第二十四章 2
大正十一年。東京府東京市深川区。
学帽を目深に被った学ラン姿の少年が、帰路に着く。
制服や身長からして、中学生だと思われる。それだけなら珍しい光景ではないが、学帽の隙間から微かに見えるその髪は、淡い白金のそれであり、肌も透き通るような白であるため、彼を初めて見てその事実に気がついた者は、物珍しげに振り返る。
少年が庭の無い二階建ての文化住宅の扉を開ける姿を、向かいの家に住んでいる少女が、家の中から窓越しに見送る。
「ただいま……」
誰にも聞こえぬ声で呟き、二階へと上がり、自室の扉を開く。
部屋の中に入り、窓を開くと、向かいの家に住んでいる少女が家の中から出てきており、少年と目が合う。少女の歳は六歳か七歳といったところか。少年に向かって笑顔で大きく手を振る。少年も少女に向かって小さく微笑むと、小さく手を振る。
少年は本棚から一冊の本を手に取ると、椅子に腰かけ、帽子をかぶったまま本を読み始める。
気配が近づいてくるのを感じるが、少年は反応しない。あえて無視して、読書に熱中する。
気配の主がノックも無しに扉を開き、室内に入ってくると、少年の帽子を取った。
白金の髪が露わになる。そして少女と見間違うかのような美貌も。
「累ちゃん、せっかくの綺麗な髪を隠すの、勿体無いわ」
家の主である女性が微笑みながら声をかけた。袴姿で丸眼鏡をかけ、頭髪は首の後ろでゆるく結ってある。歳は二十代後半といったところで、愛嬌のある顔立ちをした中々の美人だ。肉付きのいい豊満な肢体は、服の上からでもはっきりと線が浮き出ている。
その女性の名は朽縄蜜房(くちなわみつふさ)といい、少年を自宅に下宿させ、衣食住と学業の援助をしつつ面倒を見ていた。
通常の書生であればその見返りとして、雑務や護衛といった事をやらせる所であるが、蜜房が少年に求めることは、それらとは全く異なる。
「目立ちますからね。隠すには……丁度いいのです」
控えめな口調で少年――雫野累は言う。見た目は白人のそれであり、しかも並外れた美貌の持ち主であるが故、彼は昔からずっと、極力頭部が隠れるような格好をし続けていた。
「武者小路先生の作品が好きなのはいいとして、少しは私の作品も見なさいよ」
溜息混じりの笑顔で言う。
蜜房は犬飼蜜房という筆名で、売れない女流作家をしていた。
「そろそろお昼ね。ライスカレーでも作りましょうか? それともポークカツレツがいい? コロッケにする? 一応、綾音ちゃんの分も作っておこうかしら。外出食べてくるかしらね? 綾音ちゃんはどちらが好きなのかな」
「ではライスカレーで……」
「はいはい」
累が答えると、蜜房は窓の方へと歩んでいき、窓を開けて、道で遊んでいる少女へと声をかける。
「さくらちゃーん、うちでカレーご馳走してあげようかー?」
「わーい? やったーっ」
向かい家の少女さくらが、歓声をあげる。
「ちゃんとお母さんにお断りしてくるのよー」
「はーい」
蜜房とさくらのやりとりを、累は微笑みながら見つめる。
(こんな心穏やかな日々が……再び訪れるとは……)
そう思う一方で、累は複雑な心境でもあった。
本来の自分は――これまでの自分は、世を憎み、恨み、背を向けて生きてきた。歴史の動乱の影で、破壊と殺戮のおこぼれにあがって、暗い欲望を満たしていた。
だがその一方で、生きることに――その心を闇に浸す事に、累は疲れ始めてもいた。そんな矢先、彼は蜜房と会ったのだ。
朽縄蜜房は霊的国防を担う大家の一つ――朽縄一族の当主であるが、普段は物書きとして好きなように生きている。朽縄一族の管理も、適当に行っている。蜜房が朽縄家当主として真剣に仕事に臨まねばならないとなれば、それは余程の有事に他ならない。
今の所、蜜房はこれまでの人生で、そのような事態を経験したこともない。代々国に仕えた朽縄家の者には、朽縄が動くほどの有事など、一生経験せずに生涯を終える当主の方が多いくらいだ。国に仕える妖術師呪術師流派は他にも無数にいるし、大抵の超常関係のトラブルは、他の流派が済ます。
朽縄一族、白狐家の二つは、最終防衛線にも等しく、この二つに国から要請があるとすれば、それは国家の危機にも繋がる事態と考えてよい。
