第七章 24
その人物が現れた瞬間、まず累と目があった。目深なフードの下から一瞬だがあらわになった真紅の双眸は、間違いなく真っ先に累へと視線を向けていた。
(あの女から……はっきりと感じる)
累は微かに震えていた。先日右衛門作より感じた、御頭の魂の残り香。それがより色濃く黒衣の女性より感じ取れる。出所は間違いなくこの女だ。それが右衛門作に付着しただけの話だ。
(まさか、あの女が御頭の転生……? いや……)
一瞬そう思いかけたが、すぐに否定する。何かが違う。御頭と縁があるのは確かだろうが、本人とは明らかに異なる違和感がある。
「右衛門作さんの陰謀阻止に、今度はもっと手練れが投入されてくると思っていたけれど、中々すごい子がやってきたじゃない」
右衛門作の背後へと回った黒衣の女の言葉が、誰を指しているかは明白だ。今もなお彼女の意識は、主に累へと注がれている。
直接でこそないが、彼女は累達のことを、遠方を映し出す鏡の魔道具で見てすでに知っている。しかしその口ぶりは初めて御目にかかるような言い方であった。
「あれが我が師ですじゃ」
右衛門作も累達を意識し、黒衣の女に合わせてやる。
「ふーん、なるほどねえ。右衛門作さんについていたソウルの残滓は、あの子からきたものだったんだ」
黒衣の女はそう言ってフードを後ろにおしのけ、顔をあらわにする。美しさと可愛らしさをかねそなえたその容貌は、女と言うよりは少女のそれだ。肩にもかからないほど短く切った茶色の髪。透けるような白い肌。そして神秘と魔を備えた赤い瞳。一目見たら忘れられそうに無いほど印象的な容姿の持ち主だ。
「気づかれたか? あの娘……耶蘇会の言っておった魔女であろうが……」
闇斎が赤い双眸を持つ娘を指して、累の耳元で囁いた。
「ええ……あの女の方が、右衛門作よりもよほど危険……です。より強大な力を秘めて……います」
「目や神だけ見れば異人の娘に見えなくもないが、我々に近い感じもしますのう」
確かに闇斎の言う通り、その娘の顔立ちは異人ではなく日本人のように見えた。
「何度も言うが、どういう縁があるのか知らぬが、我が師に手出しは無用ぞ」
赤目の少女に念押しする右衛門作。待ち望んだ獲物を横取りされてはかなわない。
「さて、師よ。わかっておられますな」
累の方を見て右衛門作が微笑む。その微笑の意味を知る累からしてみれば、悍ましさと侮蔑の念しか感じないが、それでも弟子の望みをある程度はかなえてやるつもりだ。一対一の師弟対決に臨む時点までは。
「皆の衆……手出しは御遠慮ください……」
「わかっておるよ。しかし劣勢になったらその保障はできなくなります故、それは御承知の程を」
「万に一つも……それはありません」
闇斎の言葉に、累は静かに言い返す。
「ほっほっ、退屈はさせぬよう、その他大勢の相手も用意してございますじゃ」
右衛門作が言った直後、十字架の影から次々と伝衛悶が沸いてくる。
「草露殿、綾音殿、チヨを守る形で三方を囲むぞ」
「それだと、この数で正面からばかりこられたら、星炭殿の負担が大きくはござらんか」
闇斎の指示に、香四郎が異を唱える。
「剣で戦う前提ならまだしも、術ならば側面から援護もできよう。それとも術で守ってはくれぬのかね」
「拙者の術は妖の製造が主でござるし……どちらかと言われれば近接向け故」
冗談めかす闇斎に、香四郎は苦笑しながらお手玉を地面に投げつけて、化け猫を呼び出した。
「となると、綾音殿と私で遠距離中距離担当、草露殿が近接担当……なるほど、草露殿と私で入れ替えた方がよいの」
頭をかきながら、後ろに下がる闇斎。
四人が固まる一方で、累一人が右衛門作のいる方へと無造作に進み出る。
「ワシが求めてやまなんだ画材――美の完成形じゃ……まさに……。師よ。お主こそがの。ほっほっほっ、ワシは諦めておったのじゃが、人生何が起こるかわからんものじゃて」
その累に右衛門作は、全身くまなくねぶるかの如く視線を絡みつかせ、己の想いを語る。最早下卑た妄執を隠す気も無いことに、累は呆れていた。
「四郎もそれなりに我が心を満たしてくれたが、足りぬ。四郎如きでは師の美しさの足元にも及ばぬ。我が魂の飢えを満たせぬ。見るがよい、これを」
右衛門作が短く呪文を唱えると、彼の周囲に幾つもの絵が現れる。何十もの南蛮画、その全てが累を描いたものであり、大半が半裸か全裸で描かれていた代物だった。
それを目の当たりにしても累は全く顔色を変えなかったが、綾音はかつて感じたことがないほどの嫌悪感がこみあげてきた。邪悪な破壊者が抱く、綾音が愛する者に対してへの異常な執着。それが醜悪極まりなく感じられる。
「描いても描いても、描いても描いても描いても、納得できぬ。満足いかぬのじゃよ。ワシが求める最も美しき画題は、我が師――雫野累じゃ。お主そのものを手に入れられれば、必ずや満足いく仕上がりにできようぞ。そして……」
