第十章 29

 美香はライブの最中、歌うことに集中し続けていられなかった。いつ襲われてもいいように警戒しながら歌っていた。

 そんな美香の警戒心から発せられるピリピリした空気が、ファンにとっては、逆にライブの盛り上がりのスパイスとなっていた。いつ殺人鬼が襲撃してくるかわからないという前提状況が、異様な緊張を生んでいた事も手伝い、客の神経も鋭敏化していた。


 時折意識して運命操作術を行使しながら観客席を見渡し、偶然の導きによっていち早く谷口陸を発見できないかと試みるも、美香の視界には一向にその姿が入る事は無い。


 神経を削りながら歌い続け、ライブが終盤にさしかかったその時――


(いた!)


 客席後方の会場入り口付近に、ジャケットについたフードを目深に被った長身の男が佇んでいた。顔まではわからないが、運命操作術が発動した事に加え、ただそこにいるだけで違和感を発しているその男は、間違いなく谷口陸であろうと、美香は確信した。

 歌いながらポケットの中に手を入れ、こっそりと陸の出現をメールで知らせる。とはいえ、黒斗と蔵もカメラで監視しているので、怪しい人物の出入りはチェックしているであろう。


(ここからは私達の連携次第だな! 特に最初が肝心だ! そしてその引き金を引くのは誰あろうこの私!)


 若干自分に酔いつつも気合いを入れて、美香はさらなる運命操作術を発動する。


(歌っている最中だから、術の名を叫べないのが辛いな! まあ心の中で叫んでおこう! 不運の譲渡!)


 美香が用いたのは、自分の身に起こり得る不運を他者に押し付ける運命操作だった。確実に訪れるであろう不運や不幸が予測できるタイミングでしか使用できないうえに、確実性も欠ける代物だが、不運の後払いという名の運命操作術と併用が可能であるがため、事前に不運の後払いを使用していれば、確実に相手に何らかの不運を押し付ける事が出来る。

 ただし、どんな形での不運や不幸が訪れるかは、美香にも予測できない事の方が多い。

 だが、今回に限ってはどういう形で不運が訪れるか、美香には大体予想できた。予想できる理由があった。


(やはりか!)


 フードを目深に被った男が客席通路を歩いて、こちらに向かってくる。幾つかある通路の中で、美香が予想した通りの通路。

 そして男があるポイントまで辿りついた時、美香は歌うのをやめ、それを合図として奏者たちの演奏もストップした。


「全員伏せろ!」


 美香が銃を抜き、男に銃口を向ける。予めライブの前説でこの合図も客全員に伝達されていたので、客の多くは素直に従って身をかがめたが、何人かは怖いもの見たさで、少し頭を上げた状態で様子を伺っていた。


 フードの男が異変に反応し、フードをめくり、谷口陸の容貌があらわになる。


 美香が先に銃を撃つ。陸は軽くステップを踏んで後方に跳んでかわしつつ、懐から素早く銃を抜く。


「死ね」


 突然、陸の隣にいた客が呪詛の言葉を吐き、立ち上がった。いや、文字通り陸に飛びかかった。

 その人物は膝から下の足が無かった。顔面はごつごつしていて、化け物のような容姿だった。服は男物のそれだが、上半身だけの体躯は、陸の記憶の中に確かにあるものだった。


「芦屋か!」


 足が無かった事、服装が普段と異なる事、怪人のマスクをかぶっていた事などで、すぐには気が付かなかった。

 いや、それにしても上体の体格だけでも、認識できる空間内に入ればわかりそうなものだが、何故か見落としていた。このうっかり見落としこそ、美香の運命操作がもたらした効果であるが、陸にそれを理解できるはずもない。


 膝の断面からロケット噴射し、文字通り陸に飛びかかった黒斗であるが、陸はすんでの所でその一撃をかわす。


 黒斗が至近距離にいるという事態に戦慄し、陸は美香の殺害を早々に諦め、一目散に逃走をはかる。黒斗自体の変装も功を奏したが、何より美香の運命操作が、黒斗の存在を察知させずに側まで寄らせるという不運を招いた。


「あらよっと」

 黒斗が一声かけると、無くなっていた膝の下に足が文字通り生えた。


(今の不意打ちで決めたかったが、かわされちまったかー。美香の協力もあって、今のは絶好の機会だったのに。全く逃げ足だけは感心するよ)


 化け物のマスクを脱ぎつつ、陸の後を追う黒斗。

 追いかけまわしたあげく、会場の外の公園へと出る陸の後ろ姿を見て、黒斗は舌打ちする。


(まずいな)


 会場特設会場の出入り口から出る事は無く、柵を越えて逃走した陸は、真が待機している方向へと向かっていった。


『真、そっちに行ったぞ。みどりが来るまで何とか堪えて足止めしろ。みどりは大至急南の駐車場に向かってくれ』


 ケータイで指示を出す黒斗は、すでに陸への追撃を止めていた。


(俺が奴を追い続けるわけにはいかないんだな。そうすると奴は一目散に逃げ続ける。俺が奴を追わない格好で、真だけが奴の前に立ち塞がる。そういう状況で足止めしないといけない。そして術をかけるみどりの到着を待つわけか)


