2. 黄昏の太陽神
――海は、いつにも増して深く青く凪いでいた。
ニライカナイドームにほど近い、けれど人気のない、ひっそりと静まり返った入り江の岬に、あたしは一人佇んでいた。遥か洋上に続く沖合いを臨むその岬には、やはりひっそりと祀られた鳥居が忘れ去られたように立っていた。
それは時折、
けれどそれが、真の意味での信仰、そして理想郷と言えるのかどうかは、未だ定かではない。突き詰めればそんなもの、一体誰がそれと決めるのだろう。誰も、何もすべてを決められない。一人一人の心を自由になどできない。そう、きっと本当の自由は誰も見たことのない遥か彼方に存在しているのかもしれない。だからここは、その入り口。その心の象徴でもあるそこは、
その夕凪にきらめく最後の飛沫が、波音にまぎれて静かに消えていく刹那――あたしは、信じられない光景と出来事に遭遇した。
そう……あたしはそこで、後光射す太陽神に出遭ったんだ。場違いといえば場違いというか、第一普通夕暮れ時に出遭うようなもんじゃないだろうけど。思えばこの出遭いそのものが、後々のあたし自身の運命を変え、そして、いわゆる腐れ縁そのものの関係となる"アイツ"自身の運命をも如実にあらわしていたのかもしれないけど。斜陽の翳り、黄昏の太陽神。
だけど、この感じ。いつかどこかで出逢ってるような気がする――確かに誰かに似てる。どことなく切なくて胸がぎゅっと締め付けられる。ああ、助けて、父さん……。その眩しい瞳の色が父さんに似ていることに、あたしが気付いたのは、もっとあとのことだった。
*
瑠美那っていう名前は、一七年前に亡くなったあたしの父さんが付けてくれた名前だ。
生前の父さんが初めて沖縄に降り立った時に、その海と空の青さに感動したことを覚えていて、そこから付けてくれた名前。父さんはそこで母さんと出逢った。元々本土の人間だった父さんは沖縄の自然の美しさとその風土の素晴らしさに魅せられ、この地に移り住むようになった。実際、沖縄の人たちは驚くほど明るい。
ナンクルナイサァ――御馴染みの地元のこの言葉は、沖縄の人々の明るく、どんなことにもめげない心根の強さを表しているのかもしれない。勿論、それは例の大災厄の時でもそうだった。例え今ではニライカナイというドーム都市をその拠り所としつつも、本来のニライカナイ――楽園の
かつて琉球と呼ばれた沖縄の民芸品である琉球硝子。その透き通ったマリンブルーの輝きに魅せられ、父さんは琉球村の硝子工房に弟子入りし、そこで働いていた母さんを見初めたのだそうだ。その瑠璃色の琉球硝子は、まさに沖縄の海と空の色を映した結晶そのものだった。
だからあたしは、絶対めげたりしない、どんなことがあっても落ち込んだりしない、そう父さんとこの沖縄の大自然に誓ったんだ。だから、口癖はナンクルナイサァもとい、なんとかなるなる!
なのに、どうして……。
アイツの瞳の色は父さんにそっくりなんだ。まるで飲み込まれそうに綺麗な、その輝き。一度も逢ったことがないはずなのに、あたしにはわかる。父さんにも、そしてアイツも。
カタチあるものは、いつか必ず壊れる。だから、もう一度逢いたい、そう。あたしは逢いたかった……。
それは硝子細工が壊れる寸前、無に還る瞬間の飛沫のきらめきに似て……。
――やめて“ルミナス”。
*
鳥居の向こうに広がる波間に漂う最後の光の
まさにその時――。
その“光”が、おびただしい粒子を振り撒いて、突然現れた。
瞬間、ただただ眩しくて両目を閉じた。それは、まるで焔みたいに燃え盛る眩い輝きを放っていた。きつく閉じた瞼の奥にまで強引に届いてくるような、そんな有無を言わせぬ強い光。でも不思議と、あまり嫌な感じはしなかった。
「な……っ!」
けれど、言葉になって出てきたのは、やはり少なからずの驚きと、そしてちょっぴりの恐怖の感情だった。
「なんなの、これ?」
おまえ、か……?
頭の中に、そんな声が響いた気がした。
そして、きぃん――そんな音ともつかぬ音が、音叉のようにあたし自身を震わせた。直接耳を伝って聞こえてくるものではないのに、その共鳴の激しさに圧迫され、おびただしい光に飲み込まれて、思わずあたしは両耳を塞ぐ。何が起こったのかも分からぬまま、あたしは一人、岬の岩棚に立ち尽くしていた。
畏れるな――眼を開けろ……。
その声に促されて静かに瞼を開く。
え……?
