第八章 18

(タブーのバイパー……)


 当然幸子はその人物の事を知っている。裏通りにおいて最大級の手のつけられない危険人物として、中枢からも見て見ぬ振りされる者に冠する呼称――タブーの一人。しかも幸子がつい最近まで追っていた、決して表舞台に姿を現さない謎のマッドサイエンティスト草露ミルクとも関わりがあるという情報もある。


「あっれー、バイパーの兄貴ってば妬いてんの?」

 グエンが嬉しそうにからかう。


「気持ち悪いこと言うな。ジジイがお前のお守り引き受けてくれてたから、こちとらほっとしてたし。ジジイの代わりにその新人が面倒見てくれるんなら助かるわ」


 口ではそう言うバイパーだが、満更でもなさそうな顔だった。


「幸子さん、他の人の指導行っていいよー。後は兄貴に見てもらうよ」

「お前、人の話聞いてねーのかよ。ったく」


 微笑みながら、グエンを手招きするバイパー。嬉しそうに表情を輝かせて軽い足取りでそちらに向かうグエン。

 幸子は軽く会釈したが、バイパーは何の反応も見せなかった。興味すらない空気といった感じだ。無礼な男だと思ったが、幸子にしてみれば都合がいい。


 その後、幸子はグエンの言葉に従う形で、道場内で訓練している他の信者の指導を行っていた。

 時折グエンとバイパーに視線を向けると、二人とも楽しそうに会話を交わしながら、訓練をしている様子。互いに打ち解けあっているのは移民繋がりなので、似た境遇だからではないかと、幸子は勘繰る。


「幸子さん、お疲れ様です」


 信者達に指導を行っていると、尼僧の格好をした妊婦が現れ、幸子に微笑みとねぎらいの言葉をかける。幹部の一人、エリカだ。


「私にも御指導願えませんでしょうか。私も趙超さんからいろいろと学んでいましたが、幸子さんは趙超さんとはまた違ったスタイルの戦闘術を身につけておられるようですし、是非とも取り入れたいです」

「いけません。射撃程度ならともかく、体術の類に身重の体によいものではありませんよ」


 頭を下げるエリカだが、幸子は眉をひそめて断りを入れる。趙超はこの少女に戦闘訓練を直に施していたのだろうかと、想像してしまう。明らかに酷であろうに。


「私の体は心配していただかなくても結構ですよ。お腹の子が産まれることはありませんから」


 そう言って腹部を抑えてにっこりと微笑むエリカに、幸子は言葉を失くした。


「解放の日に私は、この世にはびこる悪魔達をできるだけ多く地獄に落とし、私も地獄に落ちますもの。私のお腹に植えつけられた悪魔の種なんて、誰がこの世に産み落としてあげるもんですか」


 さらに次の台詞を聞いて、眩暈すら覚える。よくよく見ると、少女の口元は微笑が形作られていたが、目は全く笑っていない。瞳の中には底無しの憎悪と狂気が渦巻いているのが、幸子には見てとれた。


「最初は逆のことを考えていましたけどね。私が悪いことをいっぱいして、そのうえで産んで、悪魔の子にしようと。でもそれより、私共々地獄に堕ちた方がいいと、考えを改めました。堕ろしもしないですよ。私の手で殺さないと気が済まないですし、私と一緒に地獄に堕ちないと意味がないんです。この子は私の中に宿る前から、すでに存在そのものが罪なのです」


 自分の腹を撫でまわしながら語るエリカに、これは何を言っても無駄だろうと幸子は悟った。

 エリカに何があったかは知らない。だが今の話を聞きながら、直感的に理解した。この少女は救えない。少なくとも自分には救えぬ闇の底に堕ちていると。エリカは地獄に堕ちると嘯いているが、すでに彼女の魂は地獄に捉われているかのように思える。


(シスターなら救えるかもしれないけれど、私ではとても……)


 そう考え、ふと思い至る事があった。これだけはどうしても聞きたい知りたいという疑問が、幸子の中に思い浮かんだ。


「プリンセスは何と……?」


 あの教祖は間違いなく、この少女が抱える闇も知っているはずだ。その願望も。それを知ったうえでなお、死への後押しをしているのだろうか? それだけは知っておきたい。

 幸子の質問に、エリカの顔が曇る。作り笑いすら浮かべる余裕を失くしたという感じだ。


「ブリンセスみどりは、私とは全く逆意見でした。子供には何も罪は無いって。生まれてくれば、育て方次第でいい子にもなるかもしれないし、人生の苦楽を味わう事ができると。私の気持ちをわかってくれたうえでなお、私のしようとしていることに、強く反対していました……」


