2. 篠崎聡己

 やっぱりフツーの女の子だ。


 ルミナス第二期、第一話のアフレコ台本を貰って一週間。会わせたい子がいるからって、監督直々に頼まれて会ってみれば……。それも、まるでこの第一話のアフレコ収録に合わせるかのように、あれから一ヵ月後に。


 何だか釈然としないものを感じながら、篠崎は目の前で膠着しながら席に着く同年代の女の子を何気なく見つめた。


 あのイベント後、恋人である僕に一言の説明もなく、ひとみは再びどこかに姿を消した。自宅マンションのチャイムを押しても何の反応もなし……。


『ルミナスだけじゃないですからね、彼女は。新曲録音に次のツアーの打ち合わせの合間にグラビア撮影に諸々各種取材……』


 そうだ、僕たちの事務所であるシャインプロモートとも繋がりのある円城寺女史の言葉通り、新進若手女性声優は常に多忙なのだ。ほんの一ヶ月会えないなんてこと、今さらどうってことない。


 でも、何かがおかしい。イベント最中に同じ作品の共演者として話した以外、そのステージ終了後、プライベートな瞬間に戻っても結局、彼女は一言も発することなく沈黙していた。でも、確かに彼女はそこにいた。朗らかに笑うその笑顔はいつも通りだった。なんだ、何事もなかったじゃないか。思わずそう安堵してしまうほど、あまりに自然にそこにいた。なのに……。


「伊勢崎ナミさん。初めまして、僕がルミナス役の篠崎聡己です」

 ……正直そう名乗るのも怖ろしかった。それなのに、どうしてこんなにすんなりと。


 それに目の前の“少女”(確か一つ年上と聞いていたが、彼女はまさにそう形容するのに相応しかった)の瞳が何気なく発する何かが、まさか僕をこんな気持ちにさせるなんて――。


    *


「初めまして……ルミナス役の篠崎聡己です」

 正直、何も言えない。感無量というのは、このことを言うのだろう。


 とはいえ、あたしは今目の前にいる、この人の熱烈なファンというわけでもない。ただなんというか――とにかく目の前の人気男性声優が発する物言わぬオーラのようなものに、ただただ圧倒されて。


 そう、オーラだ。あたしがこれまで認識してきた“声優さん”というのは、割と素の一般人の雰囲気に近いというか、確かに芸能人の一端ではあるのだが、その存在自体が、あたしにとっては、まるきりの芸能人そのものとは意味合い自体からして全然違っていた。つまり一般人に限りなく近い芸能人――いや、というより芸能人という呼び方自体に何か違和感が……それより何より「声優」という何か一個の特別な。それくらいの、何とも形容しがたい親しみ、親和感があったのだ。


 そう、あたしたちオタにとっては特別なんだ。声優も、アニメも。いわゆる、“あたしたち”だけの、あたしたちだけが安住できる“聖域”ってやつか。


 その“声優さん”である篠崎聡己。デビュー当時の記憶は定かではないけれど、それでも数年前に某人気作品で火がついてからは、結構有名どころ人気どころの男性声優の一人だった。確かにそれほど目立つ存在ではなかったけど。ルミナスもそうだが、主演作が男女ペア主人公の場合、必ずといっていいほど相手役の個性を消すことなく、むしろ引き立てる性質の役柄を演じることが多い。それは彼自身の柔和な声質に、もしかしたらその理由があるのかもしれない。


 その彼が今あたしの目と鼻の先、手を伸ばせば、すぐにでも届く距離にいる。驚いた。こんなに色白だったっけ? ていうか、目の輝きが半端じゃない。どこが一般人に限りなく近い、だよ。やっぱり今時の声優……ってのは――やっぱりすごい。


「は、はじめましてっ」――伊勢崎ナミです……。

 そう挨拶を返すのが精一杯だった。


    *


『やっぱり“お祓い”くらいは一応しとかないとマズイかな』


 竜崎氏が柄にもなく、そんなことを言ったかどうかは定かではない。それでも、あたしと篠崎氏を会わせる口実として、どうもそんなことを提案してきたことは確かなようだ。じゃ一期の時はどうだったんだよ。勿論、形ばかりのものだろうし、それ相応のことは何かしたんだろうけど。どっちにしろ、アマテラスその他、日本の神様を題材にしている本作だ。その手の神社は五万とあるんだろうし、一応、そこの神様にご挨拶くらいは済ませておかないと罰が当たるだろう。


