第二十五章 3

 目が覚めれば、布団の中。


 暁光次はゆっくりと身を起こす。今年で三十八歳になる光次だが、自分の人生の最早何分の一かは、この部屋で布団の中で過ごしていると、自覚している。

 このくだらない現実に価値はない。いや、全く無いとは言わないが、光次はこの現実と向かい合いたいと思わない。思えない。

 それよりも光次には、もっと大事な物がある。素晴らしい世界がある。


「あっちの世界に行っていた? それともただの夢か?」

 声に出して小さく呟く。


 光次は自分が思い描いた頭の中の世界にトリップし、自分が別の世界で活躍していると思い込んでいる。姿も名も変え、別人となっていると信じている。

 最早それが自分の描いた妄想だとすら思っていない。現実と妄想の判別がつかない。


「覚えていない……?」

 再び声に出して呟く。


 別世界に行った別の自分の記憶が無い。いや、うすぼんやりと思い出せそうで思い出せない状態。

 今見ていた光景が、夢であったのか、それとも別世界のトリップか、わからない。こんなことは初めてだ。


 しばらく目を開いたまま天井を見つめる。一時間……二時間……


 空腹を覚え、起き上がる。お手伝いさんの鮪沢鯖子が食事を作ってくれたはずだ。起きる時刻も決まっていないので、光次の分は全て予め作って温めるだけの状態だ。一緒に食事を取ることなどほとんど無い。


「あら、旦那様」

 食堂に行くと、鯖子が食事を取っていた。


「御飯いただきますね」

「優ちゃんがまだ帰って来てないんです。遅くなると連絡はありましたが」


 鯖子に言われ、時計を見ると午後七時半だ。


(優がいるから、私はこの世界に戻ってくる。優だけが私の希望――いや、未練か。優はこんな私のこともちゃんと気にかけてくれる。私の言葉も信じてくれる。優がいるからこそ、私は別の世界に行っても、死なずに頑張れたのだ)


 光次はそう思い込み、娘を溺愛していた。それと同時に、娘に対して申し訳ないという気持ちも、少しだけある。


 だが光次は全く理解していない。優が本当に苦しんでいる理由を、ほんの少しもわかっていない。自分が狂っているという自覚が無く、狂っているが故に娘を苦しませているなど、全く考えが及ばない。


「ただいまあ。遅くなってごめんなさい。あ……父さん、食堂にいるなんて珍しいですねえ」


 食堂に現れた優が、意外そうな顔をする。


「私だってたまにはトイレと風呂以外に部屋を出るさ」

「だったらたまには家の外にも出ましょうよう」

「それは……抵抗あるかな?」


 冗談めかして言う優に、光次は引け目を覚えながらそう答える。


(こっちの世界では確かに引きこもっているが、別の世界では散々表に出ている)


 言い訳するかのように、光次は口の中で呟く。


 優が鞄を下ろし、光次の前の席に着いて、一緒に食事を取り出す。


「食堂で父さんと一緒に御飯も久ぶりですねえ」


 嬉しそうに言う優を見て、光次は愛想笑いを浮かべる一方で、胸が痛み、目を閉じて妄想異世界にトリップして逃げ出したい衝動へと駆られる。こんな台詞を口にするという事自体、娘に辛い想いをさせているからだと、光次もわかっている。


 一方で優からすると、これでも慎重に言葉を選んでいるのだ。あまり追い詰めるような発言をすれば、父は逃げ出す。心を痛め、意識を失い、夢だか妄想だかわからない場所へと逃げていく。それを過去に何度も体験して、優は思い知っている。

 とてもとても弱い人間。ガラス細工のような心の持ち主。そんな父親だが、優は見捨てることができない。そんな父親だからこそ、見捨てられない。そして親の愛情に激しく飢えている。


 母親も自殺し、父親が現実逃避し続けている中で、優が正気を保っていられたのは、光次の友人である作家が暁邸に足を運び、優の面倒を見てくれたからだ。優は彼から様々なことを学び、優の人格形成に多大な影響を与えた。

 食事を終えた所で、優の携帯電話が鳴った。


『今日の依頼殺人はどうだった? もー、今日行きたかったのに、親の付き合いでどうしても外せなくってさあ』


 聞きなれた友人の不満げな声。


「鋭一さんが一人で一方的に決めましたぁ」

 目の前に父がいるので、言葉を選ぶ優。


『あっそ。新参も一緒に行ったの?』

「はい」

『あっそ。新参はどんな奴よ?』

「冴子さんの嫌いなタイプでは無いと思いますよぉ。大人しい感じの、普通の子でした。まだ中学生ですし」

『ふふふっ、普通の子が何だって殺人倶楽部に入るのよ。どう考えても普通じゃない要素があるでしょーが』


 電話の相手――冴子が、おかしそうに笑う。


「大人しそうな子だから、あまりいじめちゃ駄目ですよう」

『私が常日頃から誰かいじめてるような前提かーいっ』


 その後しばらく優は電話で雑談しながら、父のことを意識していた。

 電話が始まったとみるや、父は食事のペースをあげて、あっという間に食べ終えて、さっさと部屋に戻ったからだ。


(たかが電話で……父さんのこういう所がちょっと……)


