第三十五章 24

 燃えてしまった前の家にもあったが、雨岸邸には、百合以外に誰も入らせない、鍵のかかった秘密の部屋がある。

 百合はこの部屋に訪れることを日課としている。大体、起きてすぐに訪れる。この部屋に来ることで、気分が良くなる。一日の始まりの時間帯から良い気持ちにしておくことは重要だ。


 部屋の中は殺風景なものだった。家具などほとんど置いてない。窓も無い。

 灯りはルキャネンコ家特製の呪物である蝋燭が一本のみ。薄暗くしておき、なるべくこの部屋の住人達に心地好い環境であるようにせんとする、百合の心遣いであった。


「おべえぇええぇえぇっ!」

「ゆううううウぅゥゥゥぅりいいいイィィィィっ!」

「だじゅげでぐでぃえべばっ! ごどぢでぐげげげげ!」


 悲痛な絶叫と共に、苦悶の表情のそれらが闇の中に浮かび上がる。

 その声を聞き、その様子を目にし、百合はにっこりと笑う。この声を聞き、彼等の顔を目にすることで、気持ちのよい朝を迎えられる。


「お早うございます。お父様、お母様、真紀子お姉さま、お婆様、叔父様、叔母様」


 優雅な動作で一礼し、浮かび上がった家族と親族の霊達に挨拶をする百合。


 百合は名家に生まれて大事に育てられた箱入り娘であったが、自由が無い事に、ずっと鬱積していた。

 亜希子と似たようなものだ。しかし亜希子と違って、百合は親への愛情すら無かった。愛情を求める時期もあったが、父親は自分の仕事と体面の方が大事であり、母親はそんな父親の操り人形でしかない。


 最初は家族に従っていたし、家を尊重していたが、「家族のため」と言って、百合を無理矢理政略結婚させようとした事で、とうとう腹に据えかねた。家族が大事なのではなく、お家の体面が大事なだけであるということを心底思い知った。

 当時から百合は異性に興味を持てず、もっぱら同性に惹かれていた。家に出入りしていた年上のお手伝いさんに恋焦がれていたが、彼女は些細な失敗で、横暴な父に解雇されて、その直後に縁談の話をもってきたのである。


 百合は生まれて始めて親に逆らったが、家族の誰もが冷たい反応であった。これは本当の家族ではないと百合は悟り、同時にこの世界の全てが色褪せて見え、呪わしく感じた。

 絶望した百合は、敷地内にある、開けてはいけない蔵を開け、中にあった死霊術の術式が封じられた魔道具を発見した。

 魔道具を家族に用いて、一家全員を殺害したうえで、その霊をストックした。


 世界の全てを呪わしく感じた百合は、人を悪意の元に虐げて悲劇を産む時だけ、幸福を感じられる。

 世界に災厄をもたらす人生を歩み出した一方で、百合は孤独を苦痛に感じていた。そして家族というものへの幻想を引きずってもいた。


 百合は死霊術に惹かれて、同じ蔵の中にあった死霊術の書物を読みふけり、手ほどきをする師もいないというのに、死霊術を身につけていったのである。

 彼女には生まれつき、術師としての卓越した才能が有った。そうでなければ師もなく、二十歳を過ぎて脳の吸収が鈍った身で、術師になるなど困難極まりない。後に百合が運命操作術師に聞いた話であるが、才能があるが故に運命に惹かれたまでの事で、必然の成り行きだそうだ。


 家族を憎み、恨んでいる百合は、家族と親族を怨霊化して、今日に至るまで延々と苦しめ続けている。


「さあ、今日も私に精一杯の誠意をこめて謝罪しなさい」


 満面の笑みと共に百合が告げると、霊達が一斉に喚き出す。


「ずびヴァすぅぇぇんでじだぁあぁぁあぁっ!」

「ごめんなぴゃあああぁあうわああああぁいっっっ!」

「ゆるぢでぢょぼだあああぁあいぎぃ!」


 哀願の眼差しを百合に向けて、声を張り上げて必死に許しを請う霊達。


「お母様はとても良い声でしたわ。ポイントプラス2。真紀子お姉さまはいけませんね。少し声のトーンが気に入りませんわ。ポイントマイナス150」


 ディスプレイを投影し、百合は喋りながらシートに数字を書き換えていく。


「解放まで一番近いお母様、いよいよあと99999ポイントでしてよ。五桁になりましたわ。まだ六桁以上の皆さんは、頑張ってくださいませ」


 霊に苦痛を与え続けて成仏させない術は、完璧ではない。いずれ絶対に成仏する。しかし上手いことやれば、千年以上成仏させずに苦しめ続ける事も可能だ。

 百合の場合、家族に希望を与えることで、苦しみを長引かせようとしていた。


「この日課ももうすぐ終りですわね。皆解放されることなく、あと何百年かは怨霊のまま苦しみ続けることになりますわ。残念ですが、仕方ありませんわね」


 部屋を出た所で、百合は扉にもたれかかって虚空を見上げ、物憂げな表情で独りごちる。


「何か百合、おかしくない?」


 廊下を通りがかった睦月が、たそがれている百合に声をかける。


「純子が謝って、それでおかしくなったの?」

 聞きにくいことをずばり聞いてみる睦月。


「それ以外に何がありまして?」

 気恥ずかしそうに微笑みながら、百合はうつむく。


「瑞穂達も私と似たような絶望を感じているようですわ。昨日電話で聞きました。純子はラット達にも連絡し、謝罪してまわっているようですの。中には、怒りもせずありがたいと感じているだけの、御目出度い方もおられるようですけどね」


