第二十四章 37

 数百年も生きていながら、累はかつてこれほど激しい怒りを感じたことはない。

 自分の大事な半身とも呼べる者が穢されるのを目の当たりにし、頭部以外の全身が沸騰し、しかし頭だけは凍りつくように冷えている。歯が、唇が、指先が特に振るえているのが、自分でわかる。

 炎と氷が同居した怒り。ドス黒いヘドロのようなものが急速に広がり、魂を蝕む感触。それを累は素直に心地好いと感じた。絶望と共に沸き立つ深く激しい怒りに身も心も委ねる事に、確かに快楽が生じていた。


「父上っ」


 獣之帝の執拗な愛撫に、懸命に抵抗していた綾音であったが、累が放つ膨大な殺気に反応し、獣之帝の脇の隙間から、累の姿を確認した。

 綾音が今まで一度も見たことのない、父の憤怒の形相。累の怒っている理由は一目瞭然だ。


(私が無理矢理組み敷かれたと誤解している。解かないと……)


 綾音が呼びかけようとしたが、累の方が先に動いていた。

 累が空間転移して獣の帝の上に現れ、不壊の妖刀『妾松』を振るう。


「くぁっ!?」


 殺気と空間が歪む気配に反応して、かわそうとした獣之帝だが、あまりにも突然であったため、背中を斬りつけられながらその場を飛びのく。


 驚いたような顔で、累を見る獣之帝。ここに来てからというもの、ずっと自分と仲良く過ごしてきた累が、突然怒りと殺気に満ちて襲い掛かってきたのだ。

 困惑する獣之帝に、累は一気に間合いを詰め、突きを繰りだす。獣之帝は体を横に傾け、なおかつ上体を大きく逸らして、累の突きをかわす。


「父上っ、お待ちくださいっ」

「くうううぅぅぅぅぅあああぁあぁぁあっっっ!!」


 綾音の制止は、獣之帝の咆哮によってかき消された。

 人も妖も底無しの恐怖へと陥れる咆哮。広間にいた女達も動物達も震え上がる。綾音も相当堪えた。しかし怒りの化身となった累には全く効いていない。咆哮をあげる獣之帝に再び剣を繰りだす。


 咆哮が中断させられる。動物達が一斉に逃げ出す。女達も何人かは広間の隅へと逃げようとする。


「くぅあっ!」


 一声叫び、獣之帝が腕を振るった。突きをかわして、カウンターの掌打が累の胸の中心に炸裂し、累の小さな体が吹き飛び、床を転がる。

 いくら累の体に重みが無いとはいえ、掌打一発で数メートルも吹き飛んだ事に、綾音は目を剥く。相当な膂力だ。


 かなりのダメージであったにも関わらず、累はすぐさま起き上がり、術を唱える。


「人喰い蛍」


 三日月状に消えては光る人喰い蛍が、猛スピードで、あらゆる軌跡、あらゆる角度で、獣之帝へと襲いかかる。蛍の数も速度も、通常よりずっと多くて速い事に、綾音は驚く。激昂している事で、無意識のうちに術の力が増しているのだと察した。

 翅を広げ、高速飛翔で避けようとした獣之帝。だが、飛んだ後こそ目にも止まらぬ速さで動けるものの、翅をひろげるまでに一秒程の時間を要するため、その間に何発か人喰い蛍で貫かれてしまう。