「私と竜崎監督、それから篠崎君と水澤さん、それとあなた――」


 円城寺氏にそう名指しされ、またしても、なんでっていう思いにかられる。が、こうなったら、もう何でもあり、である。今さら何を疑問視したところで何も変わらない。それよりルミナス役の篠崎さんには何て説明するんだろう。それに――。


 それに、それより何より……水澤ひとみ。


 結局、彼女はあれから何事もなく退院したという。あたしはそう聞かされた。でも、ルミナス役のこの人は、そのことを知ってるんだろうか。いや、そもそも。彼女があの病院の地下で昏睡状態にあったことを知っていたんだろうか。


「ごめんね、突然のことでびっくりしたでしょ?」

「は、はあ」


 篠崎氏は当然のことのように、そう気遣ってくれる。一体監督にどんな風に説明されたんだろ。どっちにしろ、あたしたちはこの日、天照大神を祀る、とある神社にメインスタッフらとともに出向くことになっていた。


「でも、伊勢崎さんがルミナスのファンでよかった」

「え?」


 なんていうか……僕としても一声優として、作品に理解を示してくれる人が一緒にお参りしてくれるというのは、純粋に嬉しいというか。名前が伊勢崎さんっていうくらいだから、きっとそちらの関係の方だとは思っていたんだけど。


 ああ。でも、あたしんちは伊勢の神宮様とは何の縁もゆかりもないんですけど……。無言でそう否定する。でも、それだけで何の疑問も持たず、あたしを出迎えてくれたこの人の邪気のなさに、逆に何だか感動する。だけど、なぜだか不思議に……。


 そう、不思議にあたしはどことなく翳りをまとった不吉なこの人の横顔に惹かれる自分を感じていた。どことなく……何だか、ほっとけないような。


 それは、ルミナスに惹かれるのとはまた別の感覚だ。二次元のアニメキャラと現実にいる人の違いであるのだし、当然何もかも違っていて当たり前なんだけど。でも、この人の優しさ柔らかさ、そしてあたたかさは、ルミナスの冷たさ鋭さとは相反するものだ。それなのに――なぜだか導かれる場所は一つ、同じ場所のような気がする。彼が持つ優しさは、その儚げな空気のような雰囲気は、どこか今にも消え入りそうな……そうだ。いつしか彼はルミナスに取り込まれてしまう。そう、存在自体が、まるで始めからなかったように。


 嫌だ、あたし何考えてるんだろう。なんて怖いこと……。


「どうしたの?」


 怪訝な顔をして、あたしを覗き込む篠崎氏に気づき、思わずドキッとする。本当に綺麗な眼をしていると思う。真っ直ぐで飾らない、純粋そのものの瞳の色。オタクとしてファンとしてというより、一人の人間として彼を見ている自分が、いつしかここにいた。


    *


「お祓ぃ?」


 未玲は怪訝そうな顔つきで携帯画面を視つめた。さっき送った、あたしからのメール文だ。しかし、どうやら未玲の所には、そういった類の連絡は竜崎氏たちから一切入ってきていなかったらしい。で、当然の如く、あたしの携帯が次の瞬間けたたましく鳴った。


『ナミ、お祓いって何よ?――あたしんとこには、そんな連絡なんにも来てないよっ!』

「……そ、そうなんだ」


 思わずその語気の荒さに苦笑いしつつ、それでもやっぱり心配してくれる未玲をとても嬉しいと思う。参加者は、あたしと篠崎氏、それと竜崎監督と円城寺女史、そして水澤ひとみ他、数名スタッフ。


「相澤はともかく、なんであたしが呼ばれてない?」


 助監督の相澤と一緒にされた(というか、単に相澤は現場を離れられなかっただけなのだが)というより、サブ脚本家といえど自分がないがしろにされたことが……勿論、何より一番の心配事はナミのことだったんだけど。きっと竜崎たちは、あたしが来ると色々面倒だから、とでも思ったんだろうけどさ。


