第六章 ツクヨミの汀で
1. 夏休みの企み
ここは月の神が
奇しくもそれは、そのツクヨミと同じ名の緑豊かなドーム都市にあった。
月は太陽とともに、そして実はそれ以上に、植物の芽吹きや農耕と深い関係にあるということが、その理由かどうか定かではないが、ともかく月の神はそのドームを選び、自らとその片割れが鎮まる場所とした。
「ツクヨミ、何だか色んな人たちがここにやってくるみたいだね」
――解るのですか、聡介?
“ベアトリーチェ”として覚醒している分離融合体の優れた知覚ゆえか、ついにこちらの本体にまで――いや、初めて出逢った時から、これはとうに感じていたこと。当初は次の検体の繋ぎとして、いつまでもつかと考えていたのですが……。
そんなことを言ったら、聡介が可哀想。
ツクヨミは泉から湧き出る清水を両手に掬い上げ、指の隙間から零れ落ちる、濡れた感触を一人楽しんだ。……この瑞々しい感触こそがすべて。あたかもそれは、漆黒の闇夜の空で濡れそぼる月の輝きのよう。聡介には、その月の光のような優しさがある。それは決して他を威圧しない、受容に溢れた思いやりの心。だが、その心とて生き物。無下に扱えば硝子のように壊れ、ついには心の臓を刺す冷ややかな輝きと化すでしょう。
――デュナンと、その愉快な御一行。その中には、当然“ベアトリーチェ”もいる。そして、へぇ……龍蛇と化した哀れな海賊皇子。
僕らには瑠美那さんと日の神のように、心身ともに一心同体化してしまう高い適合率はなかった。ええ。その代わり、ここで貴方と私は、それぞれの個体として相対し、こうして存在していられる。それに彼らのような、不安定な反物質的交わり方ではありませんから、たとえ本体と融合体が出遭ったとしても、魂はそれぞれに戻り、あの少女はただの抜け殻に還るだけ。
――心と身体。もしもそのどちらかを選ぶのだとしたら、僕たちは迷わず魂との同化を望んだ。だから、こうして片方だけの融合を完全に果たした。そうだろ、ツクヨミ。そう、私たちは二人で一人。ずっと貴方に出逢えることを待ち続けていました。
聡介は、ツクヨミの慈愛に満ちた眼差しに包み込まれる。けれど月には裏の顔があることを少年はひと時忘れている。二人の会話は、心そのものが直に触れ合うように、双方の頭の中で響き合う。それでも無垢な少年に本当の心を悟られないだけの力が月の神にはあった。
どちらにしても聡介の月の汀との親和性、それこそが私達を出逢わせ、そしてそれ以上に……互いの愛しき者への愛憎の深さゆえに、こうして互いが互いを強く結び合わせた。それが奇跡でなくて何なのでしょう。ツクヨミは密かにその横顔を見つめる。
『瑠美那さんは、どうしてあんなヤツと……』
月神の冷ややかな眸に映る聡介の面差し。それは嫉妬という蒼い炎を燻らせ、今にも相手を刺し貫かんばかり。嫉妬。そう、この私も。覇王に抱かれる快楽に身を委ねる龍蛇の巫女に今、気も狂わんばかりの
――そうだ、もう指一本も触れさせない!
