第五章 15

 雫野累は人間を恐れている。その恐怖は、己が犯した罪への意識から来ている。

 もしも自分が犯した罪が知られれば、誰からも軽蔑される。憎まれる。恐れられる。そんな意識が強迫観念となって累の心を締め付け、対人恐怖症や欝病を患うようになった。


 昼間は滅多に外に出ない。昼間の明るさ、太陽の眩しさ、何より人とすれ違うだけでも、たまらなく堪える。夜になるとかなりましになる。人ゴミの中に入ってもさほど抵抗が無い。

 それ故に自分の心を何とか改善しようと、タスマニアデビルにバイトに出るようになった。表通りの住人を相手にするよりは、裏通りの住人の中に交じる方がはるかに安心できる。累からすれば一般人など、自分とは生物が異なるとすら感じてしまう。


 東京ディックランドへは、ほとんど無理矢理連れてこられた累であったが、ホテルの外には出ようとしなかった。遊園地などという騒がしい場所に出たいわけがない。


(せめて僕の出番が来れば、こんな所に来た意義もあるんだけれども……。いや、こういう考え方がそもそもいけないのかな……)


 自分を変える事を決意しつつも、思い切った行動に踏み出る事ができないもどかしさ。

 慣れない部屋にい続けることに閉塞感を覚え始めた頃、累は微かに妖気を感じた。


(妖の類がホテル内にいる? 邪な者ではなさそうだけれど)


 暇を持て余していた所なので、興味を覚えて部屋のドアを開け、気配のする方へと向かう。


「あーっ!? あーっ!?」


 妖気を感じる部屋から奇声があがっている。同時に怒りに満ちた気も感じられた。


 ためらいなく累は扉を開ける。ノブに手をかけると同時に、かかっていた鍵も外側から不可視の力によって開けられる。

 愛くるしい外見の純白の体をした人外の存在が、二十歳そこそこの男に殴られている光景が、累の視界に飛び込んでくる。


「イーコだ……。人前に姿を現しているなんて……珍しい……ですね」

「君は雪岡さんと一緒についてきた……」

「おおうっ! 貴方はかの高名な妖術師、雫野累様ではありませんか!」


 三者がほぼ同時に口を開く。


 イーコはその伝説をあらゆる文献から抹消された妖怪だ。おそらくは国家に代々仕える最高位の妖術師達によって、保護の名目でその存在が秘匿されてきたと思われる。

 地方によっては口伝のみで伝えられていたが、決して世にあかるみにされることはなく受け継がれてきた。しかし十年前よりその噂がネット上で囁かれはじめ、メディアでも持ち上げられて、テレビでも何度も特番が組まれているが、世間的には都市伝説にすぎないものとして認識されている。

 種族の全てが極めて純粋で友愛精神に満ちた性格をしており、人類に対して善行を働くことを目的に生きている、人類の補佐種族であるという話だ。種族共通の能力として、姿を隠して人の目にはつかなくすることができるというが、その文化、思想、生態、能力に関しては謎が多い。


