第五章 16
怒りを募らせ、毅は人間サンドバッグ三人を泊まらせている部屋へと向かい、乱暴に扉を開いた。
中にいる三名、老女と子供と女性は覚悟とも諦らめともつかぬ面持ちで毅に視線を向ける。三人とも痣だらけのひどい顔だ。
「おい、出ろっ」
わざわざホテルの廊下へと三人を出した所で、毅はまず子供の腹を蹴り上げた。
「こんなところで……」
「あーっ!?」
口を開きかけた女性の顔に、奇声をあげながら裏拳をお見舞いする。
「見られてもかまいやしないさ。むしろ見せてやるためにこうして外に出してんだよ」
にやにやと薄笑いを浮かべて毅は言った。
「警察が来ますよ?」
そう言った老婆の顔中央めがけて、拳をくりだす毅。老婆は鼻血を撒き散らしながら、後方に大きくのけぞって倒れる。
「あーっ! だったらどうだってんだよ! 来たらそのポリも殺してやんよ! もうムカついてムカついて無茶苦茶してえ気分なんだよ! あーっ!?」
喚き散らし、毅は三人に手当たり次第に殴る蹴るの暴行を加える。キレる度合いが一定水準を越えると、自暴自棄なことをしてみたくなる習性が毅にはあった。自分にとって不都合になりかねないことをわざとやって、そのスリルを楽しむことで怒りを沈めるのだ。
「何をしているんですか? 赤城さん」
聞き覚えのある声がした。声の方を見ると、夏子が毅のことを睨みつけていた。純子もすぐ横にいる。少し後ろには真も。
「おやおや、これは皆さんお揃いで。貴女方の部屋はこちらではないと思いましたが? 何か御用で?」
皮肉たっぷりの口調で問う。常識的に考えるのであれば、最も見られたくない相手に見られたわけだが、今のぷっつん切れまくった毅からしてみればどうでもいい気分だった。
「血とアドレナリンの臭いがしたからさ。興味があって来たんだー。あと何かを殴る音もねー。私、生まれつきメクラだったから耳と鼻は物凄くいいんだよー。……って、メクラって放送禁止用語だっけ? メシイのがいいのかな」
笑みこそ浮かべてないが、純子はいつも通りのペースだった。
「メシイは禁止されているわよ。あくまで自主規制で、法律で禁止ではないけれど」
と、夏子。
「じゃあ盲目は?」
「それもタブーにされましたね。その後にブラインドになり、次は光なき勇者、その次は闇に立ち向かう気高き戦士達となりましたが、次々言葉狩りされて、今は一巡してまたメクラでいいはずです」
毅が荒い息をつきながら解説する。
「そっかー。言葉狩りって本当に野蛮でナンセンスで面倒な代物だねえ。で、何していたの? ヘマした人にお仕置きタイム?」
「うわっ、何コレ? この人達何? おばあちゃんや子供まで殴られまくりだし。どうなってんの? 誰がやったの? ねね、赤城さん、この人達どうしたの? ねえ、教えて。どうしてこの人達ボコボコにされているの?」
純子が質問した直後、反対方向からやってきた正美が、三人を見てオーバーに驚きながら、同様の質問を浴びせかける。
答えようとした毅だが、生まれてから今まで一度も経験したことのない、凄まじい殺気を感じ、口ごもった。しかもその殺気は明らかに自分に向けられている。
正美が無言でレザージャケットの内側に手を入れる。正美の視線の先は純子達の後ろに向けられている。夏子と純子が振り返り、その凶悪なまでの殺気の源である、真の方を見やった。
純子が真に視線を送り、目で訴えて制止する。真もそれを感じ取って殺気を抑える。そのやりとりを見て、ほくそ笑む毅。
「お恥ずかしい所を見せちゃいましたね。ま、個人的な領域なので、良好な関係を続けるためにも、立ち入らずに放っておいていただけると僥倖でございますな」
慇懃無礼極まりない口ぶりで告げると、小憎たらしい笑みを口元に張り付かせて、純子達の間を抜けて毅はその場を立ち去った。