その
密かにほくそ笑む、その眸。
そしてツクヨミ……そうだ。月の神、君を裏切った忌まわしい日神を、僕は決して赦さない――。心地よい、その憎悪の響き。聡介、今は貴方にすべてを委ねましょう。
ツクヨミ――月の神自身と同じ名前のこのヘミスフィアで、二人は招かれざる客人たちを待った。
*
今のところ瑠美那はどうやら、おとなしくしているらしい。
だが、実際はどうだか……、島嶺は思わず鼻白んだ。実のところ問題なのは“もう一人”の個体の方なのかもしれない。だからこそ、あいつらは融合分離したんだ。この場合、瑠美那本体の方がいうなれば影武者だ。今現在、その瑠美那の力を借りて自由好き勝手に動き回っている、分離体――デュナン・リトラス。本当のところ胡散臭いのは、こっちの方だ。
その「龍神」の変身体が、自ら意図してのことなのか、このツクヨミドームへやってくる。そう夏休みだ。なんであの学校は生徒を夏休み中に親元に返さず寄宿舎でもなく、わざわざこっちの合宿寮に寄越したりするんですかねぇ。たまたまとはいえ迷惑千万。ま、そうでなくとも、あいつの鋭い嗅覚のことだ。まちがいなくここを標的に定めてくるだろう。蛇ってのは、それくらい怖ろしく執念深いもんだからな。
だが爬虫類様には爬虫類様へのお出迎えの仕方があることは確かだ。島嶺は思わず口元をニヤッと歪める。
――あいつらが卵を孵してしまわぬうちに。そうだ、瑠美那がこのオーパーツに触れる前に。既に“罠”は仕掛けてあった。
*
「ねえ、先輩は知ってた?」
「え?」不意に訊かれ、リリアンは振り返った。
まるで高原そのものにやってきたように、その日はからっとした爽やかなそよ風が吹いていた。実際はそれ自体が、この季節この時期だからこその、文字通り人工的にあつらえられたものであると知っていても気持ちのいいものだ。その広大なドーム内になだらかに広がる尾根を臨みながら、睦月諒牙は言った。
このツクヨミドームに、あの島嶺助教授の研究室があるってこと。島嶺助教授。沖縄出身という、その人は相当の変わり者らしいという噂がアマテラス校にも広まっていた。そもそも研究室とはいえ、これもかなり変わっているらしい。要するにログハウス、山小屋なのだ。山小屋に研究室? 普通なら一種の違和感を感じるところだろうが、それもこのツクヨミドームならではの話である。そもそもここが一つの巨大なビオトープなのだから。その人工の大自然の中(いや大自然そのものに似せたミニ自然館で)だからこそ、おあつらえ向きな研究内容もあるってことなのだろう。
「生物学か何かの研究なのかしら?」
とはいえ実際に島嶺助教授がしている研究内容については、さすがに誰も知らなかった。ただ、様々な動物種の精子と卵子を日々顕微鏡で覗いているくらいの認識だ。実際、島嶺氏は気さくなところがあり、機会さえあれば度々ドームに訪れた生徒をその山小屋に招いたりしているようだった。
「そんなことより、これからどうするんだ……」
不機嫌そうに呟くデュナンにリリアンは我に返った。
そういえば先輩、この道でいいんでしたよね? 諒牙にまでそう訊かれ、思わず緊張して手元の地図を見直す。
「ええっと。そうね、この先を真っ直ぐでいいはずよ」
しかし、なんとなく雲行きが怪しい。それもそのはず、既にリリアンの目は泳いでいる。リリアン……。どことなく無口なヴェルトーチェカも心配そうに何か言いたげだ。
しかし、新しく出来たという合宿寮への道程を知らされているのは委員長であるリリアンだけである。こういう時こそデュナミスが使えるイオリゲル候補生である諒牙の能力が役立つはずだったが、彼はあえて適当な理由を付けてそれを使わないでいた。だって僕が全部やってしまったら、つまらないでしょ? 悪戯っぽく笑ってあえてその訳を話そうとしない。
ようやく実現したリリアン組の勉強会。夏休みを迎え満を持して、という気がしないでもない。リリアン組、何よそれ。変なネーミングと思いながら、命名した諒牙を恨めしそうに睨んだものの、あくまで無邪気な表情の後輩に、失礼ねとはついぞ言葉に出せなかった。
リリアンを先頭に、デュナン、睦月諒牙、そしてヴェルトーチェカが続いた。ところどころ淡い叢林の続く緩やかな山道とはいえ、さすがに息が切れる。それでも、木々や植物が放つ草の匂いやマイナスイオンなどがそうさせるのか、その荒い息遣いさえ、どことなく心地よく感じられる。
そう、夏だ。始まったばかりの夏の空はどこまでも青く、風は穏やかに丘陵地帯を駆け抜けていく。海もよいが、やはり山もいい。そもそも大地そのものを半ば失ったイザナギにあってこそ、この人工の巨大ビオトープは一つの意味を成している。やはり人の心身は自然の森の中でこそ癒されるものなのだ。
それでも、どことなくリリアンは胸の鼓動を抑えられなかった。こんな風に息が切れるのは、延々と続く丘を登っているからに他ならないのだが、彼女自身にしてみれば、決してそれだけの理由ではなかった。むしろこの状況を利用して、この息苦しさを誤魔化せることができたのが幸いなくらいだ。
