第九章 糞壺の姫君と遊ぼう

三つのプロローグ

 家屋の中、椅子に座った男が熱心に作業を行っていた。

 つばが広く先が折れた灰色のとんがり帽子を被り、ほつれや汚れが目立つ灰色のローブを纏ったその男は、掌の上にある赤い瞳の目玉に、長い針のような奇妙な道具を何度も軽く刺しては、口の中で小さな声で何か呟いている。

 男の年齢はおそらく二十代後半。金色の髪が長くまっすぐ腰まで伸びている。瞳の色は手にした目と同じ真紅。面長でまつ毛が長く、穏やかかつ優しげな、繊細な美貌の持ち主であった。顔だけ見れば女性にも見えかねないが、体格はローブの上からでもがっちりしているのがわかり、完全に男のそれである。


「直りましたよ。貴女の魔眼」


 優しげに微笑み、男は傍らにいる少女に目を差し出した。少女は彼の弟子にあたり、師とお揃いのローブを纏っていたが、こちらは帽子をかぶっていない。


「ありがとさままま、マスター」


 師匠から目を受け取ると、少女は屈託の無い笑みを浮かべて礼を述べ、それを己の眼孔へとはめこむ。茶色い髪を肩辺りまで伸ばし、男とは異なる色の肌の美少女だった。


「で、マスターの予知って何だったの?」


 少女の問いに男の顔から笑みが消え、真顔と呼ぶにも躊躇うほどの真剣極まりない面持ちへと変わる。顔の変化のみならず、男の眼光の鋭さにも、少女は息を呑んだ。


「私の望みは、遠い未来に叶うかもしれません」


 男から発せられた言葉を聞いて、それは喜ぶべきことではないのかと少女は思ったが、師匠からは全くそのような様子が見受けられない。


「んー? 叶うかもしれないって、予知したんじゃないのー?」

「可能性の一つが見えたのです。私が編み出さんとした秘術が、私以外の者によって完成されたのが見えました」


 男が目を閉じる。予知の映像が脳裏に鮮明に映し出される。

 一人の少年の姿がそこにあった。黒い髪に黒い瞳。弟子である少女と同じ人種であると思われる色の肌。見たことも無い服装。両手で構えた、見たことも無い形状の鞘に納められたままの剣。愛らしさと凛々しさを備えた美貌。

 服のあちこちが破れて血が吹き出し、頭部からも出血してその美貌に赤い筋が幾条も垂れている。少年が戦いの最中にあり、すでに満身創痍である事が伺えた。


 少年の前には、一人の少女がいた。細く長い手足と、足まで伸びた長い黒髪が印象的な、これまた美しい少女。先が沿った長い木製の棒を携えて、目の前で荒い息をつく少年に対し、少女は口を大きく横に広げ、歯を見せて笑ってみせた。明らかに少年と相対している事が伺えた。


 その少年が何者であるか、男は悟っている。そして少女がこの後で少年に何をするのかも、男は予知していた。


(つまり、私は今からこの予知に従うかの如く、準備せねばならないということですね。遠い未来へ――現世では叶う事無き望みを託すがための、壮大なる計画を)


 男は目を開け、弟子である少女を一瞥した。


(この子にも手伝ってもらう事にしましょう。彼女には酷な事になるかもしれませんが)


 師と同じ色の瞳を持つ少女は、己の師の考えなど露知らず、この先途方も無い年月を彷徨い歩くこととなる。


 それが千年程前の話。


***


 山の麓にある大根畑。収穫前で大根の葉が青々と一面を埋めつくしていたのは、つい数刻前までの話。今ではその大根の葉の多くが、赤く染まっている。

 死山血河という言葉が誇張抜きで相応しい程に、激しい戦場となったその畑の中は、甲冑を纏った無数の屍で埋まっていた。


 その中で一人だけ、血まみれの武者が立ち尽くし、憔悴しきった顔で天を仰いでいる。

 血にまみれた漆黒の刀身の刀を携え、兜は被っていない。癖っ毛だらけの長髪を頭頂で結った精悍な顔つきの男だ。体中に傷を負い、その出血量は夥しい。刀傷、槍による傷、術による傷といろいろあるが、何より致命的であったのは幾つもの銃創だ。


「おい……累……累」


 ふと足元に目を向け、長髪の武者は足元に倒れている、己と同じ甲冑を身にまとった武者に声をかける。こちらは兜も被っている。


「累よ……生きてるか?」

「生きてます……よ」


 倒れていた武者が、閉じていた目を開く。その瞳は緑色であり、肌の色は透き通るような白で、彼が異人の子である事が伺えた。歳の頃は十一か十二ほどか。少女と見違えるほどの美麗な容姿だが、顔の半分には倒れた際についた泥が付着し、もう半分には返り血が付着している。


