第三十五章 思い出を振り返りながら遊ぼう
第三十五章 三つのプロローグ
甘粕瑞穂には、これまでの十九年の人生の中で、一番幸せだったと思える時期がある。
その時期を振り返り、一番幸せだったと意識して、今は惨めな気分で生きている。
あの時に戻りたい。時間、場所も、自分をも、全て戻したい。しかしそれは決してかなわないこと。
あれと同じ幸せを掴みたいとか、あれ以上の何かが欲しいとか、そんなことは思わない。いや、思えない。
自分が最高に輝いていた時間。心から笑えた至福の一時。それは決して長く続いた時間ではないが、魂に深く浸透している。心に刻まれている。記憶に焼き付いている。
瑞穂には大好きな人が二人いた。
決して長いとは言えない時間であるが、その二人と一緒にいる頃が、これまでの人生で一番素敵な時間だった。濃密な時間だった。大事な時間だった。輝いていた時間だった。
その二人の事を勝手に同胞だと信じた。同じ目的に向かって戦う同志だと。
しかし、三人のうちの二人はともかく、もう一人は違った。それが悲劇と破局の始まりだった。
一人の名は雪岡純子。もう一人の名は早坂零。
かつて瑞穂は父親が背負った借金のために、ホルマリン漬け大統領という組織が主催するデスゲームに臨んだ。その際はまだ瑞穂も、表通りのメンタルの持ち主であった。
瑞穂はデスゲームに負けそうな所を純子に救われ、零とも知り合っていろいろと教えてもらい、その後、零と共に純子の元を訪れて改造して力を身につけた。
いつしか三人は行動を共にするようになり、ホルマリン漬け大統領主催のゲームに夢中になり、瑞穂はすっかり裏通りの住人となった。
三人は破竹の勢いで勝ち進み、多くの人々から賞賛を浴び、浮かれていた。
瑞穂達は組織から疎まれる一方で、ホルマリン漬け大統領内の別の派閥から、「常連プレイヤーとして盛り上げてほしい」と専属契約を申し込まれた。瑞穂は喜んで承諾した。零も頷いた。しかし、瑞穂達のリーダー格ともいえる純子は拒んだ。
「そろそろ潮時だよー。もう十分に楽しんだし、深みにはまらない方がいいよー」
リーダー格として二人を牽引していた純子のその言葉が、瑞穂には信じられなかった。
幾度となく三人で試練を乗り越え、硬い絆で結ばれていたと思っていたのに、これからも戦い続けていくと思いこんでいたのに、彼女はそうではなかった。
「純子はただの暇つぶしか遊びのつもりだったのか? それとも俺達を助けるためのボランティア気分とか」
瑞穂が淡い恋心を抱いていた男――早坂零は愕然とした表情で、純子に詰め寄っていた。
「両方だよ。それと君達を実験台に出来たことが大きいかなー」
困ったような顔で純子が答え、瑞穂は涙を流しながら、全身の力が抜ける思いを味わった。
「ちょっと瑞穂ちゃん……何で泣いてるの? そんなに落ち込むこと?」
驚き、動揺する純子。
「私達、運命共同体だと思ってたのに……」
「俺も……純子のことを尊敬していた。いや、崇拝していた。なのに、どうしていきなり……」
零も愕然としていた。瑞穂と同じ気持ちだった。
「どうしてもこうしても……私の本業はマッドサイエンティストだし、改造手術した君達の性能を確認するために付き合っていたんだよ? 最初からちゃんとそう言っておいたよね?」
困り顔で純子が口にした言葉に、瑞穂と零は最早落胆を通り越し、絶望していた。
そしてその日以降、瑞穂や零が連絡をしても、純子は露骨に冷めた態度で接するようになった。完全に興味を失くしたのが丸わかりであった。
他のマウス達が純子に声がかけられていく中、自分達は徹底的に無視されている。その現実を目の当たりにし、二人はますます落ち込んだ。
「純子にどうしてそんな風に態度を変えたのか、問いただしてみた」
瑞穂の前で、零は言った。
「自分に過剰な熱をあげる人間が現れると、疎ましくなるタチらしい。俺達以外にも結構いるらしいんだ。服従しようとしたり崇拝したり、あるいは恋愛感情を抱いたり、そういう意識を向けられると、拒否反応が出ると言っていた」
覇気の無い顔で零は報告する。瑞穂から見て、自分以上に深刻なダメージを受けているのは明らかだ。
零が純子に気があったのは、瑞穂もわかっていた。瑞穂は瑞穂で零に淡い想いを抱いていたが、しかし純子なら構わないし仕方が無い。諦めもつくと思っていた。