 ぶすっとした声で携帯越しに鼻白む未玲。確かにそうかもしれない。

『きっと大丈夫だから……』

 何となく今回はそんな気がして、そう未玲をなだめるも、

「そんなわけないじゃない!」

 当たり前のように大切な旧友は、そう食い下がる。


「あんた、この前一体どこに連れてかれたと思ってんの? 水澤ひとみが入院してた病院でしょ……その水澤が何で参加リストに載ってんのよ!」


 未玲はあたしから聞かされてた。あの水澤ひとみが昏睡状態にあったってこと。勿論、それからすれば、一体どういう奇跡が起きて彼女が目を覚ましたのかって話になるのは当然だ。それについては、あたし自身だって未だに半信半疑なんだから。


 でも、確かに水澤ひとみは目を覚ました。だって現に今こうしてここに、あたしのすぐ目の前にいる。未玲からのTELはすぐ切れた。勿論、あたしから聞き出した神社のある場所へ赴くためだ。


 未玲、今回は本当に大丈夫だよ。だってあたしは、彼(と彼女……)を守らなくちゃいけないんだから。……不思議にそんな気がする。例えあたし自身が、得体の知れない何かに飲み込まれていくのだとしても。邪も聖も一緒くたになって混沌とした、果てしない闇に吸い込まれていくのだとしても。そう、あたしだけは……。


『――大丈夫だよ』


     *


 都内の一角にある、大きくも小さくもない、とある神社。さすが天皇家の祭神だけあって天照大神を祀る神社は数多い。その総本山は当然のことながら伊勢神宮である。その全国各地にある、珍しくもない平凡な神社のうちの一つ。なのに、どうしてこんなに緊張するんだろう。まるで、何かに呼ばれているみたい……。


 朱塗りの鳥居を潜って境内に入ると、そこはもう一種の聖域だ。別にちっとも珍しくない、本当にどこにでもある神社の風景。鬱蒼とした小さな鎮守のもり。社殿まで続く参道の脇で静かな水音を立てる手水舎。玉砂利が敷き詰められた地面を踏みしめるだけで、何となく、心持ち精神が改まり清められる。


 時折聞こえる、雄鶏の声。静まり返った辺りに染み渡るように、午前中の朝の空気を震わせるように。


 そこに集う男女5人。竜崎、円城寺、あたしと篠崎氏、そして水澤ひとみ。と、数名スタッフ。何やら神妙な空気に合わせ、誰もが口を閉ざして静まり返っているのが何だかおかしい。予め用意してあったのか、「ルミナス・コード緋の記憶」と、まことしやかに筆で書かれた札が、いかにも霊験あらたかそうな風情で、両側に置かれた御神酒と榊の葉枝とともに祭壇に祀られている。


「水澤君の調子は大丈夫なのか……?」

 ふと竜崎が皆に聞こえぬよう、小声で円城寺に訊ねる。

「ええ。本調子に回復するまでには、もう少し時間が必要でしょうけど」

「……にしても。よく話を合わせられたものだな」


 水澤、篠崎両名の隣でかしこまる、あたし伊勢崎ナミを見て竜崎は無表情の半笑いを顔に貼り付かせた。

「水澤さんと篠崎君の件に比べれば、お安い御用ですよ」


 確かに。彼女はこれまでと同様、大いに疑問を差し挟んでもよいような状況下の中、それでも一切を拒否するような素振りは見せなかった。まあつまることろ、それが出来ないような何かの引力が働いているということなのかどうか。それはともかく、水澤と篠崎の二人の方が、よほど危ういといえば危うい。


 何しろ既に「抜け殻」と化していることも知らず、彼は彼女が何一つ変わらぬ姿で帰って来たと信じて疑わずにいるのだから。そもそもそれが、“彼女”が傍にいるおかげだとは露知らず。つまり、このまま彼と彼女の間柄を無事に存続させるためには、“彼女”の存在が不可欠、ということになる。まぁそのうち……本末転倒と言っては何だが――彼は彼女ではなく“彼女”を選ぶことになるのだが――。


