第十一章 28

 由美からすれば、ここが気を惹く最大のポイントだという判断であったのだろう。後から考えれば、その判断は正しかったと真にも思えたが、その時の真は、全く逆の受け取り方であった。

 由美の目論見通り、計一が気を取られて視線を一瞬逸らして隙を見せたが、真からしてもそれは想定外の出来事で、自分の成すべきことを一瞬遅らせた。


 発砲――そして血飛沫。


 真の銃弾は計一の右肩の下あたりをかすめたにすぎなかったが、計一の足は一瞬止まる。


「てめえ!」


 計一の怒りは、真ではなく由美へと向けられた。雪岡純子からの指示を嫌でも思い出し、それを実行する機会が相手側から与えられたと判断する。

 続けて撃つ真であったが、計一はダッシュをして回避する。

 予想通り、計一は真の方にではなく、由美の方へと向かった。


(ここで仕留めないと鹿山が殺される)


 必死になってさらに撃つ真であるが、自分に向かって駆け上がってくるわけではなく、高速で別の方向へと動く計一の動きを捉えることはできない。

 由美の首がへし折られる刹那、確かに彼女が自分の方を向いて微笑んでいたのを真は見た。己の最期を悟り、真に何かを告げるかのように。


 真が引き金に力をこめる。由美を殺した直後のこの今なら、当たると確信した。


「糞教師……がああッ!」


 動きが止まった所を狙われて、左脚の太股に銃弾をもろに食らい、計一は短い悲鳴をあげる。


「ここここの野郎……」


 怒りに身を震わせ、計一は痛みをこらえて真に向かって駆け出す。

 その時点で、自分の体に大きな変化が起こっている事に、計一が気づいていれば、彼の運命は多少変わっていたかもしれない。ほんの数秒前は肩を撃たれても痛みすら感じなかったのに、足を撃たれた時は痛みを感じていたのだ。


 向かってくる計一めがけて二発発砲した真であるが、どちらも外し、計一の飛び蹴りが真の腹部と胸部の間に当たった。

 真の小さな体が1メートルほど吹き飛ぶ。この蹴りの威力にも、計一は怒りのあまり疑問を抱く事が無かった。その直前に真の銃弾を二発分もかわせたのが、実は奇跡に等しいものだった事も。


「嬲り殺してやる……」


 憤怒の形相で計一は、道に横向きに倒れている真へと迫る。


「おらあっ!」


 真の足めがけて蹴りを繰り出す。これで足を潰したはずだと、計一は信じて疑っていない。


「畜生、痛えんだよ! 糞が!」


 さらに腕を蹴る。蹴っている方が撃たれた脚だ。そちらを軸にすると立っていられないような気がした。


(次は顔だ。こいつは直接俺の手でぐちゃぐちゃにしてやる)


 真の襟首を掴んで乱暴に引きずり起こし、真の顔を間近で見る計一。

 あどけなさがまだ過分に残るその整った顔は、いつも通り無表情のままだった。ここまで近くで真の顔を見るのは流石に初めてだった計一は、自分がやろうとしていることを思わず忘れ、顔のパーツ一つ一つの造りと配置をつぶさに観察し、魅入ってしまった。つくづくよく出来ている。

 自分がこうありたいと思い、願い、焦がれる、これ以上は無い完全な理想の形。


(そう、その顔だ。お前が何よりも羨ましかったもの。憧れていたもの。好きだったもの)


 唐突に頭の中に虚像が現れ、計一に語りかける。


(お前が欲しかったものだ。綺麗だろ。可愛いだろ。素敵だろ。眩しいだろ。うっとりするだろ。見惚れるだろ)

「気持ち悪いこと言ってるんじゃねえよ……。でも、その通りだ」


 虚像に向けて放たれた肉声。もちろん真には計一が何を一人で喋っているのか、全く理解できない。


「この顔が全てだ。こいつのこれが俺を苦しめた。これがぁ」


 憎悪に満ちた呻き声と共に真の顔を左手で掴む。掴んだ部分が歪んだのを見て、計一は罪悪感のようなものを抱き、胸が痛んだ。


(やめろよ。壊すなよ。壊していいものじゃないんだ。可愛いもの、綺麗なもの、美しいものはな。お前と違って。こいつを壊せば、あの菊池礼子を壊した以上の冒涜になるぞ)