 みどりの方に逃れれば、それであっさりカタがついたのだが、そこまで陸にとっての不運は続かなかったと見える。


(いっそ美香の運命操作の不運は、奴の逃げる方向に作用させればよかったんだ。今更気が付くのも間抜けだけど。みどりが向かうまでの間、真が踏ん張る必要がある。もちろん、奴が真も無視して逃げる可能性もあるし、不確定要素が大きすぎだろう、この作戦は)


 そうは思うものの、人手の無さも手伝い、これ以上の手は思いつかなかった。


 私服刑事の動員も考えたが、何故か真はそれを却下したのだ。却下する理由を問うた所、みどりが術をかける所をあまり大勢には見せたくないという、これまた納得しづらい答えだったが、何か込み入った事情がありそうな気もして、聞き入れてしまった。


***


 特設会場を出て公園の中を走る陸。


「葉山は何をしてるんだ。芦屋の対処をしてくれないし」


 走りながら左手の甲の上に立体映像を出してメールをうつが、反応は無い。


(何かトラブルに巻き込まれたか。葉山も敵と遭遇してやりあってるとか?)


 一方、不審に思うこともあった。何故か芦屋黒斗の姿が後方に無い。


(何で追ってこないんだ? 普段ならもっとしつこく追ってくるはずなのに。葉山が逃走の手伝いをしてくれたってことか? でも逃走の手伝いでは意味が無いな……。俺が逃げる前に、暗殺のための手伝いをあの場でしてくれよ。で、状況を確かめに戻るのも危ないし)


 見渡しのきく公園で黒斗が自分の存在を見失うとも考えにくいので、何らかの事情で追えなくなったか、早い段階で諦めたかのどちらかだと思われる。月那美香の護衛に徹していると考えたならば、後者が妥当であろう。


 今、葉山と連絡がつけば、再アタックを考えてもいい。変装して客席の中に潜伏していたからこそ、自分が黒斗の存在に気が付かなかったのだと、陸は思い込んでいた。それにしてもあんなに黒斗の間近まで接近するなど、出来過ぎた話ではあるが、それが運命操作術の結果であるなど、陸には知りようがない。


 立ち止まり、逡巡している陸は、少し離れた前方からこちらにやってくる者の存在を認識した。顔も体型も、陸の記憶にある人物。最初に美香を襲撃した時遭遇した人物――相沢真だ。


(挟み撃ちでも狙っているのか? でも何かおかしいぞ)


 狭い通路ならともかく、この開けた空間でこの自分相手にその行為は意味が無いと陸は思ったが、それとは別に妙な予感を覚えた。追ってこない黒斗。唐突に前方に現れた真。何か企みがあるようにしても穴だらけのようであるし、相手の意図が全くわからない。


(無視してさっさと退くか。それとも葉山との連絡がつくのを待つか。葉山と連絡がついたら引き返してもう一度月那美香を狙うんだが、待つならこいつは邪魔だな)


 真を見据えたまま、陸は懐に手を入れる。


「あっけないもんだな。ま、作戦がうまくハマった時ってのは、こんなもんだって事は知ってるけどな」


 独り言のように言う真。少なくとも陸からするとそう聞こえたが、それは断じて独り言ではない。


(へーい、最後まで気をぬくんじゃないって純姉や御先祖様に教わらなかったのぉ~?)

「そうは言っても、こいつはもう終わりだろう」


 頭の中のみどりに返答し、真は三本の柱の中にいる陸を見据えた。


 真が何かをまた呟いているのが、陸にはわかった。今度は口の中で呟いているような小声でだ。何を呟いているのか陸にはわからなかったが、口と舌が動いているのだけはわかった。


「お前は……」


 ますます不審に思って陸が真に声をかけようとした所で、陸の周囲が一変した。陸も空間把握能力でもって、己の周囲の空間の変化を理解し、驚愕した。

 自分は今、公園では無い場所にいる。行き場の無い閉ざされた空間にいる。それがどういう事態なのか、視覚の無い陸には変化についていけない。もちろん目が見えたとしても驚愕の事態ではあったであろうが、見えずに空間の形を完全認識できる陸からすると、この変化はより驚愕と混乱を招く代物であった。


「意地悪のニュアンスで、解説しておいてやるよ」


 さらに驚く事態が起こった。閉ざされた空間の端から、真がまるで壁を抜けるかのよう入り込んできたのだ。


「ここは亜空間結界。常人では内部から抜け出すのは無理だ。時間が経過して術の効果が解けるまではな。芦屋の奴が来るまでは十分な時間だ。結界を構築するための柱の間に入った時点で、もうお前は終わっていた」

「それを親切ではなくて意地悪で教えるってのは、どういう意味なんだ?」


 本気で疑問に思い、陸は訊ねる。結界を張ったとのは、真なのであろう。他に側に人はいなかった。真が妖術師の類であることは驚いたが、本人が何故それを語ったのか。何より何故わざわざ中へ入って来たのか。


「お前に絶望を与えるためだ。お前はもう終わりだ。もっとも、芦屋が来る前に僕と少し遊んでもらうけどな」


 真からすれば、このサイコパスの大量殺人鬼は、できるだけ苦しませて殺してやりたいと考えたが、そのために真が思いついたのは、このささやかな意地悪の言葉程度であった。

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