第二十四章 3
累と綾音は、活動写真を観に行った。
今ではすっかり一般的となった庶民の大衆娯楽であるが、何十年か昔、初めて活動写真を目にした時、累も綾音も驚いたものだ。ついに一般人まで術を使う水準になったのかとまで、思ってしまったほどである。
活動写真館を出た所で、すでに日は暮れかけていた。
「今更ですが、やはり女形より、女優を使った劇の方がずっといいですね」
綾音が言った。かつて歌舞伎では、男性が女性の役に扮する女形ばかり見てきた綾音であるが、最近は少女歌劇や活動写真等で、当たり前のように女優を見るようになってきた。
「綾音と会う少し前の時代には、歌舞伎でも……女性を使っていたのですよ。江戸幕府が禁止してしまいましたが。女形は……そうして生まれたのです」
「そうだったんですか。それは初耳です」
「僕は……規制の類は嫌いですが、規制されることで生まれる文化も……あります。とはいえ、やはり綾音の言うとおり、女性役は女性が演じるのが……一番ですね。綾音の……」
「何ですか?」
「いえ……何でもありません」
綾音の美貌なら女優になれるかも――と言いかけて、気恥ずかしそうに口をつぐむ累。
「それにしても……」
物憂げな面持ちになる累。
「街中にも……あちこちで、ほのかに妖気が漂っていますね」
周囲を見渡し、累が言った。行き交う人々の中に、人の姿をした人ならざる者が混じっている事も、累にはわかってしまう。
「ええ。妖が増えています。人に化けて、あるいは紛れて、都市内部でも平然と生活していますよ。全てが人に敵対的というわけではありませんが、人に牙を剥く者も少なくなく、術師達は調査と討伐のため、忙しい日々を送っています」
累よりもずっと、世俗にも人外事情にも詳しい綾音である。他流派の術師との横の繋がりも多い。
その後しばらく二人で街中をぶらつきながら談笑した後、カフェーへと入り、夕食を済ますことにした。
エプロン姿の女給がせわしなく動き、累とぶつかりそうになる。店内の狭い間取りのせいで、後ろの客と背中が触れそうであるため、神経質な累は実の所あまりカフェーが好きではないが、綾音は気に入っているようなので、黙っておく。
楽隊が演奏しているジャズを聴きながら、累と綾音は夕食をとる。
途中から相席になり、でっぷりと太った中年男が同じテーブルに向かって座り、下品に音を立てながら食事を取り出したので、累は早急に席を立ちたくなった。
しばらくジャズの演奏を聴いていたかった綾音であったが、累があからさまに嫌そうな顔をしているのを見てとり、店を出ようとしたところ、すぐ後ろの席の話題を聞いて、出るのを思い留まった。
「聞いたか? 柘榴豆腐売りの噂」
「また出たのか? ここの所聞かなかったが」
「北豊島郡の王子町に現れたって話だ」
「スペインかぜが流行った辺りに流行った噂だろ。どんな病もたちどころに治す柘榴豆腐。でも食った者は、しばらくすると化け物になって、家族を食い殺しちまうって話」
「知ってます。村一つ消えたなんて話も聞きましたよ」
「その噂は本当だ。私の祖父の村が全部消えた。祖父を含め、村人が全員いなくなっていた」
「柘榴豆腐売り自体が妖怪で、人をさらうって話も聞いたぞ。だから柘榴豆腐売りとは一人で会ってはいけないと」
最初に柘榴豆腐売りの噂を口にした者達だけではなく、話題は他の席に腰を下ろしていた者達にも伝播し、店内のあちこちで、柘榴豆腐売りにまつわる噂を口にしだす。
「行きましょう……」
もう少し話を聞いていたかった綾音であるが、累に促され、仕方なく店を出る。
カフェーを出てから、しばらく二人は無言で歩いていた。
「父上……思い出しませぬか?」
夜空を見上げ、綾音が口を開く。
娘が何を言いたいのか、察しはつく。累も感じ取っている。
「あの時も……このような感じでした。世に不吉な妖気が満ち溢れて、霊的磁場が乱れ、魑魅魍魎が跳梁跋扈し……」
「ええ、そのうえ続け様に災いが降りかかっていましたね。あの時に比べれば、今はまだ、大したことはありません」
およそ三百年前に、弟子にして師であった老人が、この国そのものを祟り、呪い、転覆しようとしていた事を、累は思い出す。
彼の野望は累と綾音によって潰えたが、たった一人の妖術師であろうと、入念に準備すれば、国一つ滅ぼしかねないほどの災いをもたらすことが出来ると、証明された。
「昨今の気の乱れも、何者かの意志が働いていると……思いますか?」
「はい、はっきりと感じます」