 飛んでからの獣之帝の動きの速度は、とても人にとらえられるものではないと、綾音の目には映った。

 人喰い蛍も全てかわして、あまつさえ累の背後へと回った獣之帝が、累の背中に蹴りを入れる。再び吹き飛ばされる累。


「くあぁぁぁっ!」

 獣之帝が口を大きく開け、口腔に光が満ちる。


「くうっ」


 倒れた累めがけ、口から光線を吐き出しかけた獣之帝であるが、その直前に頭部を上に向けて逸らし、吐き出された光線は、洞窟の上側の壁を直撃した。

 累が何かしたわけではない。綾音が倒れた累の前に立ち塞がって、両手を広げてかばったのを見て、獣之帝は慌てて攻撃を別方向へと逸らしたのだ。


「父上、やめてください。誤解です」

 累にすがり、懇願する綾音。


「……乱暴に抱かれたというわけでもないようですね」


 綾音を見て、累の怒りが急速に失せる。


「いえ、そもそもされていませんから」

「大丈夫……何も責めはしませんから……それとも、責めて欲しいのですか?」

「いえ、だから……」

「私は組み敷かれちゃったけどねー」


 いつの間にか目を覚ました蜜房が、すでに服を着た状態で、苦笑いを浮かべて、二人の会話に割ってはいる。


「誤解ですよ。私が拒絶したら彼も途中で止めたのです」

「累ちゃん、獣之帝は累ちゃんみたいな腐れ外道と違って、嫌がる女の子に無理矢理乱暴するようなことはないわよ」


 綾音と蜜房の二人がかりで説得され、累は大きく息を吐いた。


「つまり……蜜房は嫌がらなかったということですか」

「いやいや、私だって最初は拒ん……」


 累の物言いに憮然として、言い訳しようとした蜜房だが、途中に獣之帝が累に襲いかかり、言葉は途切れた。


(こちらが一度殺気と戦意を見せてしまったから、向こうにも火をつけてしまったようですね)


 高揚感に包まれながら、累は獣之帝の飛び蹴りを回避する。


「水子囃子」


 獣之帝の高速飛翔が鬱陶しいので、まずは動きを封じようと、平べったい水子霊達を呼び出し、その身をくるむ。

 霊による束縛を受け、地面に落ちる獣之帝。通常なら全く動けなくなる所だが、獣之帝はそれでも立ち上がり、累へと駆けてきた。しかし目論見通り、翅だけは封じた。


(このまま……戦う? 誤解であったというのに?)

 累の中で、疑問が生じる。


(せっかく会えた御頭の転生と、戦う? 殺す? 僕が?)


 普通に考えれば有りえない。しかし、例え相手が誰であろうと、戦いとなれば――一度火がついたら手が抜けず、とことんやらなければ気がすまない性分の累である。


(しかもこれだけの強者。久しぶりの戦い甲斐のある相手)


 激しくせめぎあう二人の自分。二つの想い。灰龍と波兵の言葉が思い出される。あの二人も二つ抱えて、悩み、答えを出した。あるいは出そうとしている。


 獣之帝の動きが止まった。うずくまり、そして――


『臆してんじゃねーぞ、累。しっかりとぶち殺せ』

 突如響いた声に、累は固まった。


「そんな……夢ですか……これは」


 累は目の前に現れた幻影を見て、震えながら涙声を漏らす。


「御頭!?」


 それは確かに、大昔に死に別れた、累の想い人の声であった。


「幻聴……」

『幻聴ではありませんよ』


 累が呟いた直後、聞いたことも無い声が響く。


『貴方が慕う者のさらに前世の者です。貴方の目の前にいる、来世の私を通して何とか声だけ届けています』

『今喋っている奴の術でな。転生してなお、前世の力と記憶と意識を引き継がせるんだが……術そのものは失敗みたいでな。魂の奥底にへばりついた残留思念として残っている』


 聞いた事も無い涼やかな声と、懐かしい御頭の声が交互に響く。二つの声は、綾音と蜜房の耳にも届いていた。ちゃんと音声として広間に響いている。


『解説している余裕も無さそうですよ。伝えたいことだけを伝えましょう』

『そういやそうだな。意識のあるうちに言っとく。俺の来世の姿――こいつは闘争本能の塊。戦う相手を求め続けていたんだ。で、お前も同じだ。戦いを望んでいる。つまり、道は一つしかねえ』

「せっかく巡りあえたのに、それなのに……戦って殺すんですか……?」


 半泣きの顔になる累。


『さっきは殺す気満々だったじゃねえか。あれでいいんだよ。縁は切れやしねえ。そのうちまた輪廻の旅の最中に会えるだろうさ。それより今を楽しむべきだ。お前の望みは一つかなったんだぞ? お前は闘争が望みだったろう。磨き上げた自分の力を存分に叩きつけられる相手だ。思う存分遊べよ』

「そうですね……。僕も、気持ちが割れています。やっと出会えたお頭を殺したくなんてない、戦いたくなんてないという気持ちと……」


 半泣きの顔が、劇的に変化した。涙ぐんだまま、不敵な笑みが浮かぶ。


「本気で殺し合って楽しみたいという二つの気持ちが……」


 後者の感情は、別に何も不思議でもない。戦場こそ故郷とする累にしてみれば、当然のことだ。自らを最強だと信じて疑っていなかった自分の前に、その矜持を揺るがすほどの怪物が現れてくれたのだ。累にとっては、これほど嬉しいことはない。