 彼女のことを信じて疑わない彼のすぐ横で、自分たちは、なんていう企てをしているのかと正直この身を疑う。だが……。


 そう言えば、そうだったな。アマテラスも、そしてその産みの親のイザナギ、そしてイザナミも皆が皆、龍蛇だった。そのどこかおぞましくもある祭神を祀った、まっさらな神聖という皮を被ったこの祠へ参っている時点で……。


 腹の底から、どこからともなく湧き上がって来る、黒々とした嗤い。人というのは一度壊れてしまうと、どうしようもなく残酷になるものだな……そう内心で思いながら、どことなく絶望にも似た心持ちで左手に並ぶ三人の若い男女を舐めるように一瞥する。


「ひと……、水澤さん。こちらは今回ご一緒させて頂く、伊勢崎ナミさん」


 篠崎氏が紹介すると、水澤ひとみは小首を傾げる様にして、あたしに視線をやった。その眸は確かに光を宿し、以前と変わらぬ微笑を口元に浮かべると、こんにちは。と、徐に小さく口を開いた。でも、何かが変だ。輝くような若さと美しさは以前と何ら変わらない。でも――。


 なんだか異様な空気が彼女自身を取り巻いている。きっとそう感じているのは、あたしだけじゃない。隣で何となく落ちつかなげに、どことなく不安げな表情をしている篠崎氏がいる。ひとみさん、きっと彼女が心配でたまらないんだ。だけど……。


 あたしは、彼女から彼を奪わなければならない。彼女を媒介として彼と繋がって、その向こうに続く誰かへの道を開くために。え? 今、誰かが何か言った? ――あたしの中で、誰かが囁いた気がして、ふと身震いする。


 でも、大丈夫。きっと大丈夫。そしてもう一人の誰かが、あたしの中で囁く。何だか“あたし”という核を通じて、あたしの中で誰かと誰かが言い合っているみたいだ。相変わらず水澤ひとみは、妖しい微笑みを前方に傾けている。誰も見ない、何も見ていない、虚ろなその眸。


 ――嘘だ……!

『伊勢崎さんがルミナスのファンでよかった』

『作品を理解してくれる人が一緒にお参りしてくれて……』


 自分が発した一言一言に微妙な嘘が混じっている気がして、人知れず思わずかぶりを振る。伊勢崎さんは、今日ここに来るべきじゃなかった。なのに。一体何を怖れている? そうだ、何かを怖れているから、監督に言われるまま、今日僕はここへ来てしまった。彼女だって……そう、ひとみも。


 ひとみ? しかし、今目の前にいる彼女は一体誰なんだ。確かにひとみは以前と変わらぬ様子で僕の傍に戻ってきた。だけど……。だけど、彼女はひとみであって、ひとみじゃない。不思議とそう感じるんだ。なぜだ、どうして自分は彼女、伊勢崎さんに偽りの微笑みを浮かべる。どうして何事もなく接していられる。どうして、彼女を今日この場に居合わせた。どうして、どうして……。


 落ち着きのない奇妙な疑問ばかりが、ぐるぐると脳裏を巡る。俺はただの一声優。そう、ただの。そうであれば、どんなに、よかったか。


『――あなたは、選ばれた人間なのよ』

 ……そう、ルミナスに。ルミナス? 誰だ、一体誰なんだ。


 そう問うたところで、誰も答えてくれはしない。マイク前で台本を構えた途端、“アイツ”が降臨する、ただそれだけだ。そして、いつしか自分は自分でなくなる。それが半年間続いて、そして……ヒロイン金城瑠美那を演じた水澤ひとみは、自分の目の前から姿を消した。


 それなのに今こうして、二人は再び出逢った。ルミナス・コードという悪夢の作品を介して。


     *


 タクシーを拾って、取り急ぎ“その神社”へと向かう。


 どうにも解せないことばかりだが、今回もやっぱりおかしいと思った。何しろ昏睡状態にあった水澤ひとみ。その話が本当なら、一体どうやって彼女はそんな植物状態から目を覚ましたっていうんだろう。そしてそこへ案の定、何の脈絡もなく参加させられる友人のナミ。しかも、今回はあたしに一言もなく。ただのお祓いの儀式なら別にどうだっていい。だが、作品が作品だ。ルミナス・コード――やっぱり何もかもが、どこもかしこも怪しすぎるよ。