「そっか。俺はもう駄目みてーだ。悔しいな……畜生め。あの鉄砲とかいう奴には本当まいったぜ。あれさえなけりゃあ……」


 長髪の男の言葉に、累と呼ばれた少年は目を剥いた。


「御頭……そんな……」


 血まみれになって荒い息をつく男の姿を目の当たりにし、累は悲壮な面持ちで起き上がる。


「餞別だ。もっていきな……俺だと思って大事にしろよ」


 力なく笑い、御頭と呼ばれた男は累に向かって、黒い刀を差しだす。


 意識が急激に薄れていく。死が迫っているのを感じ取り、涙を流す累に最期の言葉をかけようとしたその時、御頭の視界が――いや、意識が、強制的に何者かによって奪われた。


「何だ、この冗談は? あの世ってわけじゃねーよーだし」


 黒く塗りつぶされた空間。その中にて、異国製と思しき机と椅子に腰かけた男が一人。風変りな灰色の被り物に、風変りな灰色の長衣、先がねじくれた木製の長い杖を手に舌、長い金髪に赤い瞳の異人。


「やっと相応しい者が現れましたね。長かった」


 椅子から立ち上がり、金髪紅眼の異人は柔和な笑みを浮かべて見せた。只者ではないことは御頭にも一目でわかったが、警戒心は全く沸かなかった。


「私は貴方ですよ。前世の私の残留思念です」


 異人のその自己紹介で、その男が己の魂に術を施し、輪廻転生を経てまで己の意識と力を残したのであろう事まで、御頭は看破した。


「流石は私。見極めも呑みこみも早くて助かります。数百年前、私は予知しました。千年の後、ある出会いによって、私が志半ばで潰えた研究が成就するであろうと。否、私には不可能だった術を完成させた者が現れ、運命の導きによって私と邂逅する事を」


 金髪の男が語る研究とやらが何を意味するかも、御頭は即座に理解した。わざわざ意識も人格も力も記録して残しておくという事は、答えは一つしかない。


「貴方も貴方が磨いた力を残留思念と共に残しておくのです。輪廻の果てに、それが役立つ時が必ず来る」

「相応しい力を持つ者が現れるまで、意識の底で待っていたわけか。死の狭間に現れて、俺の思念と力も記すがために」

「その通り。力を持つ者の記録は、多ければ多い程よいですし。その力は強ければ強い程よいというもの。来たる時に向けて――」


 うっとりとした表情で語る異人の事を、御頭は胡散臭そうな目で見ていたものの、その話に興味が無いわけでもないし、拒絶する理由もまた無い。むしろ自分が磨いた力をそのまま残すことが出来るかもしれないという話は、魅力的にすら感じた。


 それが五百年程前の話。


***


 黒で埋めつくされた空間――存在するのは、机の前で椅子に腰かけたローブ姿の金髪紅眼の男。二畳の畳に、茶釜と湯呑が置かれ、甲冑を身にまとったまま寝転がった黒い長髪の武者。

 そこに数百年ぶりに訪問者が訪れ、止まっていた時が動いた。


「まさか妖怪たぁね」


 漆黒の空間の中で這いつくばった、桜色の体色を持つ人為らざる者を見て、武者が呟く。


 一応人型をしているが、体色といい、頭から生えた角や背中から生えた翅といい、明らかに人間ではない。頭髪は赤い。後ろ髪だけ首根っこまで伸びている。腰に巻いた粗末な布きれのみ以外は裸身を晒している状態だ。体つきは男のそれであるがやや細身で筋肉も乏しく、桜色の肌は非常に滑らかで艶めかしい光沢を放っている。


「くぅぅううぅあぁ」


 桜色の妖が顔を上げ、空気を絞り出すかのような唸り声をあげ、金髪の男と黒髪の武者を睨む。

 牙を剥き、怒気を孕んで威嚇こそしているが、顔立ちを見た限りは幼さの残る容貌をしている。一見して瞳が無いようにも見える。あるいはその赤い目全体が瞳で、白目の部分が見えないかだ。


「可愛い子ですね。けれども有する力は凄まじい。流石はエンペラーと呼ばれることはある」


 金髪紅眼の男が帽子のつばに手をかけ、興味深そうに微笑む。


「そりゃあなー。累の奴をあそこまで手こずらせたんだからよ。んで、こいつとは話が通じるのかい?」

「言葉は通じなくても、心できっとわかるでしょう。同じ自分同士なのだから」

「言われてみりゃそうだな。どれどれ……」


 黒髪の武者が桜色の妖に顔を向けたまま瞑目する。妖の方もそれに合わせるかのように、目を閉じて、穏やかな面持ちとなって唸るのをやめた。


「なるほど、こうしてみると俺にもこいつの思う事全て、手に取るようにわかるな。簡単に伝わりあう。ま、当たり前か。同じ魂を持つ自分なんだから」


 桜色の妖はすでに警戒を解いている。自分の前に現れた二人が何者なのかも、どんな用件があるのかも、察する事ができたようだ。


 それが百六十年程前の話。

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