 自分も獣之帝も似た者同士。好敵手と巡りあうことを望んでいたし、一度火がついたら止まらない。


『累、会えてよかったよ。じゃあな』


 御頭の気配が消えると同時に、獣帝が起き上がり、水子の霊を振り払い、累へと飛翔する。


「黒髑髏の舞踏」


 累が雫野の奥義の一つである術を発動させる。獣之帝が累の直前まで迫った所で、累の周囲に、夥しい数の黒い骸骨があふれかえる。

 様々な衣装に身を包んだ骸骨の群れは、怒涛の勢いで獣之帝に襲いかかった。骸骨一体一体は大したことがないが、その数と殺意と勢いは、獣之帝さえひるませ、体中に骨を突き立てられた。


「くぅああぁぁぁぁああぁっ!」


 獣之帝が咆哮をあげる。累に恐怖が沸き起こるが、それでひるむことはない。むしろ恐怖は、この戦いをさらに楽しいものにするスパイスでしかない。


「悪因悪果大怨礼」


 至近距離から、破壊のエネルギーをたっぷりと伴った黒い光を放ち、獣之帝の左脇腹に大穴を開ける。


「くぅぅあっ!」


 髑髏の群れを振り払い、獣之帝が下から上に向かって腕を振るう。かわしたつもりの累であったが、左腕が丁度肘の辺りから千切れ飛び、さらには右側頭部が、頭蓋骨が、脳が、爆ぜるようにして粉みじんに吹っ飛んだ。


 ゆっくりとよろめき、地面に向かってうつ伏せに体を傾ける累。


「累ちゃんっ!」

 累が殺されたと思い、蜜房が悲鳴をあげる。


「大丈夫です」

 いつの間にか蜜房の隣に来ていた綾音が告げる。


 倒れかけた累だが、剣を握った残った右腕で、地面に剣を突き立てて踏ん張る。右側頭部が歪な円状に穴が開いた様な形で大きく欠けたまま、頭を上げて、左目だけで獣之帝を睨みつける。


 獣之帝の体に開いた穴が少しずつ再生していく。一方で累の頭と腕は、瞬時に再生した。


「何あれ……」


 常人なら致命傷である損傷が、あっさりと治って元通りになったのを見て、呆然として呻く蜜房。累が強力な術師であることは知っていたが、致命傷からの再生まで可能なほどとは、思っていなかった。


(再生力は父上の方が上。これなら勝機がある)

 綾音はそう判断する。


 累が刀を振るう。獣之帝は素手で刀を受け止めようとしたが、脇腹に開いた大穴のせいで重心のバランスがうまくとれず、よろめいてしまう。

 黒い刀身が袈裟懸けに獣之帝を切り裂く。


「くああぁっぁあああっぁぁぁっ!」


 悲痛な叫びをあげる獣之帝。しかし悲鳴を終えた後のその顔には、凄絶な笑みが広がっている。


「人喰い蛍」


 至近距離でもって、ありったけの数の人喰い蛍を浴びせる累。獣之帝の体のあらゆる箇所に、小さな穴が開く。

 ぼろぼろにされていく獣之帝を見て、女達が悲鳴をあげている。明らかに獣之帝が劣勢だ。

 蜜房の目からも、累の方が押しているかのように見えた。が――


「くうぁああぁ!」


 獣之帝が飛ぶ。逃げたのではない。至近距離にいる累めがけて体当たりをかまし、そのまま累の体を掴んで飛んだのだ。

 飛んだ先は、山の斜面に開いた、外の景色が一望できる穴だ。獣之帝専用の出入り口でもある。


 もつれあったまま、空中へと飛び出す二人。累はそれが何を意味するか理解し、青ざめた。

 顔と顔がすぐ触れ合いそうな距離で、獣之帝がにやりと笑う。


 直後、轟音と共に、稲妻が二人を直撃した。


(自分ごととは……流石は御頭の転生……)


 累も黒こげの状態で、口だけを笑みの形にする。


 数億ボルトの電圧をくらって、さらには雷撃より生じる高熱を受け、真っ黒こげになった二人は落下していった。しかし落下する最中でも、累は剣を手放さなかった。

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