ヘラの旅日誌

新月賽

第1話

 朝の風が、町の外れから、春の匂いを運んでくる。

 道の間を抜け、楽しそうに笑い合う少女たちのスカートを揺らし、青年の帽子を剥ぎ取って。

 通りの先へ、先へと揺れていく風はやがて、簡素な、けれど上品な門の中を、ふわりと潜った。

 穏やかな温かさを含んだ、花の香りがする。

「……春だな」

 心地良い風に小さな蝶達が舞い踊る様を見て、老いた庭師がぽつりと呟いた。

 長閑な朝であった。

 長く手を入れてきた庭は、見慣れたもの。だからこそ、春先にこうして蝶が可愛らしく舞う様は、老庭師にとって何より嬉しいものだった。

 さて、と老庭師が上げた顔を作業に戻した――そんな折、花々の芽吹く庭を抜けた先の、明るく塗られた家の扉が、元気よく開かれた。

 バターンと静かな朝に大穴を穿ったその扉は、けれどもちろん、ただ開くばかりでは終わらない。

 意気揚々と姿を現した若者に、それを追う慌てた声。

「おいおい待てって! お前荷物ってそれだけか!? いきなり旅って何だよ!?」

 庭師が呆れたように首を振って作業に戻る中、若者は風に煽られ慌てて帽子を押さえると、晴れやかな笑顔で後ろを振り返った。

「今日は良い日和なんだ! 旅好きのするハープはこの前の満月に御婆様から頂いたし、何より今日は新月だ! 旅立ちに最高なんだよ!」

 言葉を受けたのは、戸口へ姿を現した若者の――これまた若くはあるが――兄だ。爽やかな笑顔を向けられ、兄はあんぐりと口を開けると、最もな叫び声を上げた。

「はぁ!? 良い天気だからって旅に出る奴があるか!」

 兄の言葉に若者は困ったように微笑む。これではまるで兄の方が無理を言っているようだ。

 今にも陽気に歩き出しそうな弟をどうにか止めようと、兄は必死に考える。すると丁度その時に、建物の横合いから、またも叫び声が飛んできた。

「おい馬鹿ヘラ! 何が歩いて旅する、だ!!」

「兄貴……!」

 兄の兄、三人の長兄である。馬鹿な弟を止める救いの手が現れた、と次兄は顔を輝かせたが、慌ただしく歩いてくる長兄が馬を引いているのを見て、顔色を青くした。

「馬は俺がやると言ってるだろ!!」

 そこじゃねぇよ! と叫びそうになったが、そんな次兄よりも先に、若者の方が手早く叫びをあげた。

「もう、兄さんったら! 歩かなきゃ良い歌が浮かばないって言ってるじゃないか、僕は馬が苦手なんだよ!」

 ぶるるん、と鼻を鳴らす馬に一歩後ずさりながら、ヘラは庇うようにハープを抱えた。

「苦手だどうだの問題じゃないだろう! お前、ここから隣町までどれだけ有ると思ってるんだ!」

「まっすぐ東に歩いて三日! 歩けば着くじゃないか!」

 馬なら半日であるし、隣町まで行くばかりの旅ならそれは旅とは言わない。どこかずれた二人の会話に、耐えかねた次兄の叫びが上がった。

「そもそも移動手段の問題じゃねぇだろ!!」

 長閑な朝であった。




「だって、今どき旅なんて当たり前だよ!」

 ソファに座らせられ、兄二人、姉に睨まれ、しかし怯まずにヘラは声を上げた。

 傍で見守っている両親は、一応ヘラの旅に賛成派であるが、兄姉の声が怖くて静かにしていた。

「大体僕は当主にはなれないんだから、三男は旅に出る、二男は長男の寝首を掻くっていう古き良き流れを守らなくちゃ……」

「ほう。 ならば長男は馬鹿であると言いたいんだな?」

「ぶっ」

 ヘラを睨む長兄の言葉に、次兄が吹き出す。姉も苦笑いで肩を竦めたが、懸命なことに何も言わなかった。

「そうは言わないけど……ともかく、旅に良い日なんだよ! 今日がぴったりなんだ!」

「旅に良い日も悪い日も無いのよ。 強いて言うなら備えができた次の日が良い出立日和ね」

 弟の言葉きっぱりと跳ね除ける姉。簡素な鞄にハープと少しの金と一斤の食パンを詰めただけの弟が、突然旅に出ると言い出すのを黙って見送るわけにはいかない。次兄もそうだそうだと頷いて、先とは違う安心感にほっと胸を撫でおろした。

「大体歩くとは何だ。 お前もモフニミア家の名を背負うなら、馬に乗って行け」

「嫌だ!」

「兄貴……」

 あっと言う間に溜め息である。どうしてこの兄は馬に乗せたがるのか。自分が乗馬が得意だからだろうか。

「な、なぁお前たち、シセももう良い年なんだし、旅くらい、許してやったら……」

「そ、そうですよ。 ちょっとくらい歩いたって、荷が少なくったって、こんなに良い天気ですもの、きっと問題ないわ」

「父上、母上……」

 今度は揃って溜め息を吐く三兄弟であった。

 モフニミア家が貴族のままであれたのは、単にこの両親を気に入り、良くしてくれる周りの人々の力が有ってこそだろう。両親を反面教師に賢く育った兄姉と違い、ヘラは時折両親を慌てさせるほどの奔放さだった。

「天気は崩れるものです、母上」

「旅は許しても良いけれど、無謀を許す気は無いのよ、お父様」

 両親にやんわりと言い返す長兄長姉の言葉に、胸を撫で下ろしながら、けれど次兄は不安を感じ始めていた。

(ちょっと待て、皆、ヘラが旅立つのは良いのか?)

「それじゃあ、旅に備えてたら良いんだよね?」

 しぶしぶという風に、折よく尋ねたヘラに、果たして、長兄と長姉は、顔を見合わせて肩を竦めたのだった。

「それは……ねぇ?」

「あぁ、備えあれば憂いなし、だからな」

「待て! 待て待て、皆良いのかよ!?」

胸をざわつかせる嫌な焦りと共に、次兄が慌てて手を上げて、家族を振り向く。

「良い、とは?」

 訝しげに尋ね返されるが、長兄には初めから期待などしていない。長姉を仰げば、しかしこれも首を傾げられる。

 更に焦った次兄は、必死な様子で弟を指差した。

「だ、だって、いきなり旅だぞ!? こいつ、馬鹿だし、それに、旅立つったって、行先も決めてないっていうじゃんか!!」

 それにすかさず反論するのは、他の誰よりヘラである。

「行先を決めちゃったら楽しくないでしょ! それに歌だって風に流れるんだから、僕だって――」

「お前はちょっと黙ってろ!」

 言いたいことはこれで伝わる筈だ。けれど皆を見れば、やはり、困ったように微笑まれるばかりだった。

 そして、長兄の一言に、次兄はただ呻くしかなかったのだった。

「こいつが頑固なのは、よく知っているだろう?」

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