第二章 8

 十年前のあの出来事を、弓男は一生忘れないであろう。


「やめてくれっ、助けてくれ!」

「悪かった。もうしないからこいつを何とかしてくれ!」


 自分をいじめていた不良三人組が、身も世も無く泣き喚きながら必死に懇願してくる様を見て、弓男は小気味良さそうに含み笑いを漏らす。


 マッドサイエンティストの実験は成功し、弓男は人智を越えた力を得ることが出来た。不良達に河原に呼び出された弓男は、早速その力を振るって逆襲に転じた。

 恐怖にひきつり、泣きわめき、失禁までして許しを乞う彼等を見て、弓男は残酷な満足感で満たされていた。


「もう二度とこんなことしないと誓って謝るなら、解いてやる」


 それで満たされてしまった。当初の予定ではいじめっ子らを殺してやるつもりだったが、彼等のその無様で滑稽な姿を見ただけで、弓男は十分満足してしまった。


「誓う誓う!」

「ごめんなさい! ごめんなさい!」


 震えながら許しを乞う三人を見下ろしながら、弓男は大きく息を吐き、彼等を解放した。

 結局彼等を殺すには至らず許してやった事に、弓男自身がほっとしていた。

 死にたいほど苦しかったし、殺したいほど憎んでもいたが、実際には相手を憎むよりも自分の臆病さと無力さへの絶望の方が強かったと気が付いた。


 絶望の反動で、弓男は手に入れた力に激しく酔いしれていた。この力をこれだけで終わらせたくない。

 どうせなら、せっかく得たこの恐ろしくも魅力的な力は、何か別なことに活かしたい。自分が人として強く大きくなるためには、力に頼って我欲を満たすのではなく、得た力を誰かのために使うことではないかと、弓男は考え始めていた。


 日暮れの河川敷。いつもいじめられていたこの忌まわしい場所に、もう足を運ぶことも無さそうだと思いつつ、土手を降りようとしたその時――


「待てよ、天野」


 一人帰路につく弓男を、不良のリーダー格が呼び止めた。彼一人だった。


「そのさ……もう一度謝らせてくれ。助かりたいためにじゃなくて、本当の意味で……。今までごめんな」


 真っ赤に泣き腫らした目でじっと弓男のことを見つめ、真摯な面持ちで謝罪の言葉を述べて、深々と頭を垂れる。


「うん、許すよ。わかってくれたなら、それで十分だ」


 不良の再度の謝罪に、何故か弓男は自分が救われたような気になった。


「俺さ……実はお前のこといじめながら、心の中では、こんなことやめなくちゃって、ずっと思っていたんだ。でもどうしてもできなくてよ。あいつらの目も意識していたし。だけどお前に仕返しされたおかげで、やめられるわ。いじめていたお前に助けられるなんておかしな話だし、情けないけどさ。何か……変なこと言うけど、こんなこと言われても嫌だろうけど……その……ありがとな」


 照れ笑いを浮かべ、最後は小さい声で礼を口にする。


「嫌じゃないよ。全然」


 殺すのを思い留まってよかったと思い、自然に微笑みがこぼれ、立ち去ろうとした弓男だったが――


「天野」


 不良のリーダー格――四十万鷹彦が再度呼び止め、爽やかな笑みを浮かべながら携帯電話を取り出してみせる。

 弓男も微笑み返し、互いの番号とアドレスを登録した。


 その後、弓男は結果を報告とお礼を告げるために、雪岡研究所へと赴いた。


「ふーん、結局仕返ししなかったんだねー」


 弓男が報告を口にする前に、純子が屈託の無い笑みを浮かべて言った。一体どうやって知ったのかはわからないが、弓男の行動は全て把握していたようである。


「しましたよ。でも殺すまではやりすぎだと思ったし、相手も謝っていたから、もうこれでいいやと思ってね」

 さっぱりとした表情の弓男。


「それで良かったと思うよ。君は一番いい選択をしたよー」


 人を殺す力を与えておいて好きに使わせた立場でありながら、純子が臆面も無くそう言ってのけたので、弓男はその言葉を真に受けることができず、引きつった笑みを口元に浮かべていた。


「君の得た力はかなりのものだと思うよー。元々素質があったみたいだねー。私としてはそれを引き出しただけな結果になっちゃったんで、ちょっと不満も残るけれど」

「不満?」


 改造された後も似たような言葉を口にしていた純子だが、その時は復讐心でいっぱいで、気に留めていなかった弓男である。だが気持ちの落ち着いた今となると、気になってしまう。


「私は誰でも簡単に超常の力やら強靭な肉体やらを得られる方法が無いかと、何百年も研究を続けているんだけれどねー。結局は個々の素質に振り回されてしまう部分が大きくてねー」

「何百年……」


 どう見ても見た目だけなら、目の前の少女は自分と同じくらいの年齢にしか見えない。しかし確かに会話を交わしていると、同世代の女子とも思えなかった。少女の口から出る言葉は、もっと達観した年長者のそれという印象がある。


「君の力は、君次第では今後も伸びていくと思うんだけれど、このまま普通の日常に置いておくのももったいないなー。君が望むなら、普通じゃない生き方へと導いてあげたい所なんだけれど、どうだろー?」