 虚像の警告は、そのまま計一の本心だった。しかし……あくまで認めたくない本心。


「ふざけんな! 壊してやる!」


 怒号と共に、右手を大きく振り上げる。今の自分の力なら、簡単に壊せる。滅茶苦茶に出来る。散々自分を苦しめた元凶を木端微塵に出来る。


 振り上げた拳をまさに叩きつけようとしたその刹那、計一は見てしまった。見てしまったが故に、動きを止めた。臆して、動きが止まった。

 明らかに自分の顔が粉砕されることをわかっていながら、真は目を見開いたまま、突き刺すような視線を計一にぶつけていた。


(お前なら絶対びびって目瞑ってるよなあ?)


 虚像がせせら笑う。イエス。全くその通りだと、計一も認める。

 真の視線に気圧され、計一の動きは完全に止まった。計一を心胆寒からしめた。そして計一は自覚した。目の前の存在に比べ、自分がとてつもなく弱くて惨めな存在だと、完全に自覚してしまった。


(いつもお前は逃げていた。自分から逃げていた。でももう……今度の今度こそ逃げ場はない。お前自身が、逃げ場を断った。追い詰めた。自分で逃げ場を塞いだんだ。お前が心の底から憧れて妬む、そいつに)


 虚像が冷淡な声で告げ、真を指差す。


「俺は今、この世で一番醜い」


 真に睨まれて怖気づき、拳を振り上げた格好のまま、計一は呟いた。同時に涙があふれ出た。


「今? ずっと醜いままだろ」


 凍りつくような声が真の口から発せられ、すでに力の抜けた計一の手を乱暴に振り払う。

 計一が戦意を失ったのは、真からもはっきりと感じられた。


 真が力いっぱい計一を殴りつけた。計一の体が倒れる。


「お前さっき、強くなったとか言ってたよな」


 倒れた計一の頭を思いっきり踏みつけ、真は冷たい声で言い放つ。


「全然強くなってないだろ。弱いままだ」

「なんだって……」

「力が無い時は大人しかったくせに、力を得たら強くなったつもりで調子にのるような奴が、強い奴だなんて思えない。その手品の元が無くなったら、お前はまた元通りのカスなんだろ? それのどこが強いっていうんだ?」


 計一は反論しなかった。真の言葉を全て認めていた。それどころか――


(力を得てもカスのままだ。俺はこいつに……負けたままだった)


 真の顔を壊そうとして逆に視線で射抜かれた時、計一は認めてしまった。自分は人として、真より絶対的に劣る事を。


「お前より仁や宗徳の方がずっと強かったぞ」


 先程よりさらに力を込めて、計一の頭を踏む真。


「こんな腐った豚に、宗徳も、仁も、菊池も、母さんも、鹿山も殺されたなんて……」


 仁が刑事になりたいという夢を語り、宗徳は兄に恩返しをするために家業を継ぐと言っていたことを思い出す。その道は、こんなゴミのような奴によって閉ざされた。その事実に、果てしない怒りと悔しさがこみあげてくる。


「簡単には殺さない」


 憎悪と怒りのイントネーションがはっきりとこもった声が、真より発せられる。銃で両手足を順番に撃ち抜いていく。悲鳴があがる。もはや薬の効果は完全に切れ、痛みをはっきりと感じる。

 薬の服用のしすぎで、薬の切れる速度が速くなり、いつもより早く薬が切れていた事に、計一は気づいていなかった。


「どうした? さっきみたいに有頂天な台詞を聞かせろよ。渾身のドヤ顔を見せてみろよ」


 怒りに心を任せているのが、真は心地好かった。冷たいが熱い黒い渦。そんなイメージが真の中に浮かぶ。それが真の胸の中で、何の音も無く静かに、しかし激しく荒れ狂っている。


「苦しいか? 助けて欲しいか? あいつらに対して心から謝って謝罪しろ。そうしたら助けてやる」


(謝れよ。これが最後だ)

 唐突に虚像が告げる。


(命だけじゃない。お前の心が救われるかどうかの瀬戸際だ。最期まで屑のままでいたいかどうか)