累の問いに、綾音は躊躇う事無く答える。
「だとして……また、お前は立ち向かいたいと? 僕にも戦わせたいと?」
「あの時以上にそう思います。私も父上も、あれから随分と歳月を経て変わったはずです。父上に至っては、自分の呼び方も変わってしまいましたしね」
綾音の指摘を受け、累は微笑みをこぼす。
「私から僕と呼ぶようになったのは、わりと最近……ですけどね」
学校に通うようになってから、同級生の影響を受けてこちらの呼び方の方が気に入ってしまい、一人称を私から僕へと変えた累である。
「綾音は……僕と正反対ですね。この世界を好いている……守ろうとしている……」
「守りたいと思っています。父上とて、今の生活はまんざらではないでしょう?」
「僕達超常の領域にいる者が出来ることには、限度がありますよ? 時代の動乱によって、呆気なく世の中は崩れます」
「それとこれとは別です。時の移ろい……世の流れによる乱れと、人外によってもたらされる破壊とは、全く別物です。後者は、私達が立ち向かい、人々を守らなくてはならないと、それが義務であると、私は常々から思っていますから」
思っているだけではなく、長年にわたって実行し続けてもいる綾音であった。
綾音とは逆に、累はその力で人の世に災いをもたらしているが、綾音は見て見ぬ振りをしている。世の中全てを破壊しようとまではしているわけではないし、悪だとわかっていても、父と事を構えたいとは思わない。累が犯した罪を償う意味合いも込めて、綾音は世の人々を人外や異形から守ろうと努めている。
(いずれ僕も……あの時の右衛門作のようなことをしないとも限らないのですが、その際には……綾音とも戦うのでしょうか)
巨大な破壊の欲求は累にも強くある。
戦国の世に生まれた累は、依然として戦の世への未練が強い。幕末の世は累の心をある程度満足させたが、物足りなくもあった。累が望むのは、果てが見えぬほど延々と続く戦の世だ。そんな素敵な世界が作れる方法があるとしたら、累は喜んで破壊に身を投じるつもりでいる。
***
猪園波兵(いのそのなみへい)は先日より、猪園船勝(いのそのふねまさ)という篤志家の政治家の家にて、下宿することとなった。
元々の名前は霞之波兵といったが、引っ越してからは、世話になる政治家の猪園姓を名乗ることにした。
下宿と言っても、波兵は誰に家主である政治家に一切の気兼ねをするつもりは無い。彼はすでに波兵の力によって、波兵の思いのままに動く、操り人形となっている。
人でなくなることによって身につけた、便利な超常の力の一つ。人の心を思うがままに操る能力。対象に己の血液を幾度となく服用させ続けて、何度も視線を合わせて暗示をかけて刷り込みを行うという条件が必要で、お膳立ての手間と時間をかけなくてはならないが、一度操ってしまえばこちらのものだ。その後も血を飲ませ続ける必要もあるので、面倒ではあるが。
波兵は明日から中学に通うこととなっていた。これは波兵が家主を洗脳する前から、家主が決めていた事だ。波兵も特に抵抗なく受け入れていた。
自室でくつろいでいた波兵が、ふと妖気を感じる。
「灰龍の使いか」
声をかけると窓が開き、小さな妖怪が室内に入ってくる。目の部分だけが開いた頭巾を被り、体にはボロ布を巻いている。被った頭巾のこめかみの部分二つが尖っており、角が生えている事が伺い知れた。
「そろそろほとぼりが冷めてきた頃ということで、柘榴豆腐売りに再び活動を再開してもらうこととなった」
小さな妖が告げる。
「お前の力があれば、柘榴豆腐売りの活動の有用な手助けとなる。そこで――」
「ふざけるなと灰龍に伝えておけよ。誰があんな奴に手助けするか」
怒気に満ちた声で妖怪の言葉を遮り、波兵が整った顔を歪め、小さな妖怪を凄まじい形相で睨みつける。
「わ、わかった……」
波兵の放つ殺気に怯え、妖怪は逃げるように窓の外へと姿を消した。
「よりによって柘榴豆腐売りの手助けをしろだ? あいつのせいで俺は全て失ったっていうのにっ。灰龍の奴、ふざけやがって……」
忌々しげに吐きすて、波兵は開けっ放しにされたままの窓を閉める。
「それを言うなら灰龍達も全部同罪だがな。あんな奴等しか、俺には仲間と言える存在がいないんだから、救いがねーよなあ、俺も。なはは……」
ベッドに身を投げ出して天井を仰ぎ、波兵は自虐的に笑った。
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