右衛門作の周囲に浮かんでいた絵が一斉に炎に包まれ、瞬く間に消し炭となり、累とは異なる者が描かれた一枚の絵が、右衛門作の頭上に現れる。
「四郎の如く、我が絵の中で生き絵となっていただく。ワシが死んだ後も後世にその美を永遠に残そう」
首には切支丹定番の襞襟をつけて十字架を下げ、色鮮やかな煌びやかな羽織をまとい、まだ前髪を垂らした美しい少年が、磔にされて無数の悪魔に虐げられている絵であった。
天草四郎時貞を描いたものであることは一目瞭然であったが、それだけではない。絵の中には、当人の霊魂が封じられているのであろう。
「この身……この魂は……御頭のためにあるものです……。お前如き下郎に……渡せるものではありません」
冷ややかに告げる累。
「うぐぐ……」
一方で、チヨがまたも苦悶の呻き声をもらし、綾音にすがりつく。
「どうしたのですか、チヨ」
「聞こえる……。あの絵の中から、今まで聞いたこと無いくらいの……」
震えながら天草四郎の絵を見据えてチヨが呻く。絵の中に封じられた想いを感じ取っているようだが、チヨ以外の誰も、強烈な妖気が漂っている程度にしか感じとれない。
「これまで歩んできた道……練り上げてきた己の力の全て、想い続けたる熱情の全て、師に叩きつけてくれようぞ」
右衛門作が絵に触れると、絵の中から一匹の妖がゆっくりと這い出てきた。
絵に描かれていたのと同じ衣装をまとい、背中からは右に蝙蝠の羽根と白い鳥の翼、左には黒い鳥の翼と蛾の羽根を生やし、頭上には光り輝く輪を浮かせ、額からは角、腰からは先が鏃状になった細長い尾が生えている。
その妖――伝衛悶化した天草四郎は、絵の中の悲痛な表情とは異なり、憤怒の形相であった。
「あれは特別のようじゃの。やれやれ、あれは私が受け持っておこう。予定変更。チヨは草露殿と綾音殿の二人で守ってやってくれい」
闇斎が天草四郎を見据えて錫杖を地面に突いて鳴らし、注意を引く。
天草四郎が奇声をあげて宙を舞い、頭上から闇斎へと飛来する。それを合図として、他の伝衛悶も一斉に一行へと向かっていく。
累はそれらに目をくれず、右衛門作の方へと進み出る。伝衛悶も累に手出しはせぬように命令されているようで、それを阻もうという気配は無い。あくまで累の取り巻きだけを排除するよう命じられているのであろう。
「人喰い蛍」
綾音の呪文に呼応し、数え切れぬほどの光の点滅が五人と伝衛悶の間に出現し、踊り狂う。伝衛悶らは警戒して足を止めたが、光の点滅は伝衛悶達めがけて、あるものは直線状にゆっくりと、あるものは上空から凄まじい速度で弧を描きと、軌道も速度もバラバラに襲いかかる。
たちまち四匹の伝衛悶が穴だらけとなって果てたが、何匹かは致命傷には至らず、手負いのまま向かってくる。後方にいた者は無傷で、術を練り上げている。
「ほほう、新たな弟子を取られましたか」
興味深そうに綾音に視線を向ける右衛門作。
「お前よりずっと筋がいい……ですよ」
静かな口調であったが、はっきりと挑発気味に言い放つ。
「なら、伝衛悶如きいくらいても問題になりませんなあ。四郎を除けば、ここだけで四十三おりますが。おっと、今ので三十九になったの。ほっほ」
右衛門作のおなじみの笑い声は、轟音によってかき消された。後方にいた伝衛悶らの術が発動し、綾音、チヨ、香四郎に複数の術がほぼ同時に振りそそぐ。
精神や霊による攻撃もあれば、化学反応を発生させる術、物理現象を引き起こす術もある。無数の炎の礫が、怨念の塊が、心を乱す精神波が、電撃の網が、腐敗の瘴気が、酸の泡が、三人を襲う。
香四郎と化け猫達はそれらのほとんどを体術によって回避し、精神波等の不可視の攻撃や、怨霊などは、護符を投げつけて対処していた。
一方で綾音はその場を動こうとはしなかった。動いてかわすこともできたが、そうすれば自分の後ろにいるチヨがひとたまりもない。
「捻くれ坊主」
綾音の呪文が完成し、彼女の足元から太く長いものが飛び出し、綾音とチヨを取り囲む形で螺旋を描き、凄まじい勢いでうねり伸びていく。
伝衛悶らの術は全て、綾音の術によって呼び出された異質なる物に直撃した。二人はそれに覆われているので、攻撃は一切届いていない。蛇のようなそれの先端には、人の頭部があった。よく見れば手足も存在している。さらには頭部の下には袈裟を身につけていた。文字通り坊主を妖怪化した代物である。
綾音とチヨを囲んでいたそれは、バネのように大きく跳び上がったかと思うと、伝衛悶の頭上に落下し、押し潰す。その反動でまた跳び上がり、落下して潰しを繰り返す。
「聞こえる……。死神さんの呼び声が……近づいてきてる……」
傍らでうずくまったまま発したチヨの言葉に、綾音は不吉な予感を募らせる。チヨの予言がもし当たるとして、誰が死ぬのか? 自分と累以外の誰かであってほしいと、思わずにはいられない。
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