 釣り銭を貰うのももどかしく、あたしは車を降りた。未玲、来ちゃダメだ。正直、携帯で話した時、ナミは心のどこかでそう言っていた気がする。だけど、黙って見てられない。ナミがルミナスに関わること自体、絶対におかしい。


 なのに、どうして……毎度のことながら、そう思う。どうして、あたしたちは結局この作品のクビキから抜け出られないんだろう。あたし自身、断ろうと思えば断れた。でも……。それにナミだって……逃げようと思えば逃げられた? 違う! ナミは「逃げられない」んだ。少なくともそう思う。――だからあたしも、逃げない。逃げることは決してできない。


 鬱蒼とした鎮守の杜の手前に立つ神社の拝殿が見えてくる。玉砂利を蹴り、息を切らせて鳥居を潜り。すると、神妙な空気を震わせるような、厳かな祝詞の声が聞こえてくる。どうやら、もう始まっているらしい。


 ハァハァと息を弾ませ、祭殿の前に立ち並ぶ皆の背後に立ち止まるも、静まり返って神主の唱える祝詞に耳を澄ます皆には、その足音は聞こえていないようだ。差し当たって何の異常も見受けられない。本当にただのお祓いの儀式なのか。


 ふとその気配に気付いた円城寺が、ちらと何気ない一瞥を未玲に投げるも、何事もなかったかのように再び目を閉じる。しばらく未玲は一部始終を静観することにして、呼吸の激しさが収まるのを一人待った。


 ルミナス・コード、か。アマテラスという幻のまほろばから降臨した、光の守護神。主役級のルミナスはそういう設定だ。で、沈没した日本はいにしえの神の名イザナギと名前を変え、その繁栄の場であった陸を失った代わりに堅牢なドーム都市を築くことで、その海を拠点とした海洋都市国家となった。


 まあ、よくあるアニメ的設定――そもそも日本列島は金輪際沈没する気配はないし、地球規模の巨大地殻変動でも起こらない限り、世界地図もおいそれと描き変わらない。それだって何万年単位という気の遠くなるような時間が経過して、はじめて目に見える形で現れる変化でしかない。……だがその悠久の時間さえ操れる力って一体なんなんだ?


 だからこそ面白いとも言える。要するに決してありえないことにこそ、人の心は動くものだ。そのありえないことをただの作り物と笑い飛ばさない限り(勿論、ある程度の説得力は必要だけど)。だから、何かと想像力を掻き立てるアニメの世界は面白いんだ。


 それはまるで子供のままの好奇心。心底面白いと思うものを、その心のままに楽しめる。その「作り物」を決して疑わず。いや、たとえそれが嘘偽りであっても、その嘘を楽しむことができる。それこそがアニメに限らず世のエンターテインメントの存在意義というものだろ。あたしもナミも、きっとその夢の世界で遊ぶことに無意識のうちに取り込まれていた。そう、現実という灰色の砂漠の海を忘れるために……?


 だけど、だけど、さ……。


 「現実を忘れて」何が楽しい。あたしたちは、そのまごうことなき現実の住人だよ。よくも悪くも。そのことに気付くのにもう少し遅れていたら、きっとあたしたちは。そんなことを思うのも、きっとこのアニメ、そう『ルミナス』が“特別”すぎたからなのかもしれないが。


    *


 一通り祝詞を終えると、神主はお決まりのようにシャッシャと手にした榊を祭殿の前で振って皆に一礼をする。


「天照大神の名の下に、ルミナス・コード第二期、くれない記憶ミラージュが無事完成、放送されますことを祈願いたしまして……」


 そう不器用な棒読みで番組名とともに放送祈願が奉納された。何のことはない、ありていにどこにでもある、お祓い。そして一同に配られる御神酒おみき。あまりお酒に強い方ではないあたしは(むしろ下戸)日本酒のアルコール分を飲み干す瞬間、独特のむせるような熱さを喉に感じて、一瞬めまいに襲われた。


