第三十七章 12
光男はその日、引っ越したばかりのアジトの娯楽室にて、朝からトレーニングに明け暮れていた。
「熱が入っているようだな」
剣持が来て、腕立て伏せをしている光男に声をかける。あからさまに侮蔑の視線をぶつけながら。
娯楽室には他に何名もの構成員がいて、光男同様にトレーニングをしていた者もいれば、気のあう者同士で談笑していた者達もいたが、剣持が入ってきて光男に声をかけたので、皆沈黙して、そちらに注目する。
ただそれだけで、娯楽室の空気が悪くなってしまった。しかしこれからもっと悪くなることを、彼等は知っている。いつものことだ。
「お前のその健気な努力の成果は出たか? 重要な役割だったのに、それも果たせなかった! 無能だとわかっているお前でも、一応信じて送ったのに、それがあの様だ! 結局お前は、なーんにもできないゴミカスなんだよ!」
いつもと同じではなかった。いつもはただねちねちと嫌味を言うだけに留まっていたが、この日の剣持は激昂し、激しく罵っていた。こんな剣持は、肉塊の構成員達も初めて見る。
「もうお前は使わないから安心しろ。そんなトレーニングなんか無意味だ。ぜーんぶ無意味だ。ただのお飾りのボスとして、ふんぞりかえっていればいい。俺にはちっとも理解できないが、お前みたいな出来損ない人間でも、慕っている奴等がいるようだしな。それだけでも役には立つ。それだけでいいから、もうトレーニングも勉強もしなくていいぞ?」
剣持がしゃがみこみ、腕立て伏せをする光男の顔に、いやらしい笑みを広げた己の顔を近づける。
使わないというのは嘘である。ただの嫌がらせで言っている。今組織は危機に晒されている状態であるし、光男の力はきっと必要になる。
「おい、聞いてるのかよ! 俺がやめろと言ったらやめろ!」
怒鳴り散らすが、手は上げない剣持である。そこまでやると、旧肉塊の尊厳の構成員がブチ切れて、自分が殺されかねない。恐怖で旧肉塊の尊厳の構成員を縛ると言っても、限度がある。
そもそも現時点でさえこの恐怖支配は、怪しい綱渡りだ。光男の存在があるからこそ、上手くいっている。他の旧構成員達は恩義など最早感じてない者も多いが、純粋無垢な光男は、未だに剣持に恩義を感じ、剣持への反乱を抑えているからだ。
剣持と光男の間でも取り決めがあった。剣持が何人かの構成員を殺害した後、これ以上構成員を殺したら、光男が剣持を殺しにかかると宣言した。人の心がわからぬが故、恐怖支配をするにも匙加減が計れない剣持でも、これは不味いと感じ、以後、構成員に対しての殺しは封印している。
光男と剣持と旧構成員とで、非常に微妙で危ういバランスを取りながら、全員が不満と不安を抱えて、組織は回されていた。それでも警察の目から巧みに逃れ続け、実入りも良かったので、剣持は満足している部分もあった。
だがとうとう警察が自分達を嗅ぎつけようとしている。
(光男を一人で送ったのがそもそも失敗だ。こいつは戦闘しかあてにできない。そしてこいつに複雑な任務を与えるなら、監視と管理する者が必要だ)
これまでの修練の成果を試したいと、光男自身が強く希望したので、危ういと感じながらも断りきれなかった剣持であるが、結果はというと、裏通り課の警察官は一人も殺さず、肝心のマフィアのボスも警察に奪われてしまうという最悪の大失態。
剣持が最も恐れる事態は、光男が警察の前に姿を現したことで、警察が何か組織に繋がる手がかりを掴むということだ。手がかりになりそうなものは思いつく限り、全力で隠滅したつもりの剣持であるが、何か見落としがあるかもしれないと考えると、不安で仕方がない。
その不安は全て光男のせいであるとして、今日は光男に当たりちらしている。
「お前がやめろ」
不機嫌そうな声で剣持を制止する者が現れたので、娯楽室にいた者達は驚いた。剣持には一切の口ごたえをしてはいけない決まりだ。
声をかけたのは組織の者ではなかった。剣持によって雇われた、虹森夕月だ。ただいるだけで存在感の濃い男だが、この時の夕月の存在感は一際凄まじく感じられた。
「客人、こちらの事情に首を突っ込まないで貰おうか」
剣持が立ち上がり、夕月を睨みつける。猛々しいオーラを放つ夕月の存在感にも、剣持は屈さなかった。自分こそがこの世で一番優れている人間だと信じて、微塵も疑っていないからだ。