 返ってきたのは意外な答えだった。エリカが辛そうな顔をしている理由もわかった。幸子は少しだけみどりの事を見直した。


「でも……こればっかりは、いくらプリンセスの言うことだろうと、聞き入れられないんです。私の呪われた運命が許せない。私を貶めた悪魔達が許せない。ましてやその悪魔の子が私の中に宿るなんて……。だからプリンセスにも反発し、私は私の望む通りにします。皆と一緒に悪魔達が蔓延るこの世界を、自分が出来るだけでも、少しだけでも浄化しようと思います」


 静かな口調で、確固たる意志を込めて語るエリカ。幸子はリアクションに困った。

 自身も世に絶望してここに流れ着いた者という前提で喋ることは、ある程度はできる。ここの信者と話を合わす術はすでに身に着けた。だがエリカのケースはあまりにも陰惨で屈折した代物であり、共感も反感も、肯定も否定も、迂闊にしづらい。


(シスターなら、自分の言いたいことを遠慮無く言って、全力でこの子を救おうとするでしょうね。でも私は使命以上の事はできそうにない。たとえ教祖を暗殺したとして、この人達を救うこともできない)


 世界の枠組みから外れて世界を憎み壊さんとする者達は、最早救われることはないのかもしれないと、幸子には思えてならなかった。


「ねー、兄貴も解放の日、一緒にやろうよー」


 少し離れた所でバイパーと組手を行っていたグエンが、動きを止めて訴える。


「嫌だっつーの。俺はみどりの護衛のためだけにここにいるんだ。お前のことかまってやってるのも単なる暇つぶしだからな」


 こちらも動きを止め、あからさまに嫌そうな顔になるバイパー。


「兄貴だって俺と同じだろ。移民の子で、いじめられてたって言ってたじゃんか。糞ったれな世の中の奴等に一泡吹かせてやりたいって気持ちは無いの?」

「ねーよ」


 グエンを睨み、バイパーは即答する。その凄みにグエンは少しだけひるんだが、なおも言葉を続ける。


「どうして? 俺と同じなのにどうして?」

「俺の御主人様はそういうのやろうとしているようだがな。こんなアホ教団よりもっとヤバい方法でよ。あいつを見てるとな、何か自分がすごくちっぽけで馬鹿馬鹿しくなってきちまうんだ。あいつが何を思って、世の中を引っくり返したいか、その気持ちはわかんねーけどさ」

「そんな人がいるんだ。しかも兄貴の御主人様とか」


(人じゃねーけどな)

 口には出さずに呟き、バイパーは微笑をこぼす。


「俺も昔荒れてて、人をちぎりまくって、とっ捕まって、死刑まで宣告された。助かったのはただ運がよかっただけだ。その後生きていられて、よかったと思ってるぜ。後先考えずにやけっぱちになるのは、一度で沢山だ。お前らはあの時の俺と同じことしようとしていやがる。お前もさ……生きてさえいれば、この先楽しいこともいっぱいあるんだぞ」


 こんこんと諭すバイパーに、グエンは押し黙ってうつむく。兄貴分として慕っていた人物から、自分の気持ちも、崇拝するみどりが説く思想もあっさり否定されたのがショックだったと同時に、バイパーの言う事も否定できなかったが故に、何も言い返す事ができなかった。

 ぷいっとグエンは体ごとそっぽを向き、一人で訓練を再開する。


(拗ねちまったか)


 苦笑して軽く肩をすくめるバイパー。


(俺が滅茶苦茶やったのも、餓鬼の頃にみどりの思想を刷り込まれていたせいもあるな。あの影響はでけーわ。あいつは――あいつ自身にはその気が無くても、追い詰められた人間をどこか狂わせちまう、ヤバい方向に背中を押してしまうもんがある。その呪縛から解いてくれたのが、あん畜生だったわけだが)


 そこまで考えてバイパーは、ひたすら腰を落としての突きの素振りをするグエンをじっと見つめる。


(今度は俺の番てか? まあ……こいつだけは助けてやりたい……てのが正直な気持ちか。何か俺に懐いているっぽいし、見殺しにしたら……まあ寝覚め悪いわな)


 グエンの誘いは断ったものの、解放の日当日は共に行動した方がいいとバイパーは思う。そうしなければ、守ってやる事もできない。だが同時にみどりを守ることなどできないのが、頭の痛い所だ。


(いっそみどりは放っておくか、さもなきゃ他の奴に任すか? いや、麗魅は解放の日にみどりの護衛はしねーよな。あいつには他にやることがある。そうなると……)


 どちらを取るかしか、答えは無い。もしみどりに問えば、返ってくる答えは決まっている。そうなると、バイパーの中でも答えは自然と出る。

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