第十三章 1

 嘲り、罵り、殴り、痛めつけ、辱める。


 悪意をもって他人を攻撃して傷つけるという行為。反撃もできない相手にそれを実行し、楽しむという行為がどれだけ酷いものであるか、自ら受ける側になって初めて知った。

 それまでは自分が行う側だった。他者を傷つけて喜んでいた。痛みをこらえる様を見て、耐え忍ぶ姿を見て、それが楽しかった。今から思うと、何と酷いことをしていたのだと、ついこの間までの自分を呪わざるをえない。

 自分がしたことも、されたことも、臼井亜希子の中でトラウマとなって残っている。それは悪夢という形で何日か置きに寝る度に再現される。


 助けを求めても、自分には助けてくれる人など誰もいないということも、わかっている。愛する父と母。しかしそんなものは、元々いなかったと知ったからだ。

 真実を知ってなお、亜希子は両親に助けを求める。闇の中を追いかけてくる、かつて使用人だった者達。自分が散々痛めつけて嬲っていた者達が、大喜びで逆襲に転じ、今度は集団で亜希子の事を嬲らんとし、追いかけ回す。


 闇の中で両親の姿を見つけ、歓喜と共に駆け寄るが、亜希子が近寄るやいなや、両親の体がぼろぼろに崩れ落ちた。それは現実で目の当たりにした光景だ。


 幾つもの手が伸び、亜希子の体を掴んで引きずり倒す。亜希子を殴りつけ、蹴りつけ、ねじりこみ、罵り、嘲り笑う。


 亜希子には何も無い。誰もいない。孤独を受け入れると共に絶望しかけた時、亜希子の手の中に光が生じた。

 鈍く光る一振りの刃。それは確かに心を持っていた。亜希子には確かにそれがわかった。亜希子のことを想う気持ちが伝わってきた。亜希子は深い喜びと安堵と共に柄を握り締め、自分に迫る使用人達に斬りかかった。


 手にした小太刀によって、亜希子の運命は一変した。小太刀から伝わる意思により、どこを切ればいいのかわかっている。少なくとも相手が男である際は、狙いは股間だ。小太刀がそう望んでいる。


 蹂躙するだけの獲物であったはずなのに、猛獣と化して反撃してきた亜希子を目の当たりにし、使用人達が恐怖に顔を引きつらせて逃げ惑う。

 しかし小太刀より与えられる力によって、常人をはるかに上回る身体機能を有した亜希子から、逃れることはかなわなかった。


 一人残らず惨殺することで、悪夢は終わる。悪夢の結末はいつも同じだ。現実と同じ結末。

 亜希子が目を覚ます。その両手には、胸の上でしっかりと小太刀が握られている。


「ありがとう……。今日も私を守ってくれたのね」


 寝たまま手にした小太刀を掲げて、微笑みかける。

 現実でも同様に亜希子を守る力となり、たまに見る悪夢の中でも、最後に必ず現れて亜希子を救う。この一振りの無銘の小太刀が、今の亜希子の心の拠り所になっていた。


***


 目覚める度に、臼井亜希子は実感する。自分は一生出られないと思っていたあの館を出たのだと。

 そして自分の世話をしてくれていた使用人達が、一人もいないことを。全部自分が殺してしまったことを。

 確約されていたと思われたそれまでの日常が、最早どこにもないことを実感する。


 自分のことは何から何まで自分でやらないといけない。かつては風呂で体を洗ってもらうのはもちろん、食事も口に運んでもらっていたし、歯磨きすらもしてもらう有様だった。

 それらはひどく大変で煩わしくあるが、同時に新鮮で、心地好い充実感があった。たったそれだけで、生きている実感があった。


「おはよう、亜希子さん」


 食堂に行くと、朝から白ずくめの貴婦人姿な百合が挨拶をしてくるが、亜希子は無視だ。


 百合の隣の席には、坊主頭に丸顔の少年が腰掛けている。年齢は亜希子と同じくらいで、十代後半といったところだ。猿のような子というのが、亜希子から見た印象である。名を斉藤白金太郎という。