なのに……純子は全て放り出した。それが瑞穂には許せない。仕方無いでは済まなくなった。
「俺達はラットだそうだ。マウスとは違う。純子の興味から解放された存在。でも俺は純子に言ってやった。気持ちは変わらない。俺達を自由に実験台として使ってくれと。俺は――ラット達はきっとそれを望んでいるから、と。そうしたら……考えておくって。少しは……情けをかけてくれたみたいだ。だから俺はずっと純子のお呼びがかかるのを待とうと……」
「やめてよ! 情けない!」
それ以上零の話を聞くのが耐えられず、瑞穂は泣きながら叫んでいた。
「憎むよ……私は。純子を……憎む」
「そうか……。でも俺には無理だ。憎めない」
とめどなく涙を零し、同時に怒りに顔を歪める瑞穂を見て、零も落涙しながら、自虐的な笑みを浮かべていた。
それが、三年前の話。
***
少女はずっと旅をしていた。幸せな旅を。
旅の途中、周囲には常に死が溢れていた。死が生み出されていった。死の嵐が吹き荒れていた。死で舗装された道の上を歩いていた。
それは疑いようが無く、幸せな旅だった。幸せな時間だった。
盲目の青年との二人旅。一緒にただ歩いているだけで幸せだった。それだけで満ち足りていた。光で満ち溢れていた。その青年こそが太陽だった。
だが……少女はわかっていた。この幸福は、平穏は、きっとそう遠くないうちに終わりが来ると。光は失われ、世界はまた暗闇に包まれると。
少女と共にしていた青年は、死を生産し続ける。生きている者を動かぬ骸へと変え続ける。
青年はこの世界を現実だと思っていなかった。ゲームの中だと信じていた。そして自分はプレイヤーであり、少女もプレイヤーだと告げた。
だからこそ青年は人を何人殺しても罪悪感を抱かなかった。自分を追う警官達から逃げ続け、時に返り討ちにして殺す事も、ゲームの一環でしかないと受けとっていた。
旅をしている間、少女は青年の話を信じていなかったが、適当に青年に話を合わせていた。
やがて少女が漠然と予感していた、終わりの時が訪れる。
共に旅をしていた青年――谷口陸は殺害された。
少女――進藤由紀枝は、陸の後を追って自分も死のうとしたが、死ねなかった。
その後、由紀枝は陸の模倣をしようと試みたが、どうしても上手くいかない。
未成年向けの精神病棟に隔離されて治療を受け続ける間も、陸と同じになろうと懸命に足掻いた。それが由紀枝の今の望みだった。
しかし……由紀枝の本当の望みは……あの頃に戻ること。あの無差別大量殺人鬼と共に歩いていた、あの素晴らしい日々に戻ること。
決してかなわぬ望みを抱く由紀枝。無為に時を過ごす由紀枝。そんな彼女の前に、一人の少女が面会を求めてきた。
初対面の彼女の導きにより、由紀枝は精神病棟を脱け出た。その少女に従うつもりになったのは、たった一言の言葉。
「貴女を前に進めてあげる」
具体性が何も無い言葉であるにも関わらず、由紀絵はついに来る者が来てくれたと、勝手に思い込んで従った。ようやくゲームが動き出したと。
それが三日前の話。
***
風呂桶を引っくり返したような豪雨。そして近くで轟く雷鳴。
雨の中、すすり声を漏らし、涙と鼻水を流し、白ずくめの女性はいつまでも泣いていた。
地べたにへたりこみ、自慢の白い服は所々泥に汚れている。白いソフト帽から伸びた髪もぐっしょりと濡れて肌や服にへばりついている。
全て終わった。甘い時間は失われた。幸福を失ったことを実感した。
彼女が本当に欲しかったものは、絆であり、家族であり、同胞であり、愛する者であった。
彼女はそれを手に入れたと信じて疑っていなかった。しかし相手にとっては、彼女はそのようなものに相当しなかった。
『百合ちゃんてさあ、つまらないんだよねー』
心に焼き鏝のように押し付けられた言葉。決して消えない痛み。
声をあげて慟哭するが、豪雨と雷の音によって、それは本人にしか聞こえない。誰にも届くことのない絶叫。
この痛みを消す方法は――この悲痛を断ち切る方法は、憎悪しかない。復讐しかない。彼女はそう結論に至った。その時は……そうだった。
それは少なくとも二十年以上前の話。
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