「雪岡さんの所にいる妖術師の?」

「人類史上最も神に近付いたと言われている最強の妖術師ですよ! うおおおっ! 御会いできるなんて感激かつ光栄ですっ!」


 毅から暴行を受けていたことなどあっさり忘れた風に、青い瞳を輝かせて興奮した声をあげるイーコ。今まで殴られていたことなど歯牙にもかけていない。


「やめないと……怒るかもしれませんよ?」


 毅をじっと見据えて、累は静かな声で告げる。少女と見間違うほどの愛らしい容貌と、緑の瞳に潜む底知れぬ超然たる輝きに、毅は自身が圧倒されていることを意識する。


「俺の所有物を俺がどう扱おうと勝手なはずですがね? それに人の部屋に勝手に入られるのは、あまりいい気がしない」

「僕の不快さの方が……問題なんです。二者が不快を示したとあらば、力の無い方が折れるべき……ですよね?」

「……わかりました」


 苦笑いを浮かべ、毅はイーコに向かって顎をしゃくり、部屋から出るように促す。


「僕の部屋においでなさい」


 部屋から出た所でイーコを見下ろして微笑みかけると、累はイーコの小さな手を取って歩き出す。


「あ、いや、その、助けていただいたのに大変失礼なことを言ってしまいますが、オイラがあの人から引き離されると、いろいろと不都合があるのです。はい」


 癖のある子供声でもって早口で、困ったように言うイーコ。


「何で逃げられるのに……逃げないんですか? どういう……事情?」

「オイラが逃げたらあの人は、その分を他の人にひどいことしちゃうんですよねー。毅は人を殴って楽しむとかそういう趣味らしいんで、オイラがその代わりに殴られる役を申し出たってわけですよっ」

「なるほど……」


 人前には姿を現さないイーコがどうして堂々と姿を晒していたのか、理解する。


「仲間の中には、人間の攻撃的な心を沈める力を持つ奴もいるんスけど、それも結構レアな力でしてねっ。オイラ頭悪いんで、これ以外にいい方法が思いつかなくって。あはは」

「気分の悪い……話ですね。それだと君は……あの男が死ぬまで、延々と殴り……続けられなくちゃならないのですか?」

「いやー、そうなるかなー。あははは。でもノープロブレムですよっ。何故ならイーコは寿命が長いし、オイラは結構頑丈ですしっ」


 屈託無く笑うイーコを見下ろして、累はイーコの手を離して引き返し始める。


「あの下衆……ちょっと殺してきますね。そうすれば……全部……解決だ」

「いやいやいやいやいや、待って待って待ってっ」


 冷たい殺気を放ちながら毅の部屋に再び戻ろうとする累の太ももを掴んで、必死で引き止めるイーコ。


「イーコには絶対に人間に危害を加えてはならないっていう戒律があるんですよっ。オイラを守るために雫野様が毅を殺したら、間接的とはいえそれはオイラの責任じゃないですかあっ」


 その話は累も初耳だった。間接的でもいけないというのなら、どの辺までが間接的の定義になるのか不明だし、ややこしい戒律だと思える。


(どうせあの男は純子に敵視されている時点で破滅の運命だから、少し我慢してもらえば済む話……ですか)


 そう考えて、直接干渉はしないでおくことにする。


「いやあ、すみませんねー。気遣っていただいたのに、いろいろとわがまま言っちゃっているみたいで」


 イーコがぺこぺこと頭を下げて謝罪している最中に、累の携帯電話が鳴る。


『どーしてるぅ? これから真君と外に行こーかと思うんだけど、一緒に行かない? せっかくディックランド来たんだからさー、累君も思い切って遊びに出てみたら? まだそういう気にはなれない? 珍コースターとかおまるカップとか姦乱車とかパイパイ屋敷とかお尻畑とかいろいろ楽しいのあるよー?』


 電話は純子からだった。昨日は一日中遊んでいたのに、今日もまた真を連れまわして遊んでいるようだ。真がいなければ無理矢理自分が連れ出されたであろう。


「いえ……結構です」


 短く告げ、純子の返事を待たずに電話を切る累。


「ミミズは……地面に出なければ……アスファルトの上で……のたうちまわって死ぬことも無い……ずっと土の中にいれば……」


 暗い面持ちで独り言を言う累を、訝しげに見上げるイーコ。


「少しくらいの時間なら……話し相手くらいにはなってくれませんか? イーコの生態は僕もよく……知らないし、興味も……あります」

「普通の人間相手だと問題ありますが、御高名な妖術師の雫野累様でしたらノープロですし、それくらいでしたらお付き合いできますよっ。オイラも仲間に自慢できますしねっ」


 明るい表情で答えるイーコに累は小さく微笑むと、再びその手を取り、自室へと向かった。

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