 ああ、これってもしかしたら、ルミナスと誓約する時の感じにちょっと似てるのかな……そういう妙な熱っぽさ。アルコールは確かに液体だけど、瑠美那がルミナスに触れた瞬間感じた、いわゆるあの絶頂感ってのは、つまり酒に酔った時の妙な熱っぽさと陶酔感に似てるのかもしれない。たいしてお酒も飲めないあたしが言えることじゃないんだけど。


 少しそんなことをぼんやり思い、少量の御神酒を飲み干したあと、空になった小さな杯を下げようとすると――、えっ? 突然今度こそ、あたしはふらふらとしためまいに襲われ、ゆらっとその場に倒れかかる。


「あぶないっ」

 すかさず、隣にいた篠崎氏に支えられ、あたしははっと我に返った。

「大丈夫?」

「あ、はい……すみません」


 こんな少しの酒で酔うなんて、さすがに恥ずかしい。それに何だか傍らの篠崎氏がやけに眩しく感じられて、あたしの頬は心ならず熱を帯びる。でも、それを背後に立ち尽くす未玲に見られているのを知った途端、あたしは再び我に返った。


「未玲……」

「ナミ!さ、帰ろ――」


 言うが早いか、未玲はあたしの腕を引っ掴んで、さっさと歩き出した。まるで篠崎氏から、あたしを奪い返すみたいに。でも、それはこれまでの文脈からすれば、少し違っていた。むしろ奪い返したいのは、竜崎と円城寺からなのに。そんなあたしと未玲の様子を柱の陰から眺めながら、円城寺がくすっと笑ったのにも、あたしたちは気付かなかった。


    *


 彼女は一体……。


 彼女、伊勢崎ナミと別れてタクシーを拾い、ひとみを連れて乗り込むと、途端にひとみはぐったりと目を閉じてしまった。彼女はちょっと持病を患ってるの。あまり連れ回さないで、そのままおとなしく自宅へ帰してちょうだい。持病? そんな事実はなし今まで一度も聞いたことないぞ。そう思いながら、円城寺のひんやりした視線に震えが走るのを感じた。


 一瞬、一瞬だけど、何かを感じた。それも……目が合う度に感じる何か。俺が言うのもなんだが、別に取り立てて何かの取り柄があるわけでもない、ただの同年代の女の子だ。そう、ありきたりな。でも、そんな子がどうして……。


 平たく言えば、ただのルミナスファン。要するにアニメオタク、ってやつか。最初に会った時は眼鏡を掛けていたけど、今日は掛けてなかったな。結構、可愛い、かもな。


 ――俺は何を考えてるんだ? 篠崎はハッとして思わず我に返った。自分と彼女は、ただルミナスという軸を介して出合っただけだ。それも、向こう側とこちら側に分かれた……受け手と送り手、それ以上に。傍から見れば、要するに有名人と一般人ってやつか。


 ただ、それだけの関係で終わるはずが――いや、関係も何も彼女とは金輪際……それなのに。今日昨日会ったばかりの子に、俺はなんでこんなに。ひとみという枷を嵌められながら、それでも嵌ってしまう。それもこれもすべて“ルミナス”が仕組んだことだなんて。当然彼がそのことに気付くのは、もう少し後になるのだが。


 伊勢崎ナミ……まるで、冥界に隠れたイザナミの呪いみたいだ。


    *


 なんだか一瞬、燃えるような熱さを全身に感じた。


 何となくこれって既視感がある。いや、そういうのともちょっと違うけど。そうだ――人魚姫が人間の姿を手に入れるために、魔女に自分の声をあげるのと引き換えに貰った毒薬を飲み干す場面。ただ陸の王国に住む、憧れの王子に逢うためだけに。


 あの話は子供ながらにちょっと来た。でも、どう考えてもこれって、子供に話して聞かせる童話じゃないよ。そういうどうにも妙な、そう、いわゆる官能的なやらしさを感じた。どう考えてもエロいって……。上半身裸の人魚姫がっていう意味も勿論、子供心にあったけど。自分自身の全てをかなぐり捨てて捧げた、彼への想い。憧れの王子様、か。まったくそういうものにはとんと縁がありませんな。そう思いつつ、昼間の篠崎氏が脳裏に映って少し焦る。