自分のすぐ後ろに続く黒髪の少年。表情こそいつも通り無愛想だが、その整った風貌を思うだけで胸が高鳴る。やっと誘えた。勿論、それは彼だけではなかったが、今回の計画は睦月やヴェルが居てくれるからこそ実現できたようなものだ。無論、それは二人とも承知の上だった。決して二人は示し合わせたわけでも何でもなかったが、それでもリリアンの心の内は、すべてお見通しである。それこそデュナミスを使う以前の話だよね、諒牙は思いながら何気なくヴェルトーチェカに微笑む。
「………」
いつも通り無言のままのヴェルの視線に捕らえられ、諒牙は前を行くデュナンに向き直った。
「ねぇ、デュナン。どうして君はいつもあの制服姿なの?」
ふと諒牙にそう訊ねられ、不意にそのまま前方を見据えた視線を鋭くする。
さすがに今日ばかりはラフな登山用の夏服に着替えていた。だが、確かにデュナンは奇異なほど、夏でも長袖の黒い詰襟を脱いだことがない。だからこそ逆に今日の彼の姿が不思議に思えたのだろう。
「……喪服だから、だ」
え? その返答に諒牙だけでなく先頭を歩くリリアンも軽く驚く。そしてその言葉の意味するところの、それ以上の詳細を訊くことが憚られた。どことなく背後の空気が思い詰めている。そう感じて、あらためて彼という人のことを思い巡らす。デュナン、どうしてあなたは――。こうしてあたしたちが誘わなければ、彼はきっと独りきりで、この夏休みを過ごすつもりだったのだろう。何となくそんな気がして結果的によかった、と思った。
そう、私は彼に心を開いてほしい。ただそれだけなんだ。それとも、これって自分の気持ちを無視した単なる優等生的な考え方なのかしら。ううん、きっとそうじゃない。そういうことを全部含めて、あたしは彼のことが……。
――彼のことが。
ああ!それにしたって、何だかもどかしい。そうよ、私はただデュナンに微笑って欲しいだけ。彼の微笑みを見てみたいだけ。そう……それだけで、きっとものすごく嬉しいから。
そんなことを取り留めなく思いながら黙々と歩を進めるうち、
――ぁれっ? 突如、突拍子もない奇声を発したリリアンに、一同ぎょっとして前方を見上げる。そして、「リリアン……あそこ」
最後尾に続くヴェルトーチェカがふと斜め前方を指差した。てっきり新設の合宿寮が出迎えてくれたかと思いきや、林の向こうに目に入ったのは、でんと聳え立っている風変わりなログハウスだった。
どこで道を間違えたのか寮のある開けた丘ではなく、確かにどんどん山奥に分け入っていくと思った。そう誰もが訝しんでいたに違いない。あちゃーやっぱりさっきの分かれ道だったかー。リリアン自身もしまったと思いつつ、それでもかなり来てしまっているのだし、今から戻ったのでは多分日が暮れてしまう。
「ごめんなさい。でもここまで来てしまったんだから、とりあえず行ってみましょう」
そういえば、こんな童話があったっけ。迷い込んだ森の中でみつけたのは、美味しそうなお菓子の家。目の前の山小屋はたぶん、人食い魔女の住む怪しい館でも何でもなくて、勿論ただの無骨なログハウスだけど……。
「もしかして、あれって……」
それでも口を開いた諒牙にびくっとする。噂に聞く例の島嶺助教授の研究室じゃ――。
そう言い終わらないうちに、背後からおーい、とどでかい声を掛けられ皆、思わず振り向いた。
「おまえら、どっから来た?」
樹木の間に見えたのは、熊でも日焼けした雪男でもなく、ニヤッと悪戯っぽい笑みを浮かべた野生児そのままの、それこそ無骨な中年男だった。
*
島嶺黎司、四三歳。沖縄県出身。二ヶ月前に沖縄ニライカナイドームの天照大付属高校より転勤、現在はアマテラスドームの天照大海堂教授チームの元、ここツクヨミドームの特殊研究所にて主任研究員として勤務。助教授。
データとしては、こんなものか――、あっさりとした口調の日神に反し、あたしは思わず声にならない声を少年の中で出した。『叔父さん!』
あれ以来、もうしばらく会うこともないとは思ってたけど。でも確かに島嶺叔父は二ヶ月前、アマテラスに転勤していた。だから、こういう再会も決してありえないことではなかった、っていうか。
むしろこの場合、あたしの方がおかしなことになってるんだよね。それも見た目はデュナンだから、あたしの方で分かっても、叔父さんの方では、あたしだとは全然分からない。当然だがむしろ、もっともその方が都合がよいのかもしれないな――、
ルミナスの言葉に、とりあえず相手に気を許してはならない、と言われていたことを思い出す。でも、どうして。なぜ叔父さんが。それは、これから徐々に明らかになっていくことだ。あくまで冷静なルミナスの言葉に、なぜだかまた少し怖くなる。
もしかしたら、叔父さんが以前からしていた研究って……。
――それがどういうものか分かっていたら、お前はこの叔父を許しただろうかな。その言葉に、背中に得体の知れない戦慄が走る。それってどういう意味?