「ねね、今のってひょっとして今の人に殴られたの? どんな事情があっても、こんな子供やお婆ちゃんを殴るなんてどうかしてる。頭おかしくない? おかしいよね? ていうか何であなた達も殴られたのか知りたい。教えて。ねえ、何で? どうして? どういう関係? 知りたいから教えて? すごく興味があります。だから教えて」
廊下にへたりこんでいる三人に、矢継早に問う正美。問いかけながら正美は、殴られた男子の傷の様子を軽く撫でながら、骨折等が無いかチェックもしていた。
「私も知りたいです。見たところ日戯威の組織の方にも見えませんし」
夏子が問いながら、携帯電話の録音機能をこっそりオンにする。
「あー、ちょっとちょっと、そこのむっつり顔のチビっ子。あなたよ、あなた。暇ならタオルに水つけてもってくるなりしたら? 雪岡純子もだよ? 怪我人が目の前にいるのに何でぼーっとしてるわけ? わけわかんない。ほら、早く動く動く。特にそこの仏頂面のチビっ子は男の子でしょ。こういう場面では真っ先に動くべきじゃない? 動くべきだよね?」
「はいはい」
正美に早口でせかれさて、純子と真は三人のいた部屋の中へと向かう。
「私はこれが仕事なんですよ。事業に失敗した息子が抱えた、莫大な借金を返すためのね」
老婆が痣だらけの顔に穏やかな笑みを浮かべながら答える。その老婆の鼻血を正美がハンカチでぬぐい、顔の傷をチェックする。
「骨に異常はないようだけどさ、痣が痕に残るまで殴るなんてひどすぎる。憤慨しちゃう。よく女や子供やおばーちゃんとかを殴ったりできるよね。信じらんない、あの人。頭おかしいんじゃない? あいつ絶対病気だよ。私にはわかる。頭の病院行った方がいいって、絶対。で、仕事って殴られることが? そっちのボクも?」
「俺……母さんに売られたんだ。お金のために……この殴られ仕事しろって」
正美に顔を向けられた子供が、涙をぽろぽろこぼして震え声で答えた。夏子が下唇を噛み、正美も眉間に皺を寄せる。
「何それ? 自分の子を誰かに殴らせて金もらう親とか、そんなの親じゃないよ。うん、親って言わない。親の資格ありませーん。私は認めませーん。ますます憤慨しちゃう」
「ちょっと鳥山さん……それはその子の前で言うことではないでしょ」
思ったことを遠慮なく口にする正美を咎めるように言う夏子。
「私は金で言いなりになっているんじゃないの。あの男の元カノ。逆らったら家族を殺すって脅されてて、それで……」
最後に残った女性が、自虐めいた笑みをこぼしながら言った。
「へーい、濡れタオルいっちょおまちいっ」
純子が室内から出てきて明るい声と共に、正美に向かってタオルを放り投げる。
「ちょっと雪岡純子。あんた馬鹿じゃない? 馬鹿だよね? ここ、ふざける場面? 空気読めないってよく言われるでしょ。ううん、言われてなくても絶対周りからそう思われてるはず。間違いない。私にはわかりますー。私は親切だから代わりに教えてあげたよ? そんなんだからマッドサイエンティストだし、皆から嫌われるんだよ? 少し自分を改めたら? 絶対そうすべき」
「えー……あー……その……はい……気をつけるね……すまんこ」
タオルを受けとり、早口でまくしたてる正美の批難に、純子は珍しくひきつった笑みを浮かべて謝る。
「部屋の中に救急箱もあったぞ。廊下で手当てなんてしてないで、中に入ってやったらどうだ?」
真が室内から顔だけ覗かせて言う。
「あなた中々気が利いてるじゃない。無愛想なくせして。もうちょっと愛想よくすればいい子なんじゃない? うん、絶対そうした方がいい。せっかく綺麗な顔しているんだから、もっと人相とか表情とかも磨くべき。そうしなさい。これ人生の先輩として忠告だよ?」
