水軌の脳内はネバネバと、スライムのように粘着してくる眠気に、べったりと纏われていた。
眠い、眠気のせいで昨日の事がうまく思い出せない。
昨日やった筈の課題が随分昔に見えるくらいだ。
確認し終えた後、水軌はバックのチャックを閉めて、持ち手を肩にかける。
普段は雑音を構成する1つでしかないチャックを閉める音も、閑静とした水軌の家に隅々まで響き渡る。
自分が今、人として機能しているのか分からなくなる程密やかなその空間は、ただ呆けていると自分の魂が何処かに行ってしまいそう。
水軌は「行ってきます」と呟く。
それは寝室へ寝ている家族に向けてではなく自分の体に向けて、まだ半分微睡んでいる体を奮い立たせようとする儀式みたいなものだった。
ぬめった眠気に冷水を添えて、玄関の扉を開けようとした時、中途半端に履いたスニーカーが足に不快感を与えてきた。水軌は一度止まって腰を屈み履き直し、気を取り直して扉を開くと、安寧という膜に包まれた街の一部分が顔を出す。
何故かこの街は自分に対してこれでもかと疎外感を放つ。だから水軌はこの街が嫌いだった。
例えばカルピスと牛乳を混ぜた時、最初だけは上手く混ざった様にも見える。
然し時間が経つと、2つはお互いの重さに耐え切れなく、上下に分離してしまう。
水軌はどうしても、上へと浮いてしまうのだ。
そして街を覆うように張っている膜は、とてもとても薄く、触れただけでパチンと切ない音を出して破れそうな雰囲気を醸し出している。
ふと空を見ると電線に足を乗せた小鳥達が、水軌を見下げていた。
細い細い紐の上に体重を預けて、決して水軌の手が届かない高い所で、小鳥達は悠然たる面持ちで人間を眺めている。
その何匹もの小鳥が順番に囀って、美しい鳴き声がまるでやまびこの様に反響しているようで麗しい。
水軌は体一杯に空気を取り込む、綺麗な森の空気でもなく普通の住宅街の空気だが何故か美味しく感じ、充実感が胸に広がった。
昨日雨が降った為水が溜まり、それが凍って道路はスケートリンクと大差ないほど摩擦抵抗が無くなっている。水軌はできるだけ凍った地面を避けながら広小路に出た。
まだ夜の淡く切ない空気は完全に消えていない。車に付いているライトが遠くから見ると流れ星のようだ。
どうも最近、日本では行方不明事件が多いらしい、そう思うとまだ払拭しきれていない暗い暗い真夜中の
こういった時に一緒に学校へ向かう友人が欲しかったな。
水軌は赤く輝く信号を眺めながら息を吐く。白く輝く自分の吐息はふわりと煙の様に散って舞う。
いつもと変わらず、そしてどこかしら
完全な白色ではなく、数多の人々に踏ん付けられて出来た薄灰色の縞模様を眺めながら水軌は呟いた。
「まるで今の学生みたいだ」
何すかした事を言ってるんだか。
水軌は自分でもよくわからない、人によっては皮肉にも聞こえる言葉を脳内の隅にしまう、早く忘れたい。
1人でぶつぶつこんな事を言ってるなんて、まるで小説の主人公みたいで恥ずかしい。
数十秒前の自分を
さて、気を取り直して横断歩道を渡ろう。
すると水軌の左耳から、車のエンジン音が聞こえてきた。
しかし今走っている車から見た信号は赤、そして今自分がここを通っているんだ、いずれ運転手はブレーキを踏むだろう、そう水軌は考え車には目もくれずゆっくりと歩く。
だが車のエンジン音は鳴り止まない、一定のスピードで音は近づく。
鳴り止まぬエンジン音が水軌の鼓膜を震わせた。
小さな体をめいいっぱい震わせて、水軌に警告する。
異変に気付き水軌は車の方を振り向くが「もう遅い」と言わんばかりにセダンが目を光らせて水軌の腰椎を砕いた。
12月20日午前7時22分、水軌は毛布を乱暴に払いのけ、右手を支えにして体を起こす。
少し粗暴に体を起こしたせいか、折れている4本の右肋骨が更に痛む。
