第三十七章 20

 戦いにおいて、恐怖は常にある。しかしその度合いは状況や敵によって違ってくる。恐怖の種類そのものも異なる。何に恐怖するかも、経験によって異なってくる。

 足がすくみ、手足が震えそうになるほどの恐怖を味わうのは、アドニスは久しぶりだった。しかも相手を見ただけで、そうなってしまっている。


 夕月が自分に向けて歩を進める度に、無数の巨大な黒い手のようなものが空を広がり、あるいは床を這いずり、自分に向かってくるような、そんなヴィジョンが見えてしまう。

 この黒い手は死そのものだと、アドニスは理解する。


 アドニスは後退し続けている。ここまで露骨だと、時間稼ぎをしている事もすぐばれてしまうだろう。そして夕月は一気に距離を詰めてくるに違いない。


 果たして夕月が駆けだした。そのタイミングを狙って、アドニスは銃を撃った。


「ほう」


 半身になって体を斜めに傾けて銃弾を避けると、夕月は感心の声を漏らす。前に駆けだした直後――横にも後ろにも動けない瞬間――一歩が終わるその微かな瞬間を狙っての射撃に対しての感心。しかもアドニス自身も動きながら撃ってきた。


 アドニスも駆け出した。堂々と敵に背を向けて逃げ出す。しかしもし夕月が追跡をやめたなら、すぐに止まって振り返り、撃つつもりでいる。


 夕月が足を止める。アドニスもそれにつられるようにして足を止め、振り返る。


 すると夕月がすぐに距離を詰めてくる。アドニスは威嚇のニュアンスで一発撃ち、また背を向いて逃げ出したが――


(何だ?)


 背を向けた直後、背中に怖気が走った。本能が告げていた。このまま夕月に背を向けていたら危険だと。


「察したか」


 アドニスが自分に向き直ったのを見て、二度目の感心の声をあげる夕月。自分の狙いが何であるかはわかっていなくても、直感だけで危険を察知して、堂々と背を向けるのをやめたアドニスを見て、嬉しくなってしまう。


(この白人、相当に修羅場をくぐってきたな)


 アドニスとの距離を詰めながら、夕月は口の中で呟く。


 最早勝負は一瞬で決まると、互いに直感した。夕月の剣がアドニスの体に届くか、その前にアドニスの銃弾が夕月を穿つか否か。

 時間稼ぎなどしていられない。逃げ切ることはできない。本気で勝負に臨まねば活路は開けないと、アドニスは結論づけた。


(こいつを外したらおそらく終わりだ)


 口の中で呟くと、アドニスは高速で迫る夕月めがけて、二発撃った。


 アドニスが撃った直後、無傷の夕月が目前へと迫る。

 死を予感しつつも、アドニスはさらに一発撃つつもりでいた。撃たれる前に斬られる可能性が濃厚だが、それでも撃つと――あるいは斬られてでも撃つと、そう決めていたが……


 剣が鞘から抜かれ、夕月は体ごと大きく剣を振りかぶり、アドニスの体に逆袈裟を浴びせていた。アドニスは斬撃のショックで、銃を撃つことなどできずに硬直する。


(斬られた?)


 自分が斬られたことが、アドニスには一瞬理解できなかったが、しかし体が硬直していることと、胸に熱い感触が刻まれているという現実は、嫌でもそれをアドニスに実感させる。


 血を撒き散らし、アドニスが横向きに倒れる。


(殺したい奴ではなかったが……手を抜けなかった)

 夕月が息を吐き、剣を鞘に収める。


「む?」


 倒れたアドニスを見て、夕月は訝る。内臓が飛び出すほどの深い一太刀を浴びせたはずであった。剣の手応え自体は無いからわからないが、それくらい斬り込んだはずだ。しかし、出血量はそれほどでもないし、臓物も体の外にあふれ出してはいない。


「なるほど」


 かがんでアドニスの体を調べ、アドニスの致命を食い止めた原因を知る夕月。厚めの防弾プレートを着ていた。夕月は斬った際は常に、斬った感触など全く無いため、夕月はその存在に気付かなかったが、防弾プレートによって幾分か剣の威力は鈍り、臓物には届いていなかったようだ。腹筋、胸筋、肋骨、鎖骨と、広範囲に斬られてはいるが。


 一方でアドニスは、自分は死ぬものと思いこんでいた。死の恐怖に脅えていた。死にたくないと痛切に思った。


(まだ俺は……見つけてないぞ。この命をぶつけることのできる何かを。命をかけて守れる何かを。命を賭したいと真剣に思える何かを)


 それを見つけるために、アドニスは旅をしてきたようなものだ。自分が守りたいと思ったものが現れたら、絶対に守りきるために。そう……自分を守って死んだ父親のように。


「そんなに生きたいのなら、何故こんな世界に堕ちた」


 夕月に声をかけられ、アドニスは顔を上げた。気がつくと夕月が自分を介抱していた。銃は取り上げられている。


「お前は殺さない。お前は生きるべき者だ。あの子と同じ目をしている。顔はゴツくても、心はあの子と似たようなものだ。声に出さずとも、伝わった。お前の死にたくないという強い気持ち。まるで命乞いのようにな」


 アドニスの手当てをしながら、夕月は語る。


「あの子って誰だ……」


 夕月が誰かと自分を重ねていることに、訊ねる意味はあるのかとも思いつつも、何となく訊ねてみるアドニス。


「ここのボスだ」

「そうか。しかし顔はゴツくてもは余計だろ」

「そうだな」


 小さく微笑んでアドニスは呟き、夕月も笑った。


***


 夕月から侵入者があったとの報告が入り、剣持は仰天した。


(新しいアジトがもうバレただと? 内通者がいるのか?)