 非日常への扉はすでに開いた。しかし復讐を果たして満足した所で、扉は自然に閉じて、弓男は日常の中へと押し戻されてしまう。それがもったいないという気持ちは弓男にもあった。

 特別な力を手に入れた自分が、それを使って何か特別な何かをしたいという気持ちを純子が全てお見通しであったことに、弓男は舌を巻いていた。やはり只者ではない。


「たとえばどんな?」

「うーん、そうだねー。正義の味方とかどう?」


 純子の提案は抽象的ではあったものの、これまた弓男の想いを見透かし、弓男の心を強く惹く代物であった。


 それから弓男と鷹彦の二人は雪岡研究所で、裏通りで生きるために様々な訓練を行った。主に銃や体術の手ほどきがメインとなる戦闘訓練であったが、尾行や潜入や交渉術やサバイバルといったスキルも一通り叩きこまれた。


 特に念入りに行われたのは柔軟な体を作るためのストレッチだった。純子曰く、激しい運動を行った際に誤って怪我をしないためと、多少無茶な動きも体に負担をかけずに行えるようにするためとのこと。弓男も鷹彦も、研究所での訓練で特に印象に残っているのは、一日の間に何度も行われたストレッチ運動の数々である。

 ただ訓練を仕込まれるだけではなく、食事まで徹底的に管理された。穀物と野菜類多めの食事が出され、たんぱく質はなるべく魚にしぼられて、肉はたまにしか出さず、乳製品はほとんど与えられなかった。

 三時のおやつは毎日あったが、糖分控えめの和菓子や果物中心。さらには水分の補給に至るまで決まった時間に行うよう指示された。


「うーん……俺、もっと肉食いてーんだけど。つーか肉食わないと、体育たなくない?」


 弓男と一緒に裏通りに堕ちることを決めた鷹彦が、食事まで制限されまくっていることに不服を覚えてそう訴えたが、純子は首を横に振った。


「じゃあ草食動物はひょろひょろで小さな体してるー? 像さんとかキリンさんとかさー」

 この言葉に、鷹彦も黙った。


「二人共成長期だから余計に栄養管理は大事だし、体に良く無いものはなるべく排除しないとねー。もちろん生活管理も大事だよー」


 そう言いながらも純子本人は酒を飲み、徹夜を繰り返していたので、いまいち説得力は感じられなかったが、それでも弓男と鷹彦は素直に従っていた。


「うーん……俺、本当に人なんか殺せるのかなあ」


 鷹彦が銃の訓練を終えたある日、苦笑気味にそんなことを言った。


「誰も殺さなくて済むなら、殺さないでもいいんじゃない? 必要に駆られた時は、殺さないとこちらが殺されるけど」

 弓男はそう返す。


「その必要な時が来た時に躊躇っちゃいそうな気がしてなー。お前はどうなんだよ? それは考えねーか?」


 鷹彦に問われ、弓男は答えに困る。理屈だけで考えるのは容易いが、そうはいかないかもしれないということを鷹彦は問うている。しかしいざその場面になってみないと、わからないことであるし、いざという時に踏み切れなかった場合には、自分達が死ぬことになる。


「じゃあそれも訓練してみるー?」


 側で話を聞いていた純子が、とんでもない提案を行った。


「おいおい、まさか人殺しの訓練でもしろってのかよ」

 引き気味になる鷹彦。


「ものすごく腐れ外道な、これなら殺しても全然構わないどころか殺した方がいいでしょーっていう悪人なら、訓練がてらでも殺せるんじゃないかなあ? 私がどこかでそういう人仕入れてくるからさあ。まあそういう悪人なら今君たちの目の前にも一人いるけどねー」


 自虐的な冗談をにこにこ笑いながら口にする純子だったが、二人とも笑えなかった。


 結局殺人訓練とやらはすることなく裏通りに堕ちた二人は、表通りの住人相手の始末屋稼業を選び、五年間、日本で活動を行った。


***


「相沢真はそちらに到着したか?」


 破竹の憩いのナンバー2柿沼喜一は、本拠地以外で残る一つの工場の責任者に電話をかけていた。


「うまいこと機会を見つけて、その小僧も始末できないか? そうすれば雪岡純子を守る者もいなくなる。ああ、もちろんうまくいったら見返りは弾むぞ」


 餌をちらつかせておいて電話を切る。具体的な作戦の指示もなく、部下に大雑把に命令しただけにすぎないが、うまくいくだろうと根拠も無く確信していた。

 いや、たとえ失敗しても構わない。その時は蔵に罪を上乗せしてなすりつけ、自分は雪岡純子に味方する立場に立ち回ればよい。そうすれば蔵は失脚して、組織の実権も己のものになるだろうと考えている。


 柿沼は自分が人よりも利口者であると、信じて疑っていない。何をやっても成功してきたと信じきっている。実際には数多くの失敗もある。けれどもそれらを失敗として省みていない。

 十代半ばに殺人事件を犯して、整形手術を行って裏通りに堕ちたことも、特に失敗とは思っていない。己を省みる行為を行わない。いや、その発想自体無い。


 今こうして生きていること、一つの組織において高い地位についていることが、己が優秀な証であると信じて疑っていない、柿沼喜一はそんな男であった。

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