鼻腔から酸素を取り込む度に痛みが伴い、ジワジワと自分の体を苦痛が支配していく。
胸と腹にかけて巻いているバストバンドがとても苦しく、更に呼吸を阻害していた。
目の前に広がる真っ白な毛布とマットレス、そして汚れ一つ無い純白の部屋壁。
しかし今の水軌には、先を見る事も、光を取り込む事も、反射する事も、照らす事も出来ぬ、淀みに淀んだ
10日前に遭遇した、車との接触事故によって受けた被害は肋骨の骨折だけではなかった。
夢から覚めたくない、夢の中の自分はいつも通りに下半身を使って歩いていた。
もう自分の脚は動かないと理解してから4日も経っているのに、ハッキリと脚で歩く感覚を覚えている自分の体が憎い。
夢を見させないでくれ。
後何回、天から地獄へと落とされる感覚を味わえばいいんだ。
真っ白な毛布、真っ白な壁、真っ白なカーテン、病院の個室はまるで絶望色に染まった水軌を
事故により下半身が動かなくなった絶望。
もう歩けない、走れない、普通に生きる事が出来ないと思うと、自分の脳が一瞬で壊死していく感覚に陥ってしまう。
まるで自分はペットケージに閉じ込められた犬の様。
吠える事しか出来ず、定期的に餌を与えられ、定期的に人の手を借りて体を洗う。
自分だけでは何も出来ない、所詮籠の中でしか足掻けない、まるで死ぬ為に生きているみたいだ。その10畳にも満たない籠の中で一生を終える人生かもしれない。
だが真っ黒ではない、まだ可能性はあるのだ。
突然足が動くかもしれない、リハビリ次第でなんとかなるかもしれない。
そんな蜘蛛の糸より何倍も細い希望だけで水軌の心は平常と非常の間を上手く彷徨っていた。
いつ切れるか分からない細い糸、それが水軌とこの世界を結ぶ紐だ。
7日前、七三分けの髪を整髪料でガチガチに固めた、真面目そうな中年の医者が険しい声で水軌に言った。
「君の下半身はもう一生動かないかもしれない」
母の言っていた事とは180度も違う言葉に、水軌の体は一瞬活動を停止した。
視界には沢山もの糸屑のような、蚊のような物が宙を舞う。
確か母は事故から目を覚まして間も無い水軌にこう言った。
「ちょっと下半身が動かなくて不便だと思うけど一時的なものだからね」
母は目を酷く充血させて私語く。
水軌は今気付いた、何故母は目を真っ赤に染めていたのか。
それは自分が助かったからではない。
医者の隣に佇む看護師が顔を伏せる、意地でも水軌と顔を合わせたくない様だった。
辺りに流れる沈黙。
ただ完全な無音ではなく、時計の針の音が部屋に響いていたが水軌の耳には届かない。
視界が徐々に暗くなっていく。
眠気に襲われているような感覚。
また自分は、夢へと逃げようとしているのか。
ドクン、ドクンと心臓が激しく鼓動する。
一体心臓は何の為に動いているのだろうか、もう動かなくなった下半身に血を送り込んでも意味ないだろう、自分で立つ事すら出来ない、便意も尿意も感じない下半身に酸素を送り込む必要は無いだろう。
たった今、
5日前。
12時を回ったばかりの昼間、もう涙も出なくなってしまった水軌は、ただずっとぼんやりと窓を眺めていた。
窓の外で元気に駆け回る小さな子供を、水軌は一体どんな顔をして見ていたのだろう?
羨ましいという思い、それとも自分をこんな風にした車の運転手への怒り、それとももう何も感じないほど水軌の心は衰弱してしまったのだろうか。
病室の中ただ1人、水軌はずっと外を眺める。
何もする事が無い、違う、何も出来ないのだ。
親が暇潰しにと漫画を置いて行ったが、水軌は一切手をつけなかった。
漫画によくある困難を乗り越えるストーリー、考えるだけで
漫画の主人公にはちゃんと足がある、何か特筆すべき優れた点がある。
だが水軌には無い。
手と足を使って困難を乗り越える、しかし水軌には自由に動かせる足が無い。
足が無いのにどうやって前進するんだ?