 光男と銀二のことが真っ先に思い浮かぶ。


(光男には無理だろう。そうなると……)


 消去法で、銀二が手引きしている可能性が高いと見る。

 剣持は管理室に警報を鳴らすよう指示した。


***


 建物内に警報が鳴り響く。


「おっとこれは不味い。計画が台無しだね」


 李磊がおどけた口調で言うが、内心はかなりがっかりしている。暗殺の成功率はこれで相当下がった。


「アドニスはもたなかったか。こうなったら、もう交戦を避けてターゲットだけを暗殺というのは、無理のある話になったと思うぞ」


 移動しながら、真が香苗に向かって言う。


「じゃあお前らはもう逃げていい。私が剣持を殺してくる。」

「無茶だろ」


 香苗の言葉に苦笑する李磊。


「無茶は承知のうえ。でもここで無茶を通さないと負けなのよ」


 香苗は決然とした面持ちで言い切った。


 と、そこで曲がり角から小さな影が飛び出してきた。


「あ、竹田さんっ」


 三人の前にパジャマ姿の小柄な少年が立ち塞がり、声をかけてきた。光男だ。


「不味い奴と遭遇しちまったな……」

「でもドウテイダーに変身前だから、チェリー空間を使えるかどうかはわからないぞ」


 立ち止まり、李磊と真が言う。


「光男、私達をかくまって。私達は……お前達を救うためにここに来た。お前達を縛っている剣持を殺してね」


 香苗が声をかけるが、光男は押し黙り、戸惑いの表情を浮かべている。


 その直後、光男が現れた曲がり角からもう一人現れる。


「ふん、やはりそういうことか」


 剣持幸之助だった。今の香苗の台詞をばっちりと聞き、憎々しげに香苗のことを睨んでいる。


「久しぶりね、剣持さん。いや、もう『さん』づけはいらないか。裏切り者のクソったれだしね」


 香苗も香苗で剣持を憎々しげに睨みつけ、嫌悪と憎悪をたっぷりとこめて吐き捨てる。自分の元組織を乗っ取って、かつての仲間を苦しめているとあれば、憎しみもひとしおだ。

 真が殺気を放ち、懐に手を入れたその刹那、真と李磊の全身の力が抜け、ほぼ同時に床に膝をつく。


「変身しなくてもいけるらしいね」

「変身は身体能力の向上だけか」


 チェリー空間を発動したパジャマ姿の光男を見て、李磊と真が言った。


「あいつは平気みたいだね。つまり……そういうことか」


 李磊が平然と佇む剣持を見る。効かなければ効かないで、童貞か処女かが判明してしまう。効いても効かなくても恐ろしい能力だと、李磊は心底ぞっとする。


「光男、何でそいつを守るの?」

「だって……剣持さんが僕達を助けてくれたんだっ」


 香苗に問われ、少し脅えた面持ちと声で答える光男。


(そしてお前達を苦しめている張本人でもある。でも今それを言うわけにもいかないか……。どうして知ってるのかと、剣持に光男や銀二が疑われる。ここで剣持を確実に殺せるなら、その心配も不要だけど)


 苛立ちともどかしさを感じる香苗。


(まるで動けないというわけじゃない。気合いを入れれば、レジストしてわずかな時間なら動ける。長くはもたないから、気合い入れて動くとしたら、そのタイミングを考えて動かないと)


 密かに真は算段を立てる。


(部下達を呼んでも、チェリー空間で役に立たなくなってしまうか)


 一方剣持は、立てなくなった真と李磊を見て考える。


「童貞だけ二階へ送れ」


 インカムで指示を送る剣持。これは不味いのではないかと真と李磊は思った。こちらは戦えるのが香苗一人だ。


「なあ真、これってひょっとしなくても絶体絶命だよね」

「大丈夫。こういう時は、都合よく助っ人が助けに駆けつけてくるのがお約束だから」


 ささやく李磊に、真が真顔で冗談を口にする。しかしその冗談が実現してほしい状況だ。


「だといいけどね。信じたいな、そういう御都合主義展開」

「その助っ人も童貞処女限定でないといけないから、御都合主義のハードルも高いな」

「御都合主義のハードルが高いって、どういう言い回しよ」


 真の言葉に、李磊は笑みをこぼす。


「別に日本語としては間違っていないし、意味は通じると思うけど」

「俺は日本人じゃないから意味通じるけど、日本人には通じない人がいそうだね」


 動けないうえに、これから殺される可能性が濃厚になってきたが故に、しょうもない雑談で気を紛らわせる真と李磊であった。

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