第十章 16
夕食後、リビングに使用人一同を呼びつけて並べた臼井亜希子は、ベッドに横向けに寝た格好で、にやにやしながら使用人一人一人を一瞥していく。使用人達は亜希子と視線を合わせる事なく、亜希子の言葉を待っている。
「じゃ、あなたで」
指された女性が、前に一歩出る。他の使用人達は胸を撫で下ろしている。毎夜、夕食後に行われるお嬢様のお遊び。必ず一人選ばれる犠牲者。
「今晩のお題は~……こちら! ばんっ! 生き別れの母親と出会ったダックスフンドの泣き声!」
亜希子の出したお題とやらを聞き、前に進み出た中年の使用人は、真剣な面持ちで頭をひねり、どんな声を出したらいいか考える。
「きゃわわわわわうううーん」
精一杯頭をひねったあげく、真顔でそれらしい声をあげてみたが、
「だめーっ! アウトー! は~い、罰ゲーム!」
顔にも声にも意地の悪さをあらわにして叫ぶと、両隣にいた使用人が、犬の真似をさせられた中年使用人の腕を両脇から固定する。当の中年使用人は、諦めきった表情で抵抗しようとはしない。いつものことだ。
亜希子が枕の下から電池式の半田鏝を二本取り出すと、それぞれ一本ずつ、使用人の鼻孔へと差し込み、スイッチを押す。
「どんどん熱くなるよ~。どのくらいまで耐えられるかな~?」
使用人の顔を下からのぞき込み、亜希子は楽しそうに半田鏝に熱が帯びるのを待つ。
「あぶっ、あつつつっ。ふがぐっ。あづづづ!」
やがて熱を帯びた半田鏝に堪えきれず、使用人が顔を苦痛にしかめて声をあげ、顔を振る。その時点で亜希子は半田鏝を鼻から引き抜いた。どんなに使用人をいたぶっても、深刻な傷を負わせるほどには残酷ではない。程々にしておくよう心掛けている。
「私は生まれながらに選ばれた存在だからね。人を傷つけてもいいの。でも痛くするのは好きでも、傷が残るまでするのは何となく嫌なの」
かつて亜希子は使用人達の前でそんなことを漏らしていた。その辺が、亜希子の中にある良心の防波堤とも言えた。
「火傷になってないかな? そのギリギリの所でストップするのがいいんだけど。一応鼻に水入れた方がいいよ」
自分が傷つけた中年使用人を気遣うような台詞を口にすると、亜希子は一番端にいる青年使用人を一瞥した。
端正な顔立ちをした美形のその使用人は、救急箱を取りだし、中年使用人の鼻に綿棒で薬をぬる。流石に水を入れるような真似はしない。
亜希子は退屈な人生を送っている。亜希子の世界は、この広い館と使用人達だけで構成されている。亜希子が大好きな両親は仕事で家の外にいることが多いし、亜希子は学校にも通っていない。読書をし、ゲームをし、音楽を聴き、テレビを視て、ネットにはまり、使用人をいたぶって遊ぶ毎日である。
自分は特別な存在だからそれが許されると、普通の人間より上等なのだと、両親から何度も聞かされて育ってきた亜希子は、自分でもそう思い込もうとしていた。そう思い込むことで、この退屈で小さな世界に満足しようとしていた。
亜希子は館から出ることを許されていない。その理由は知らないし、教えてすらもらえないし、質問する事自体も禁じられている。ただこう言われている。館を出たら、全てを失うと。亜希子に外の世界に行きたいという気持ちが無いわけではなかったが、この生活と引き換えにしてまで出たいとも思わなかった。
お嬢様のお遊びが終わり、使用人達が出ていく。一人を残して。先程中年使用人の治療をしていた、あの美青年だ。
「速水……いらっしゃい」
ベッドの上で両手をひろげ、声をかける。速水と呼ばれた使用人は、無表情で亜希子の元へと歩み寄り、亜希子を抱きしめる。
両親以外で亜希子が唯一心をゆだねる存在が、この速水という男である。この館で働くようになったばかりの頃、彼は亜希子の前で、父親に向かってこう言い放った。
「もう少しお嬢様のために時間を割いてはあげられませんか? いつも御主人様の帰りを待って寂しがっています」
その時の速水の毅然たる表情を見て、亜希子は速水に心底惚れ込んだ、父親は生意気な進言をした速水を叱責するでもなく、苦しそうな顔をして頷いていた。その後、父親の帰宅頻度は以前よりも少し多くなった。
それ以来、亜希子は速水を溺愛し、信頼を寄せ、特別な扱いをするようになった。
愛する者もいて、何不自由もなく、全てが満たされた環境にあるはずの亜希子。にも関わらず、満たされない。苦痛など無い人生を送る亜希子。にも関わらず、心の芯に鈍く響く苦痛を覚える毎日。何故そうであるのか、そうなってしまうのか、本当は理解していたが、深く考えようとはしなかった。
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