「すまなかった……」


 計一は泣きながら謝った。虚像の最後の説諭も、計一には届かなかった。謝意など全く無い。謝れば救われるという、真と虚像の言葉を信じてすがっただけの、上辺だけの謝罪。


「悪かった! すまなかった! 俺は……自分でもどうしてこんなことを……でも今は本当に心から悪かったと思ってる! 許し……」


 空々しい謝罪の途中に、真は計一の頭を力いっぱい踏みつけて、謝罪の言葉を遮った。


「心がこもってない。助かりたいためのだけの命乞いじゃあ駄目だな」


 そのまま執拗に踏みにじった後、口の中に銃をねじこむ。前歯が欠けるほど乱暴に力任せに。


(おいっ! 俺は悪かったと認めて謝ってるじゃねーかよ! なのに何で許してくれないんだよ! そもそも悪いのはお前だろ! お前が全部悪いのにも関わらず俺が謝ってやったのに、それでも許さないって、どんだけお前は極悪非道なんだよ!)


 銃口を口の中に入れられて喋れない状態でもって、真に許しを請う視線を向ける一方で、腹の底では声無き声で罵倒と抗議をし続ける計一。


「死ね」


 凍りつくような声での一言。引き金にかかる真の人差し指に力が込められた。

 間近でこの世で最も醜い命が消えたと、真は認識する。台所でしつこく逃げ回っていたゴキブリをやっと殺した時のような爽快感と達成感が、真の中で広がって満たされていく。しかしそれよりずっと強い。ゴキブリより醜く、ゴキブリより目障りで憎たらしく、ゴキブリより殺しにくい命をこの世からやっと追放することができた――そんな感覚。


(仇は討った)


 真は唐突に理解した。いや、実感した。仇討ちとは、自分の中だけでケリをつけるための、自己満足の虚しい儀式のようなものであると。


(いや、まだだ。確認しないと……)


 その後、真は二時間近く、計一の死体の傍らでネットを漁っていた。内容は雪岡研究所と、その主である雪岡純子に関してだ。


 検索をかけた時点で、真がよく知っている少女の画像が一発で現れた。ネットに載っていた雪岡純子に関する内容の数々は、真を絶望の底へと突き落とした。否、底だと思っていた場所は、まだ奈落の入り口に過ぎなかった。

 調べれば調べるほど、由美と計一の言葉が真実と裏付ける話が次々と出てきた。雪岡純子なる人物は、研究対象たるマウスと定めた人間同士をゲームの駒のように動かし、時にぶつけあわせて、ほとんど面白半分に弄び、命を奪う事も珍しくない、悪魔的人物であると。


(僕もそのマウスの一人に過ぎなかったのか。全て遊びだったと? 梅宮が僕を憎んでいることを知ったうえで、あいつに力を与え、僕に近づき、僕に気をもたせて、幸福から地獄へと一気に突き落とすために……そういう遊びなのか)


 由美と計一の話とネット上での評判はおおよそ符号する。だがそれでもまだ、真は何かの間違いだと信じたかった。純子に対しての疑念はあるが、その確証とはなりえなかった。


(何で僕がその研究対象として選ばれた? 何か理由があるのか? 梅宮が言っていたように、誰かのクローンか?)


 次々思い浮かぶ疑問。当然回答は無い。

 だがはっきりとしたものがある。真の中で渦巻く、煮えたぎる負の感情の数々だ。そしてやり場の無い喪失感と怒りが、計一だけでは食い足りず、新たな獲物を欲していた。計一に力を与えた何者かは、その対象として、十分な価値があった。


 ふと思い至り、真は計一の死体から携帯電話を取り出した。もしかしたら、黒幕たる人物と携帯電話でメールのやりとりしているかもしれない。真が普段あまりメールをしないので、その発想に中々至らなかった。

 ホログラフィー・ディスプレイを投影してメールボックスを開くと、そこには全ての記録が残されていた。純子から計一への指示の数々。明らかに純子の口調そのものの文章。真を実験台呼ばわりしている文章も無数にあった。


 真の中で純子の存在は、疑念の対象から、確かな憎悪の矛先へと変わりつつあった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る