少し眠気を覚えた水軌は、体に布団をかけ眠ろうとするが、タイミング悪く部屋に誰かが入って来た。
ノックもしない、どうせ親だろうと水軌はそのまま夢の中に落ちようとするがどうも空気がおかしい。
足音が多いのだ、恐らく5.6人程は居るだろう。
水軌は少し胸騒ぎを感じながら体を起こして人が居るだろう方向に顔を向ける。
そこには両親と4人の見知らぬ顔が静かに立っていた。
4人の男女は水軌に対して
ああそういう事か、水軌はすぐに察し、乾いた唇を舌で濡らす。
手に高そうな菓子折り持っている年増の女性は、ずっと下を向いている。
まるで病室の床に何かを訴えている様だ。
装いはしっかりしているものの、髪はボサボサ、目には薄っすらとクマが出来ていて、ろくに睡眠を取っていない様だ。
その年増の女性の右手には、水軌と同学年くらいであろう少女が必死に気配を殺して佇立していた。
年増の女性の娘だろうか、少女の身長は150中盤ほどだが水軌の目からは身長よりずっと小さく映る。
少女からは藍色の絵の具にこれでもかというくらい黒色を混ぜた、草木寝静まる丑三つ時の公園の様な雰囲気が漂う。
少女は水軌の視線を感じとるやいなや、母の肩に隠れてしまう。
小さな顔は肩に隠れてしまい見過ごしてしまった。
そして年増の女性の左手には男が2人。
1人は服の上からでも分かる
髪や髭は綺麗に整えられていて、現代では不潔がちに見られ敬遠される顎髭も全くマイナス要素に繋がっていない。
そしてその男性の左手には、細身で小さく枯れた木の枝みたいな男性が顔を真っ青にして立っていた。
顔には無精髭、目には大きいクマができている、年増の女性と同じく寝てないのだろう。
水軌はこの枯れた木の枝の様な男性を見ると、「あぁ、この男性が俺を車で轢いたのか」と心の中で悟ると同時にある事を思った。
今の自分の状態と似てると。
もう何も出来ない状態、しないんじゃなくて出来ない。
人生には様々な分かれ道があると言う、だが水軌と男性の目の前には行き止まりしかない。
天辺が雲に隠れて見えない程高い高い土壁が、水軌と男性の前に立ち塞がっている。
それにしても、この人の屍のような男性の体貌と佇まいは少し異様であった。
確かに、1人の未来ある少年の脚を、自分の不注意のせいで奪ってしまった、これは尋常じゃない程の自責の念に駆られるであろう。
然しこの男からはそれだけでは無い、水軌の遥か後方で低徊する"何か"に怯え、恐れている様な、そんな気がした。
恰幅の良い男性は畏まりながら一歩前に出て、深々と頭を下げる。
そして口からは謝罪の言葉。
まるで謝罪をする為にこの世に生まれてきたかの様な非の打ち所がない完璧な謝罪の仕方。
だが水軌にとってこの男の謝罪の言葉なんてどうでも良かった。
何故貴方が平身低頭して詫びているんだ?