 きっと自分がかまってくれなくなったと思って、拗ねているのだろうが、父親のこういう子供っぽさを、疎ましく思う優であった。


***


 遠目から見ても家の全体を視界に収めることが困難なほどの豪邸。庭も広い。


 鈴木竜二郎は小さな頃から、自分の家の広さが好きではない。玄関までも歩かせて、家の中に入っても部屋まで遠い。

 幼馴染の鋭一など、扉を開ければそこが部屋だ。住むだけならあれでいいのに、何故無意味にでかい家を建てるのかと、自分の親の感性に呆れてしまう。成金の悪趣味だと思ってさえいる。


 自室の鍵を開けて入る。自室には家族もお手伝いさんも、絶対に入らせない竜二郎である。しかし実際には、お手伝いさんには思いっきりバレている。

 自分以外を誰も入れない理由は、自室の風景を見れば一目瞭然だ。

 壁一面に描かれたおどろおどろしい紋様。どこで手に入れてどうやって部屋に持ち込んだかも疑われる、巨大な山羊頭の悪魔の像。杯、短剣、蝋燭、ペンタクル、お香、杖などが並べられた小さな祭壇。床一面に描かれた魔法陣。そして部屋の隅に置かれたウサギの入った飼育箱。


 畳まれてあるローブをまとい、フードを被ると、山羊の悪魔の像に向かって、竜二郎は祈る。


「また新しい生贄を探します。どうか御加護を」


 悪魔崇拝者(サタニスト)――これが竜二郎の、秘密の趣味である。


「さーてと……」

 ディスプレイを開き、とあるサイトを開く。


 竜二郎が昔から利用している、裏通りの組織のサイト――『ホルマリン漬け大統領』。彼はこの組織に会員登録している客であった。

 人間を様々な方法で虐げる様をショーにしている、おぞましい組織。裏通りの組織でも許されないような所業の数々を旗らながら、会員には資本家や政治家も多くいるため、警察も手を出せない巨大組織。

 竜二郎にとってはとても便利な組織だ。彼はこの組織を用いて、ある事に利用していた。


***


 芹沢鋭一は2DKアパートに母親と二人暮らしであった。

 多額の借金を抱え、母親はアルバイト二つ掛け持ち。鋭一のバイトとあわせてギリギリの生活だが、貧乏な境遇を呪ったことはない。


 しかし身を削って自分を育てている母親を楽にさせてやるために、手っ取り早く金を稼ぎたいとは思う。殺人倶楽部はそのために利用しているという面もある。依頼殺人によって金銭的な報酬を得る事もできるからだ。なお、金銭を求める際には殺人経験値も若干下がる。

 金銭を求める際には、特殊な事情を持つ者に限る。鋭一はその審査をパスしたものの、毎回金銭を得られるわけではないし、それほど多額の金額でも無い。借金の返済にあてては、すぐ消える。母親は鋭一がどこからか金を仕入れてきても、何も言わない。感謝だけを口にしていた。


 単に母親の助けのためというわけでもない。鋭一自身も、殺しを望んでいるし、取り憑かれている。母親に知られたら哀しませるだろうし、絶対に知られてはいけないが、やめられない。


(次はどんな殺しになるか)


 現在会員レベル12の鋭一は、月に五人までフリー殺人を行える。事前の申請が必要だが、大抵は通る。五人殺せば殺人経験値が5貰えるし、殺人経験値云々以前に、五人殺人可能という権限をフルに活かしたい。それでなくとも鋭一は、依頼殺人で金銭報酬を求めているので、経験値が少なくなっている。

 しかし誰でもいいというわけではない。見ず知らずの一般人を殺すなど、鋭一にはできない。こいつは殺しても心が痛まない――どころか、殺してすっきりするレベルの人間の屑が対象でないと駄目だ。


(どうせまた竜二郎と組んで殺すことになる……。俺一人では殺す相手を見つけるのも骨だ。いつもあいつに頼りっきりなのは気に食わんがな。どれだけあいつに借りを作り続けるんだって話だ)


 竜二郎も似たような殺人を行う。竜二郎はそうした相手を厳選して見つけてくることが出来るので、竜二郎に相手を探してもらっている事が多い。もちろん自分でもたまには探すが。

 対象は芸術的に殺さないといけない。怖がらせ、苦しめて、絶望を味合わせて殺さないといけない。そのコンボが成り立ってこそ、美しい殺しだと信じている。殺人は芸術だという観念が、鋭一の中にはある。

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