思わずあたしは言葉を失った。目の前に浮かんだ光の繭の中に佇んでいる、背の高い大柄の一人の青年。怖いくらい眩しい光に包まれた、その
「おまえ、なのか――」
彫像、いや太陽神が、もう一度言った。
あまりに眩い膨大な光を纏ったその人は、そう形容するに相応しかった。
「……っ」
思わず後ずさる。でも
「怖れるな――!」
瞬間、びくっと全身が震えた。あたしの身体が膠着したのと、そいつが目の前に手のひらを差し伸べたのは、ほぼ同時だった。
「やっと、みつけた――」
その瞳の色にはどこかで見覚えがある。あたしの名を呼ぶ、その切ない声色。
瑠美那……。
「瑠美那!」
突然背後から声をかけられ、あたしははっと我に帰る。
「こんなとこで何してんだ?」
気がつくとあたしは、さっきまで手にしていたはずの鞄を地面に放ったまま、一人岩棚の一角に立ち尽くしていた。
「あ、れ? 叔父さん」
心ここにあらずという風情で呆然と振り帰るあたし。そこにはあたしの近い親戚の叔父である島嶺黎司が、こちらこそ狐につままれたような表情のあたしに呆気に取られ突っ立っていた。
「叔父さんじゃねぇよ、とっくに時間すぎてるだろ」
気がつくと時計の針は午後六時を過ぎていた。そうだ、ここ沖縄じゃ昼間はともかく夜間の外出は一般に禁止されている。ドーム内ならいざ知らず。加速した温暖化、その気候変動の余波は、この亜熱帯の島を赤道直下にも等しい苛酷な環境に変えてしまった。そのせいで大量発生しているハブ以外の蛇たちの生息条件にも格段に拍車をかけた。マラリヤなどの感染症を運ぶ蚊の被害を防ぐため、沖縄の住人は必ずそのための特殊な予防接種を受けているけれど。まさに夜の沖縄本島は熱帯のジャングルそのものなのだ。
「早く帰らないと危ねえぞ、母さんが心配してるだろ」
「そ……そだね、何やってんだろ、あたし」
あたしは島嶺叔父さんに促されて、傍らに放ってあった鞄を手に取った。そして砂浜に停めておいたままの自転車まで戻った。
「しょうがないな、送ってやるか」
「ごめん。いつも世話ばっかりかけちゃって」
「気にすんな、いつものことだろ?」
如才なくからっと笑ってみせる叔父さんの笑顔に、さっきまでのコトがまるで幻だったような気になる。実際、そうだったのかもしれない。だって太陽神だなんて、あんまり非現実的じゃない。だけど現実なんて、結構あやふやなものかもしれない。その事実をあたしはすぐさま、再びこの目で垣間見ることになる。
*
母さんの兄である叔父さんが島嶺の姓を名乗っているのは、別に金城の家を出て行ったからとか、かといって婿に入って金城の家を継いだ父さんのように、どこかへ婿養子に入ったからとかいった理由でもない。ただ"ある人"の意思を継いだからだ。その意味では叔父さんも父さんと似たような理由で以前の自分とは別の名前を名乗っているのかもしれない。
あたしが通っているニライカナイドームの高校は、某大学の付属高校でもある。実は叔父さんはその
黎司叔父さんが継いだ、その島嶺という人の意思それ自体については、あたし自身それほど詳しく知っているわけではない。ただ一度だけ、叔父さんが漏らした言葉を聞いただけだ。
――言霊を
何のことを言っているのか、あたしには見当もつかなかったが、叔父さんは真剣だった。島嶺という名前からして、沖縄の出身者であることは確かなようだけど……。
それはともかく黎司叔父さんは、とにかく飾り気のない気さくな人物で、その飄々とした出立ちは、いかにも生粋の沖縄人という感じだった。後ろで一つに束ねた長髪や無精ヒゲ。いつも草履を素足につっかけているその姿は、とても大学の助教授という風情には見えない。それでも、時折見せる鋭く真実味に溢れた眼差しと落ち着いた口調。そこに潜むものは、先ほどの島嶺の性に絡んだ、叔父さんの大学での研究自体に関係しているのだろうか。
けど、あたしはそんな叔父さんが日々していることとはおかまいなしに、この何にもこだわりのない、さっぱりした人柄がとても好きだった。聞けば黎司叔父さんは、父さんとは昔から深い付き合いのある知り合いだったという。特に親友、とまではいかないそうらしいが。だから、あたしはよく叔父さんから父さんの話を聞くのが楽しみだった。この人をここまで信用してしまうのは、やっぱり父さんのことをよく知っているからってことなのかな。
実際叔父さんは、ドームから離れて暮らすあたしたち親子の面倒をよく見てくれた。いくら地面の上がいいったって、あの天変地異のあとだ。色々と具合の悪いことも多かった。それだけに男手のない、あたしたち親子の叔父さんへの信頼は厚かった。
「あんまり母さんを心配させるなよ」
二人乗りの自転車をこぐ叔父さんの広い背中越しに、あたしは叔父さんの表情を覗き込んだ。その薄ら笑いを浮かべた口元から零れた台詞に、あたしはでも、今更ながらこの人の飾らない優しさを感じて、ふと微笑んだ。
「ったく、瑠美那はお転婆だからなぁ……」
しかし次にその口先に上った言葉に、思わずぷっと頬っぺたを膨らませる。
「あっあたしを誰だと思ってんの?潔く金城の家を継いだ父さんの娘、金城瑠美那だよ」
「はいはい、瑠美那ちゃんはいつも清く正しく元気よく……」
「んもう、叔父さんったら!」
そんな軽口を叩いては、既にとっぷりと暮れた家路を急ぎながら、あたしはやっぱりこの人の存在がとても嬉しくて、その頼もしい背中に抱きついた。
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