水軌は、虫の死骸の様な男性から謝罪の言葉を聞きたかった。
頭を地面にこれでもかと言うくらい、擦り付けて欲しかった。
端で情けなく唇を震わせて、全て人任せ、何もせず流れに任せて永遠と、行き止まりで呆然と立ち尽くすつもりのお前だ。
少なくとも水軌は違った、この枯れ木の様な男性を見て変わる事が出来た。
これは怒りなのか、それともショックを受けてただ呆れているのか、身に覚えない感情に脳を響かせる。
すると途端に、水軌の脳のシワ一筋一筋から、神からの啓示であろうインスピレーションが無限に湧き上がる。
強大な高山に進行通路を塞がれても、足が動かなくても手がある、自分の手で掘り進んでいけば良い。
謝罪の後の沈黙。水軌は何も喋らずにただ毛布の純白のカバーを指でこねくり弄る。
俺はこいつとは違う。
こういう奴が、数分前の俺みたいな奴が、いざ障壁を前にして、何も出来ずに生き絶えるんだ。俺は違う、違う、違う。
自分の脚がもう一生動かない? それを決めるのは医者でも神様でも無い、雨音水軌だ。
前にも言ったが、リハビリで何とかなるかもしれないし、突然脚が動くかもしれない、医療だって今現在を境に発達が止まった訳じゃない。
自分も医学も現在進行形で進化し続けている。そんな人によっては極細にも極太にも見える希望の糸に、死ぬまでしがみついてやる。
ついに辺りを覆い尽くす暗黙に耐え切れず、糞袋の様な男性が女々しい声を上げながら泣き出した。
それは水軌の事を思ってなのか、自分のこれからを思ってなのか、それは分からない。
何故お前が泣くんだ、泣きたいのはこっちだ、と水軌は目を伏せる。
御免なさい、御免なさいと濁声で噎び泣き、不快にしか感じない鼻汁を啜る音を病室へ撒布する。
水軌は男につられて泣きそうになるが、必死に我慢した。
これでもかというくらい歯を食いしばり、口の中に鉄の味が充満する。
「これ以上私に惨めな思いをさせるんじゃない!」
先程水軌に対して頭を下げた、ダンディで肉付きの良い男が、
殴られた衝撃により男は壁に叩きつけられ、
男性が壁へと体を打ち付けた拍子にドン、と鈍い音が病室へ響く。
が、水軌にはガラス器のような割れ物が砕け散った時の様な切なくて短い音が体で反響した。
洒落た男は先程こう言った。
これ以上私に惨めな思いをさせるんじゃない、と。
この場で、瓦礫のように崩れている男を除いて一番惨めなのは水軌だ。
結局この男は体裁だけはしっかりとしているが、心の中では自分の事しか考えていないのだ。
そしてこの雰囲気に耐え切れず、水軌と同じくらいの若い娘が走って病室を出る。
黒くて長い髪が
その時、水軌の目は一瞬写った少女の顔をはっきり捉えていた。
形の整った和風らしい綺麗で上品な顔。
その時水軌の記憶が脳の片隅から蘇る。
水軌は驚きを隠せなかった、何故ならあの娘は水軌と同じ高校に通う生徒、面識はないが何度か廊下ですれ違った事もある。
あの枯れ木の様な男性は車の運転手、そして恰幅の良い男性と年増の女性はあの娘の父母か。
それにしても車で送り迎えとはいい身分だ。
恰幅の良い男性はまた日を改めて来ますと言って、もはや枯れ木そのものと化した男を抱えて病室を去っていった。
水軌の頭の中に一つの問題が浮かぶ。
あの鑑藍菜と同じクラスになったらどうしようか、水軌はまだ高校1年生、クラス替えは2回も残っている。
もちろん水軌の事を轢いたのはあの枯れ木だ、あの少女に対しては何も思っていないと言ったら嘘になるが、普通に接する事ぐらいはできると思う。
だが相手は分からない。
いや待てよ、その前にちゃんと学校に通う事が出来るのか?
部屋を照らす蛍光灯がチカチカと、点いたり消えたりを繰り返す、電池式の蛍光灯なのだろうか。
遂に燃料が枯渇して動かなくなった蛍光灯、それと同時に水軌は一旦考える事を辞めた。
時刻は現在に戻り12月20日
何もする事が無く、いや、何もする気力が湧かない水軌はぼーっと自分の手を眺めていた。
足が動かなくなった代わりに、これからはこいつを酷使していかなければならないんだ。
西日の光が窓を介して、部屋へと射し込む。
外で赤々と
その時、水軌の病室のドアから音が鳴る、コンコンと。
どうせ親だろうと水軌は返事をしないでドアを開けてくるのを待ったが、中々入ってこない、どうやらドアの向こうで待ってる様だ。
水軌は不審げに眉を寄せると、
「水軌! 起きてるかー?」
と幼い女の子の声が聞こえる。
声の出処がドアの向こう側でも、はっきりとこちらに聞こえる澄んだ声は、もうあいつしかいない。
ひび割れた乾燥地帯に、大きい大きい一滴の雫が落ちて浸透していく。
「ああ、起きてるよ」
誰か分かった途端、水軌は緩みきった声で返事をする。
何度も聞いたドアの音がこんなに愉快に聞こえるとは思わなかった。
「水軌、久しぶり!」
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