第十一章 11

 真の父親は、真が幼稚園の頃に事故にあい、生命維持装置を取り付けられて病院で昏睡状態のまま、ずっと天を仰いでいる。

 兄弟もいないため、母子家庭で二人暮らしである。


 真の母相沢美紗は、子供が嫌いであったため、真には幼い頃から辛く当たる事が多かった。言葉でも物理的にも暴力が絶えず、真はこの母親に全く心を開けず、言いつけどおりに表情を出す事無く、常に美紗の顔色を伺いながら過ごしていた。


 家での鬱憤を晴らすかのように、真は外で暴力的になり、小学校低学年の頃から喧嘩ばかりしていた。

 他のクラス、他の学年、他の学校にと、喧嘩相手を求めて彷徨い、自分の方から喧嘩を売っていった。いじめになってしまうのは嫌なので、反撃しなさそうな相手に手を出す事はなかった。応じてくれる相手には嬉々として拳を振るった。

 幼馴染の宗徳も同様に荒っぽい性格であったため、真とよくつるんで喧嘩を売りに行った。たまに相手に怪我を負わせて美紗が呼び出され、その日は家に帰ってからこっぴどく叱られた。


 二年前――小学六年になったばかりの頃、それまで母親の前で萎縮していただけの真が、美紗の暴力に耐えられなくなり、家出をした。


 家出をしてからどこをどう彷徨っていたのか、真にはあまり記憶が無い。最終的には安楽市にいたようで、仁と麻子の母子に発見された。

 真が家に帰りたくない旨を二人に告げたので、一旦、田代家へと導かれた。しばらくしてから田代家に美紗も呼び出された。

 美紗はその時、いつも通り自分を責めていたようだが、何と言って責めていたか、真は覚えていない。特にショックも受けていない。予想通りの反応だったからだ。


「で、真ちゃんはどうして家出をしたの?」


 美紗を制して、麻子がどうして家出したのかを優しい声で問い質した。


「もう母さんと一緒にいたくなかった。僕を全て否定する。僕が他の子と同じように表情を出す事も許さない。喋り方もこうしないと駄目だっていうけど、こんな普通じゃない喋り方おかしいし、僕は嫌だったし、僕のことを心の無いロボットか何かにしたいみたいだ。外側だけはそんな風になっちゃったけど、でも、僕の心まで本当に否定するようなら、もう一緒にいたくない」


 真は呪詛を込めて、己の心情を生まれて初めて口に出した。


「何を言ってるの……? お前はどこまで私に恥をかかす気!?」


 人様の前で堂々と不平不満を口にされたことに、美紗は相当なショックを受け、同時に羞恥を覚えたようであった。いつもの硬質な声ではなく、感情を露わにして叫んだ。


「んまああーっ! 貴女! この子も心をもった人間なのよ! それがわからないの!? あなたのせいでこの子が今までどれだけ辛い目にあってきたと思ってるの!? そして今も苦しんでいるじゃない! キーッ! 少しは子供の気持ちを考えてあげなさぁい!」


 そんな美紗に、麻子が怒りと哀しみをにじませた声で一喝した。真は麻子のその時の言葉に、自分の全てが救われた気がして、その場で声をあげて泣き出した。


 たったそれだけのことで、和解が出来た。美紗曰く、本当にその瞬間まで真のことを一切考えていなかったというのだ。その時初めて、当たり前の事が理解できたのだと、後々話した。ずっとどうかしていたと。

 その時以来、真の方も母親に心を許せるようになった。依然として苦手意識があるのは変わらないし、何かあると、美紗は容赦なく拳を飛ばしてくるが。


「あのジャージの先生からまた電話きたよ」


 休日出勤から帰宅して、スーツ姿にエブロンという格好で食事を作りながら、美紗は言った。隣で真も料理の手伝いをしている。


「私の方からもお前に説教しろみたいなことね。テストを白紙で出し続けてるっていうから」


 予想通りの言葉が母の口から出てきたので、真は心の中で溜息をつく。


「以前の私なら、頭ごなしにただ勉強しろで済ませたかもね。でもそれだけで済めば、世の中の親は誰も苦労しない。お前が何を考えているのか、何を思って勉強全くしたがらないのか、私にもよくわからないし、相談した所でどうこうならないと思って、今日まで触れないで好きにさせておいたんだけど、今日はちょっと言わせてもらうわね」


 まな板で包丁を振るいながら、いつになく神妙な面持ちで美紗は語る。


「私の友達の子がね、学校を退学になったの。進学校に通っていて、成績も全国で上から何番目かっていう優秀な子。でもこないだ親を殴り、そのうえ教師までも殴り、それでおしまい。何でそうなったのか、私の友達はその後でわかったみたい。子育てしようという義務感はあっても、子供に愛情を注がなかったせいだって。今、彼女とその子供は、必死で親子の絆を取り戻そうとしている。こんなこと言うのも照れくさいけど、私もお前とそうしようとしている。お前の苦しみを知ってから、私もいろいろ考えたわ。いろんな本読んで、いろんな人の話聞いた。結局私が親としても人としても幼かったなって自覚した。友達にもその話をしたら、同じだって笑ってたわ」


 話の途中に料理は完成し、二人してお盆に料理を乗せて食卓へと向かう。真には現時点で母親が何を言いたいのか、理解できなかった。


「絆を取り戻そうとしているって言っても、具体的に何をしたのさ?」


 席につき、食事をとりはじめながら、真が問う。こんな会話が出来るくらいになっただけでも、かなり親子の仲が良好になった証だということはわかっているが、何とはなしに訊ねてみた。


「はあ? わからないの? 私もお前に愛情を注ぐように努めているじゃない。それが伝わってなかったっていうの?」


 ところが美紗はあからさまに不快感をあらわにし、手にとったお椀を置いて真を睨んだ。


「いや……会話できるだけでも、マシにはなったけど、具体的には……」

「マシって何よ。例えばその御飯のふりかけ。それが愛情の証よ。以前は無かったでしょ? でもお前が少しでも御飯を美味しく食べられるようにと意識して、かけるようにしてみたのよ」


 真顔でそう告げる母親に、真は口の中の物を噴き出しそうになった。


「ていうか、母さんのその友達の話と、僕が勉強しないと話と、何の関係があるんだよ」

「その子はもう勉強自体は諦めちゃったのよ。お前はまだこれからだし、軌道修正できるのよ。そう言いたかったのだけど、伝わらなかった?」

「いや……全然」


 その友達の子とやらも、その気になれば軌道修正できるじゃないかと言おうとしたが、美紗がかなり本気で苛立っている目で自分を見ていたようなので、口にできなかった。

 母はこれでも何かよい例え話をして、真に少しでも自分を見つめなおすよう、促したつもりであったという事だけは、一応伝わった。


(親子して不器用なんだから始末に負えないな。いや、まだ子供な分、僕の方が成長するよう心掛けないと駄目なのか)


 そう思うものの、どうすれば器用な人間とやらになれるのか、真には見当もつかない。


(器用どころか、どうやったら普通とやらになれるのかさえもわからないのに……)


 今日の昼、仁や宗徳と交わした会話を思い出す。将来のこと。だが自分はそれを自分から放棄してしまっている格好になっている。

 それを全て母親に相談するのも躊躇われる。自分と同じ不器用な人間だ。実りある答えが返ってくるとは思えない。それよりかは相談に適した人間がいる。


(今度雪岡に……いや、純子に会った時に話してみよう)


 そう心に決めた瞬間、今すぐにでも純子に会いたいという強い衝動に駆られる真であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る