「僕もできればそうしたい所だがな」
正美の言葉に、真は冷めた目でそう言った。
「私達、これが日常茶飯事ですから救急箱は手放させないんですよ。慣れていますし、自分達でやりますからいいですよ。お気遣いはとても感謝します」
老婆が微笑みながら言って、深々とお辞儀をして、女性と子供を連れて部屋の中へと入り、扉を閉めた。
「ねえ、雪岡純子」
正美が釈然としないといった感じの不満顔で、声をかける。
「純子でいいよー、いちいちフルネームで呼ばなくてもさ」
「じゃあ純子。あんた、あの人達助けられない? 私はあいつに雇われている身だから難しいけれど、あんたの悪知恵をいい方向に活かせば、何とかなるんじゃないかと思う。あんた普段悪いことばかりしてるけど、たまにはいいこともしてみたらどうかな?」
「僕も同感だ」
正美の言葉に真も頷く。
「鳥山さん、純子姉ちゃんは悪いことばかりではなく、本当にたまにはいいこともするわよ。今回がきっとそのたまにだと思うから、心配しないで」
笑顔で告げる夏子。少なくとも毅を懲らしめれば、毅から解放することだけはできると思う。金に困るというのなら、夏子がたてかえたうえで、組織で雇ってあげてもいいと考えていた。
「んー、何か私が喋る前にどんどん話が進んじゃっているけれど、そこまで言われちゃ、引き受けなければ女が廃るかなあ。あはははは」
うまいことのせられたかのように笑顔で答える純子を見て、正美は腕組みして満足そうに何度もうんうんと頷いていた。
***
人間サンドバッグの部屋を後にして、正美や夏子と別れた純子と真は、肩を並べて歩いていたが、おもむろに純子が歩調を落として真の後ろに回る。
真は純子のその動きに気づいていたが、特に気に留めなかった。それよりも毅の暴行を思い出して頭にきていた。あいつは出来ることなら自分の手で葬ってやりたいとすら思い、そのための算段を練り始めてすらいた。
そんな真の後ろで、純子が人差し指だけを伸ばした状態で手と手を握り合わせ、身をかがめて握り合わせた両手を己の腰の辺りに引くと、真の臀部めがけて勢いよく突き出す。
「何すんだっ」
「いつ何時でも冷静さを失うなって教えたでしょー?」
思わず膝をついて抗議する真に、純子は両手を合わせたままの人差し指を口元にやり、銃口から立ち昇る硝煙を吹き消すかの如くふっと息を吹きかけ、たしなめる。
「怒りを覚えるなとは言わないよ。怒るってことは人間の大事な感情だしねー。でもそれを抑えられない子は未熟だよー?」
「そうだな。ごめん」
反省してうなだれる真の頭を、純子が笑顔で撫でる。いつもの真ならそれを振り払う所だが、その時はそうする気にはなれなかった。
「それにしても、ホテルの廊下でああいうことをする神経が理解できないな」
「私達が来るのがわかっていて、自分をわざと愚劣と見せかけて、私達を油断させようとしているのか、私達の悪感情を募らせてヘマをさせるための挑発のつもりなのか、それとも深い意味はないのか。よくわかんない行動だねぇ」
「それで僕は今ヘマをしかけたと? その挑発とやらで、本気で殺されたらどうするつもりなんだか」
「深く考えても仕方ないのかもね。いまひとつ行動原理のよくわからない子だしー。ま、悪の栄えたためし無しっていうし、真君も満足いく最期が待っていると思うよぉ? ああいう子にはさあ」
含み笑いを漏らす純子。
「だったらお前もろくな最期になりそうにないから、そうなる前に僕が何とかしてやらないとな」
「あははは、そうだねえ。期待してるよー」
皮肉とも本気ともつかぬ真の言葉に、純子はおかしそうに笑った。
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