 ……人魚姫は地上へ王子様に会いに行くために声を失った。声を失ったのは、水澤ひとみか。違う。彼女は再びよみがえった。声も演技も再び元通りになって……だけど。彼女が本当に逢いたいのは、篠崎氏なの?それとも……ルミナス。


 そんな風に内心で話を逸らしながら、あたしは全く気付いてなかった。本物の人魚姫はあたし自身だってこと。そして決して届かない世界にいる王子様は、篠崎聡己……? それとも、本当の恋人たちを下界に残して、あたしが昇る天上界で待っているのは――。


 なんて切ない物語なんだろうって泣いてしまった幼い子供だったあたしには、そんなこと知る由もなかったんだ。


     *


 …………

 ………………

 …………………


 ――瑠美那……瑠美那。


 目を覚ませ、瑠美那。


 え? ここって……。



 ――お前は生まれ変わったのだ。

 私と一つになり、新たな命を取り込んだ。


 ――だから、もう泣くな。お前の泣き顔はみたくない……。

 ルミナス……。


 ――もう、誰にも渡さない。地上の人間にも、闇の支配者にも。

 さあ、今こそ新たなる世界を、私とともに。


『――メタモルフォーゼのときを』


 ……誰かが呼んでる。でもその声は、すぐに途絶えて消えた。


 あれから、あたしは一体どうしたんだろう。確かルミナスと、そしてカグツチと出合ったあの島の浜辺で。……空と海から、たくさんの何かがやってきて、そして。エメラルド色の無数の光線がカグツチを貫いた。それから先は、何も覚えていない。ただ、ルミナスが燃える怒りの焔を手にした矛先に変えて。辺り構わず灼き尽くしたことだけは覚えている。ダメ、ダメだよ!――そう何度も叫んだのに、苦しくて悲しくて、その人たちの痛みの分だけ嘆き哀しんだのに。


 やめて……ルミナス……お願い、もう……やめて。

 あたしは、こんなことのために、貴方と出遭ったんじゃない。こんなことのために……。


 でも、我を忘れた龍神は、強引に嫌がるあたしを。


 そんな乱暴な口づけでも、やっぱり受け入れてしまう、あたしの中の誰か。

 あなたは誰? あなたは……アマテラス? それとも……。


 イザナミ……?



 金城瑠美那という器は、やはり幻の記号でしかなかった。


     *


 その“少年”は、ずっとそこにいた。


 そう、かつてこの超大国ガイアが新たな国としての姿を形作る以前から――少年は人身御供として、この国を支配する使命を負わされた生ける神そのものであった。その光り輝く銀髪から、彼は「白のメシア」と称され人々から崇められていた。


 実質ガイアを秘密裏に支配するギルガメシュ財団、その奥深くに人目を忍ぶよう幽閉されているように見えながら、それでも世界がかつてと変わらぬ姿を保っていられたのは、その先を見通す神秘の千里眼があったからとも言われている。そう……まるで大天使ミカエルのように、少年は歳を取ることもなく下界の人々を見守っているのだ。


『リヒテル――、』

 水晶宮(クリスタルパレス)の心臓部から、そう声が響いた。

「……は、デュナム様」

『もうすぐ“彼”が来る――いや、今はまだ目覚めたといった方が正しいかな』


 少年に仕える神官である白金の髪を聖布で覆った碧眼の男は、遥かな過去から伝わるような少年の妙なる声に耳をそばだてる。


『黒の光……そう、もう一人のメシアが』

「龍神、ともワイズ博士は言っておられました」


 この私と共に世界の光と闇、その双宮を統べる存在――いや、彼は私を滅ぼしに来るのかもしれない。その言葉を聴いてリヒテルは微かに眉を顰める。


「双子……まさか御身と対となる存在なのですか?」

『そうだね。けれどもっと苛烈な運命を背負い、すべてを黒曜石の如く艶やかなる闇に導く王だ』


 神と王、その二つはどちらもが至高なる存在。けれど無なるものが実体を持つことで、すべてを凌駕する力を手に入れる……。その意味で神はすべてのものに宿り、すべてを支配すべくそらに海に拡がり世界そのものを構築する。だがその力そのものとなった神を手に入れたのならば。


「ふふ、愉しみだよ。闇の皇子ベリアル

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