作家として一人で好き勝手に生きている蜜房だが、妖術師としての宿命を忌避しているわけでもない。妖術師としての修練も、日々真面目に取り組んでいる。だからこそ累と出会い、他流派の妖術師同士としての交流のために、彼を下宿させている。
雫野流としては、機会があれば他流派とも混じって積極的に学ぶべしという方針なので、累は蜜房の要望を快く受け入れた。
「累ちゃーん、綾音ちゃんが来たわよー」
一階へと向かった蜜房が、下から声をかける。
しばらくすると、蜜房と共に、一人の娘が累の部屋に現れた。累と同じ鮮やかな緑色の瞳を持つ、十代後半と思われる少女だ。
「父上、お元気そうで何よりです」
累の顔を見て、累の実の娘である雫野綾音は、嬉しそうに微笑んだ。累も同時に微笑む。蜜房の目があるからできないが、抱きしめたい衝動に駆られる。
数百年の間、累と綾音は、つかず離れずという関係を続けてきた。綾音はともかく、累からすると綾音は、長い時間共に過ごすのがどうにも苦手であったからだ。久しぶりに会うだけならいいが、長い時間を共にいると、段々と娘が疎ましく感じてきてしまうのである。それ故に、定期的に会うような関係を続けていた。
綾音は累と離れて術の修行に励む一方で、雫野の妖術師達の管理もしている。管理化にある妖術師達とこまめに連絡を取って交流や修行を行い、新しく雫野の術を受け継いだ者が現れた際には、術試しを行ったり、相手の足りない部分を補ったりなどという役目も、こなしている。
雫野の術師は決して多くは無いし、道場のような拠点を築いて一つの場所に固まるようなこともないが、綾音は雫野流の師範兼管理者という目で、雫野流の妖術師達からは信頼される立場にあった。
「丁度いい所だったわね。綾音ちゃんのカレーも作っておいたのよ」
「御馳走になります」
「あー、綾音おねーちゃんがきてるー」
綾音が頭を下げた直後、二階まで上がってきたさくらが嬉しそうに声をかけた。
その後四人でライスカレーを食しながら、楽しげに雑談をかわしていたが、さくらが家を出た後、綾音が真顔になった。
「父上、蜜房さん、件の破心流妖術師の噂は耳に入っていますか?」
綾音が触れた話題に、蜜房が少し嫌そうな顔をする。その噂を知っているからだ。
「ええ……知っていますよ。中々の使い手らしく、何人も返り討ちにしたとか……」
累は特に何の感慨もなく言う。
綾音の口にした噂とは、超常関係者の間だけで広まっている代物である。妖術を利用して連続殺人と婦女暴行を働いている者がいるという噂だ。
蜜房の家で世話になるまで、自分も同様のことを散々やった累からしてみると、別に何とも思わない。蜜房の手前、現在はなるべく悪事は控えているが。
「破心流妖術も流派の形態や方針としては、雫野流と似ているわよね」
蜜房が言った。
破心流妖術は非常に会得しやすい妖術として名が知れており、この術の使い手は多い。習得しやすさに特化させたうえで術が編み出されているので、それも当然と言える。
雫野流と似通っている部分は、希望者への門戸が開かれている所に有り、会得した妖術師から妖術師へと、個人間で伝えられる形態にある。
だがそのために、この妖術を悪用する者が多く現れてしまう部分も、雫野流と似通っている。雫野流を用いて度の過ぎる悪事を働く者が現れた際は、綾音が処分してまわっている。もちろん父親で開祖の累は例外として。
「最近、あちこちで人外の事件が頻発しているため、中々手が回らないようです。もし私に声がかかった際は、対処してもよろしいでしょうか?」
「別に……そうなったら、僕の許可を取る必要はありませんよ」
微笑を浮かべる累。ただ律儀に断っているだけではなく、あえて蜜房の前で言うことで、累が不許可しづらいように綾音が計算している事が、おかしく感じられてしまった。
「それより、そろそろ行きましょうか……」
累が立ち上がり、帽子を被る。
「はい」
照れくさそうに頷く綾音。
「楽しんでらっしゃい」
蜜房が笑顔で声をかける。久しぶりに会った際、親子で遊びに行くのが定番になっていることを、蜜房は知っていた。
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