――いや、お前の父親も……。え?
だが、それ以上、日神は答えなかった。
*
「なんだ、うちの大学の学生だったか」
正確には付属高校の生徒ですけどね。諒牙の指摘も余所に、がははと豪快に笑う島嶺を皆で囲んで談笑する。もっとも、正確には専ら話をしたのは諒牙とリリアンだけで、あとの二人は相手から何か話しかけられる時以外は、ほとんど黙っていたのだが。
確かに見た目はログハウス風の作りをしていたが、中は結構広く地下設備もあり、研究室という呼び方に相応しい室内だった。ここで島嶺助教授は、数名の助手の研究員とともに日々を送っている。いや、しかしここはいい所だろ。沖縄の海もいいが、例え人工物でも山も悪くない。まぁ二ヶ月ちょいいるだけの新参者の俺なんかより、ここの学生の君たちの方が、ここのことはずっとよく知ってるだろうがな。
島嶺は、そう愉快そうに言うとマグカップの中のコーヒーを飲み干した。皆が通された事務所兼、応接室は見るからに雑然としていて、ここだけでこの研究所の様子があらかた垣間見れた。それでも山小屋風の高い天井には、自然の木肌そのままの大きな柱が悠然と横に渡してあるのが目に入った。
「そうだな、今日はここに泊まっていった方がいいだろうな」
「ご迷惑でしょうが、助かります」
いやなに、あんたらみたいなべっぴんさんを放っておけないからなー。そう言いつつリリアンとヴェルトーチェカにウィンクしてみせる。ったく、どこに行っても変わらないんだから。そうデュナンの脳裏で呟くも、やっぱりあたしの心は晴れなかった。っていうか、知りたい。叔父さんのしてること。でも、やっぱり怖い……。
「島嶺先生は、やっぱりここで生物学か何かを?」
「ああ、ここの研究のことか」
好奇心旺盛な諒牙が無邪気に質問する。確か君はイオリゲル候補生の……はい、睦月諒牙です。ははは、まさかここのことを既に透視したりしてるんじゃないだろうな? ま、見られて困るようなことはしてないつもりだが。あはは、大丈夫ですよ。むしろ島嶺は、いたって余裕で一笑する。
そんな三人のやり取りの中、まるで示し合わせたように相変わらず沈黙しているデュナンとヴェルトーチェカ。夕闇の迫る山小屋で、その二人の間だけが自ずと静寂に満たされている。パチパチと爆ぜる暖炉の火。周囲の会話に耳を傾けているようで……その実、何も聴いていない。そんな不可思議な感覚が押し包む。
――こいつは、未だに何も見えない。
目の前で黙りこくる“同類”を、それとなく盗み見る。
それをずっと奇異に思ってきた。確かにそれを言えば、デュナミスを操れるイオリゲルである睦月諒牙もなのだが、それ以上に。前者はイオリゲルといえど、ただの人間。だが、こいつは。どこか不自然なほど張り詰めた、だがその実、核のようなもの実体が何もない空洞の無機物のような。そんな異様な感覚。
だが今は、この島嶺黎司だ。日神はターゲットを一つに絞った。
*
とりあえずリリアン一行は島嶺の研究室で一晩を明かすことにした。それぞれ男女ともに割り当てられ、案内された部屋へ向かう四人。デュナンの中で久しぶりの物言わぬ再会を叔父と果たした、あたし瑠美那も、どことなく複雑な思いを抱いたまま黒髪の少年の姿で、未だ暖炉の火の爆ぜる談話室を後にした。
「そうだ、デュナン君」
不意に呼び止められて振り返る。島嶺はまるでよく見知っている身内に話しかけるように言った。俺には可愛い姪がいてな――、そいつがどえらい御転婆娘でな、正直結婚相手が見つかるかどうかも怪しい……ってのは、ほとんど冗談だが。
「なぜ俺にそんな話をする?」
そう素っ気無く返すデュナンに島嶺は、せせら笑いながら伝えた。
「何となく、あんたが面白そうな人間に思えたからさ」
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