 揶揄する一方で、百合はそんな連中が羨ましかった。自分もそれくらい単純なら、苦しまずに済んだと。


「悪……私は悪を極めることこそが芸術だと思っていました。自分が悪の頂点になろうとしました。でも、私にはとても無理でしたわ。本当の悪は、そんなことを思いませんのよ。自然体です。私やラット達が、純子に強く惹かれたのは、彼女の存在があまりにも規格外で、これまでの人生で出会った誰よりも強烈な存在感を放っていたからでしょう。私にとって純子は、悪の女神にも等しい存在でした。そして……あの謝罪で改めてそう感じましたわ」

「あはっ、意味わからない。謝罪してどうしてそうなるんだろうねえ」


 睦月が軽く肩をすくめる。


 いつの間にか、白金太郎と亜希子の二人も、廊下で立ち止まって、百合と睦月の会話を聞いていた。二人が会話しているのが聞こえて、内容が内容だったので、じっくりと聞きにやってきたのだ。


「人間は情の生き物。感情の生き物。その感情を逆撫でしたり利用したりする行為は悪とされます。でも、それこそ一番効率的で賢い行為ですわよね? 人質を取ったり、愛する者を目の前で殺して逆上させたり絶望させたり、復讐の矛先を向けさせたり、人間の最も根源たる情を利用して、人を活かすも殺すもできましてよ。しかしそれは、悪逆の極みとも呼べる行為。ならば悪こそが最強最大の力ではなくて? 悪を極めることこそが強さではなくて? 純子は私とラット達を放置し、憎悪を募らせ、その憎悪が絶頂に至ったところで、実は呪いにかかっていたせいだと言って、そのうえ謝罪までしました。下品な言葉で言えば、私達の怒りや復讐心を、すかしてくれたのですよ。これこそまさに悪の極みではありませんか」


 いつもならうっとりとして語る所であるが、今はそんな心境ではない百合なので、どこか冷めた口調で喋っていた。


「あはっ、変な話だよねえ。悪に魅せられて、悪こそサイコーっていう価値観の百合が、何で俺や亜希子には手を差し伸べたのさ。ついでに白金太郎にも」

「そうだよ、ママ。私のことなんか、最初は甚振ってたのに、その後で私がママの所にきたら、普通に家族として受け入れてくれた。きっと油断させておいて、気を抜いたところで破滅の罠を仕掛けるつもりなんだって、私も身構えていたけど、どう考えてもその雰囲気無いしさ。ママは全然悪になりきれてなくない?」


 睦月が言った後、亜希子も口を挟んだ。

 百合は困ったような顔になって、少しの間沈黙し、思案してから口を開く。


「正直、私も自分の感情がわかりませんの。亜希子は子供の頃から虐げるつもりで育てましたし、睦月も白金太郎も、利用するだけのつもりでしたのに……。今は……」

「百合様、意外と自分のことはわからないもんなんですねえ。そんなの俺には一発でわかりますよ」


 ドヤ顔で語り始める白金太郎に、女性陣三名はまた始まったと思ったが――


「基本的に百合様は極悪人ではありますが、自分を慕う人間を見捨てるって事だけは、絶対にできないんですよ。俺然り、睦月然り、亜希子然り」


 どうせ白金太郎の言うことだと見くびっていた女性陣が、彼の言葉を聞いて驚いた。それに加えて百合は、白金太郎の言葉そのものにも衝撃を受けていた。


「何故なら百合様が慕っていた雪岡純子に、百合様が見限られた事がトラウマになってるからです。自分は同じ事はやりたくない。いや、できないんです」


 白金太郎の指摘に、呆然とした面持ちになる百合。実の所、白金太郎に得意満面で指摘されるまでもなく、百合はそれを自覚していた。しかしそれを愚鈍だと思っていた白金太郎に見透かされ、指摘したことが驚きだったのだ。


『それでも私にはママしかいないんだもん』


 かつて亜希子が自分の前で口にしていた台詞を、百合は思い出す。あの言葉が――あの時の亜希子の表情が、百合の脳裏に強く焼きついている。


(確かに私は、この世で最大の悪は、私自身にとって身内と呼べる者を裏切ることだと感じていますわ。だからこそ……)


 かつて自分が純子に見限られた事がトラウマになっているが故に、自分には同じ事ができなかった。


(けど、積極的に助けもしませんわ。零とて、負ける可能性の高い戦いへと追いやったわけですし……でも亜希子は……まさか、愛情の深さが違うとでも言いますの?)


 自分で自分の心がわからない百合。


「ちょっと何なの……。白金太郎のくせにちょっと格好いいと思っちゃったじゃない。ママも真に受けちゃってるしさ」

「天変地異の前触れじゃないかなあ。避難グッズを揃えておいた方がいいかもねえ。あはっ」

「ふん、能ある鷹は爪を隠すと、素直に認められないようだなっ。哀れ哀れっ」

「あ、元の白金太郎に戻った。よかった~」

「どういう意味だーいっ」


 百合が心揺れている一方で、三人はいつも通り楽しげに喋っているので、百合は悩んでいるのが馬鹿らしくなって、溜息をついて微笑んだ。


「言い忘れていましたが、瑞穂がホルマリン漬け大統領新生記念パーティーに、純子を招待したようです。私達も出ることになりましたわ」


 百合に声をかけられ、亜希子が不思議そうな顔をする。


「ママや私達が行ってどうするの?」

「催し物に協力してほしいということでしてよ。この間亜希子がしたように、人前で戦う見世物をするつもりらしいですわ」

「えー……私はちょっと……。こないだ負けて落ち込み気味だし」


 尻込みする亜希子。


「ふっ、なら今度こそ俺がっ」

「あはは、じゃあ俺も出るよう」


 白金太郎と睦月が名乗り出たので、百合は瑞穂にメールで、その旨を伝えた。

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