「亜希子、朝の挨拶くらいはしなくっちゃ。百合様に衣食住をまかなってもらっている立場で、そのような不遜な振る舞いはどうかと思うよ」


 白金太郎が穏やかな口調で注意してくるが、やはり亜希子は反応しない。

 常にふてくされて無視しているわけではないが、親しく挨拶をかわすような間柄であるわけがない。亜希子にとって百合は、明らかに敵と呼べる存在だ。


「話を元に戻しますが、白金太郎さんは昨日のあの作品構想はどう思いまして?」

「人間自転車ですね。車輪は口から首が生えた頭部をつなぎ合わせた輪。ペダルは手。サドルは尻。サドルが尻なので、肛門に蓋をするというあの発想、実に素晴らしいと思います。流石は百合様。是非実現させてほしいです」


 白金太郎が笑顔で述べる。百合は呆れたように小さく息を吐く。


「あら? そうかしら。私はやはり凡庸な発想ではないかと疑っていましたのに、貴方はそのように仰られるのね」

「ぼんよーという言葉の意味がわかりませんが、百合様の発想という時点で、素晴らしいこと間違いないのですよ」


 白金太郎が笑顔で述べる。百合がちらりと亜希子の方に視線を向ける。亜希子は小さく首を横に振る。


「実は今の人間自転車はね、憎き純子の発想でして、私の発想ではありませんの。話が途中でそこまでは言ってないのに、勝手に私の発想だと思い込んで褒め称えるというのは、如何なものかと思いますわよ」


 白金太郎の笑顔が凍りつく。

 この少年の百合への忠誠と妄信を、亜希子は見るたびに嫌気が差していたが、百合でさえもどこか持て余しているかのように見えた。


「私に忠誠を誓ってくれるのはさておき、ただひたすら媚びたおし、徹底した太鼓持ちとイエスマンをされても、私は嬉しくありませんのよ。私に反発的な亜希子さんの方がずっと、私を楽しませてくれますわ」

「申し訳ありません。百合様。精進致し――」

「私、別にママを楽しませるためにここにいるわけじゃないんだけどぉ」


 白金太郎の謝罪途中に、亜希子が口を挟む。


「あら、私が亜希子さんをここに置いておくのは、私を楽しませてもらうことが前提なのですから、私を楽しませてくれなくなったら、もうその時点でお払い箱ですのよ?」


 百合の物言いにカチンとくる亜希子。しかしそれをすぐに飲み込む。

 これまでなら少しでも頭にくると、ふとしたことですぐ不機嫌になり、癇癪を起こす性質であった亜希子であったが、今では癇癪を起こしそうになると、その怒りの矛先を向けていた使用人達に逆襲され、嬲られ続けた日々を思い出し、それを反射的に堪えるようになってしまった。

 そのことは誰にも話していない。百合も知らない。亜希子の中で発生した強烈なトラウマであり、同時に楔となっている。


「その楽しませるっていうのは、そこの白金太郎みたいに、会話で楽しませてあげればいいの? そうじゃないでしょ? 何か私にさせたいんじゃないの? だからこれをくれたんでしょ?」


 いつも肌身離さず持ち歩いている小太刀を取り出してみせる亜希子。


「確かにそうですわね。しかし私を楽しませてくれる意志が無いと、今、確かに言いましたわよね? でしたら私のためには何もしてくださらないのでしょう?」

「じゃあ訂正。ママが私を利用する。私もママを利用するつもり。それでいいじゃな~い」


 投げやりに言う亜希子であったが、これは本音だ。

 人一人の人生を弄んで楽しむためだけに、百合は臼井亜希子という存在を作り上げた。百合こそ諸悪の根源だ。その百合に対し、いずれ復讐しようと亜希子は思っている。


 だがそれ以前に亜希子は、一人では生活する事もままならないし、世の中のことをほとんど知らない。これまでの人生で知識を得たのはテレビと本ぐらいでしかない。


「あら? 亜希子さんは私をどう利用するつもりなのかしら? いえ、何を行いたいのでしょう」


 百合の問いに、亜希子は笑みを消してうつむいた。癇癪こそ起こさなくなったが、箱入り娘のお嬢様育ちであったが故に、感情をストレートに表に出してしまう。


「言いたくなーい。言えば絶対笑うよ。ママは性格悪いもーん」

「笑われるようなつまらないことですの? それは是非とも聞いてみたいですわ」

「ほ~らほらほら、そういうのが性格悪いっていうのっ」


 ただ、世界をもっと知りたい。いろんなものを見てみたい。いろんな人と知り合いたい。いろんな体験をしたい。それが亜希子の当面の目的であり、切なる望みだった。

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