「努力をする者をけなすのはどうかと思うぞ。それに……その子がここのボスなのだろう?」
「お飾りのボスさ。運営は全て俺がやっている。とはいえ、そのお飾りが極めて重要でもあるけどな」
静かに問う夕月に、剣持は忌々しげに答える。
「あ、ああ、ありがとうございます。虹森ざん……」
涙と鼻水を怒涛の如く垂らし、それでも運動を辞めることなく、光男が涙声で礼を述べる。伸びた鼻水が床につき、さらには飛び散っている。
「ふんっ……。よかったな、ボス。かばってくれる奴がいて」
鼻を鳴らして捨て台詞を残し、剣持は娯楽室を後にした。
「何で皆、黙って見ている? お前達のボスなのだろう?」
娯楽室にいる肉塊の尊厳の構成員を見渡し、咎めるニュアンスで問う夕月。
(事情があるのはわかるがな)
内心そう察しつつもなお、問いかける夕月であった。
「皆……わかってるからっ……。皆は、僕が駄目な子だからっ、堅気が狭い思いさせちゃってるっ」
「肩身が狭い、だな」
訂正してやる夕月。
「そうだった。えっと……」
「やめなくていい。続けろ」
「あ、はいっ、すみませんっ」
腕立て伏せをしたまま話すのは失礼だと思い、中断しようとした光男であったが、夕月に促され、そのまま続けながら話す。
光男は腕立て伏せを続けながら、この組織の事情を全て語った。
自分がボスだった時代に組織の運営が上手くいかず、安心切開という組織に、構成員の内臓まで担保にされてしまったこと。その窮地を救ったのが剣持であったこと。その代わりに人身売買という非道な商売に鞍替えを行ったこと。剣持が恐怖支配を行い、構成員の動きも徹底管理していること。
そして現在の危機的な構図がある事まで――夕月が知っている部分まで、全て喋った。
「警察に捕まらないためにも、僕がここで頑張らないといけないっ。僕はもうこの組織の誰も死なせたくないっ。なのに失敗しちゃったから……剣持が怒るのも当然なんだっ」
「そうか」
光男の痛切な訴えを聞いて、夕月は複雑な気分になった。
夕月は光男と己を比べてしまう。ただ死に場所を求めて、理想の死に方を求めて、ひたすら戦いに身を投じる自分。老いと病に苦しんで死ぬ姿に恐れをなし、満足いく死に方を求めて生きる自分。
しかし光男は、仲間を死なせまいと必死だ。そのために命をかけている。
こういうタイプを見る度に、夕月は引け目を感じる。劣等感を覚える。自分が卑小な存在に思えてしまう。実際理屈でいっても自分は惨めだと考える。
何度もこんなタイプを見る度に、夕月は思う。こういう人間こそが生きるべき者だと。例え仕事であっても、夕月はこういうタイプは殺さないことにしている。失敗したと依頼者に伝える。あるいは堂々と仕事をキャンセルする事もある。
「よかったら、少し手ほどきをしてやるぞ」
夕月の言葉を受け、光男は腕立て伏せをやめて夕月を見上げた。厳しい顔立ちであるにも関わらず、自分を見下ろす瞳はひどく優しいように感じられる。
「手ほどきって……練習に付き合ってくれるのっ? 戦い方のコーチしてくれるのっ?」
「そうだ」
「わぁいっ。誰かに教えてもらうなんて、純子ちゃん以来、十三年ぶりだあっ。よろしくお願いしますっ」
無邪気にはしゃいで喜ぶと、光男は夕月に向かって平身低頭する。娯楽室にいた構成員達も、微笑ましく二人を見ている。
「十三年前って、お前は幾つなんだ?」
「二十五歳っ」
夕月がどう見ても小学生にしか見えない光男に問うと、光男は笑顔で即答した。
「そうか。大人なんだな」
「改造されたせいで体は成長しないけど、頭の中だけは大人になろうと、これでも頑張ってるけど、でも、僕わかってる。頭の中もまだきっと子供のままだって……」
「志を持ち続けることが大事だ」
そう言ってから、また夕月は複雑な気持ちになる。
この子は自分などよりずっと立派な人間だ。そんな相手に対し、こんな風に上から目線で言うなど、滑稽だと意識してしまう。
だがそれは夕月が本心で思ったことであるし、鼓舞する意味で、伝えたいことでもあった。
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