第二章 5

 天野弓男はその外見通り大人しい性格の少年だった。

 誰かを傷つけたいとも思わなかったし、争いごとも忌避していた。


 だがいじめを受けたことによって弓男は、潜在意識の中に潜んでいた暴力への欲求が目覚めてしまった。

 いじめられて復讐するだけならば、死ぬ気で立ち向かえばいいだけの話だ。

 しかし弓男はそうはせずに、単純な暴力の抵抗に留まらず、殺意すら芽生えて、さらには都市伝説のような噂にすがってしまった。

 雪岡研究所――実験台の代償に力を授けるマッドサイエンティストの噂。安易に得られる大きな力への願望。破滅の可能性へのときめきと欲求。たとえ死んでもそれはそれで構わないという、破れかぶれな気持ちでのギャンブル。


 結果として弓男は非現実的な力を手に入れ、その力でもって己の状況を打破した。

 以後もその力に頼り、平凡な日常を捨てて、争いに満ちた世界へと身を投じた。弱きを助け、悪しきをくじく者。裏通りの始末屋として、世界の戦場を股にかける革命家として、多くの人達に感謝され、多くの血で己の手を染めてきた。


「すごい! こんな力を手に入れるなんて! もう僕は特別なんだ! 他の奴等と違うんだ!」

 歪んだ笑みを浮かべてはしゃぐ、十五歳の頃の自分。


「警察に捕まることもない! 誰にも僕の邪魔を出来ない! 何だって出来る!」


 高らかに叫び、狂気に憑かれたかのように浮かれる過去の自分を思うと、現在の弓男は恥ずかしい気持ちと恐ろしさが混じった、何とも言えない嫌な気分になる。あのまま暴走していたらきっと破滅していただろう。


 どこで歯止めがかかったのだろうと記憶を探る。すぐに記憶が掘り起こされた。パートナーである四十万鷹彦の存在だ。


「俺も付き合っていいかな、それ」


 裏通りへと堕ちることを告げた時、鷹彦は迷うことなくそう申し出た。


「償いとかそんなんじゃねーよ。単に面白そうだからだ。お前だって一人じゃ不安だろ? 俺も一人じゃ不安だけど、二人ならって感じ? 実は俺、そういう世界に憧れてもいたんだ」


 実のところ、その頃の弓男に不安は無かった。浮かれていた。一人では浮かれたままで暴走したかもしれないが、鷹彦の存在を意識すると、自然と歯止めがかかり、だからこそ今まで生きてこられたのだと思う。


 相棒となったからには、時として彼を守ることも考えなくてはならない。彼に頼ることもある。そうなると、一人で浮かれていられない。慎重にもなる。

 他の者はどうか知らないが、弓男にはそういう歯止めがかかった。頼り頼られる者の存在があったから、死なずに済んだ。そう弓男は常に意識している。


***


「おい、そろそろ起きろっつーの。エロい夢でも見てんのか? 溜まってんのか?」


 ホテルのツインの部屋。すでに起きていた鷹彦の声で弓男は目を覚ました。


「懐かしい夢を見ていただけですよ。しっかし……どうしてすぐシモネタに向かうのですかねえ、君は」


 ベッドから降り、無駄の無い動作で素早く衣服を着る弓男。


「昨日久し振りに女と会話したしなあ。しかも日本人の」

「あ、わかった。つまりエロい夢見たのは鷹彦の方ということですね。パンツはもう洗いましたか?」

「夢精なんか一度したことねーし。あれって都市伝説だろ? つーかツインじゃなけりゃエロ動画も見れたのによー」


 日本だとホテル代が馬鹿にならないので、倹約するためにツインルームである。伝説の革命家としてその名声は世界規模でも、弱者側に無償で力を貸している事がほとんどなので、懐事情はあまり芳しくない。

 もちろん弓男達が本気で金策をすれば、そう大した労力もなく、それなりの金は稼げるだろう。しかしそれをあえてしない。出来る限り己の正義の行いだけに、時間と労力を費やす。それが弓男達の美学だった。


「どう思う? あの娘」

 鷹彦が尋ねる。当然美香の事を指している。


「いい子だと思います。ええ、とっても変わっているけれど、いい子ですよ」

「変わっているって言われるのも思われるのも、本心では嫌なんだろーとは思うぜ。きっと強がっているだけなんじゃないか?うーん、いいねえ、そういうタイプ」

「私達と同類ってのもね。日本では珍しいですよね」


 日本の外を転々としている際には、正義を掲げて戦うという人間は特に珍しくなかった。実際に実力の伴った正義のヒーローというのは、あまり見たことが無かったが。


 弓男の携帯電話が鳴る。指先サイズの携帯電話からホログラフィー・ディスプレイが空中に投影され、文字が映し出される。丁度話題に挙げていた美香からのメールだった。内容に目を通し、弓男は返信を送った。


「月那さん、朝早いんですね。今から敵組織の工場を襲撃に行くからカンドービル前に来るようにとのことです」

「まだ飯も食ってねーっつーの。奴等の工場だってまだ閉まってるだろ? 誰もいない工場襲撃して、破壊活動だけやる気かよ。まさか人殺しはあまりしたくないってか?」


 鷹彦が顔をしかめる。

 正義の味方をしている二人であるが、やたらと綺麗事を口にする者や、手を汚したがらないタイプとは合わない。敵となったら一切の容赦はしないし、時としては汚い手も使う。そうしなければ生き残れなかったし、今の実績と名声も無い。


「朝御飯食べてから行くと答えておきました。ま、そういうつもりならそりゃ甘いですよね。組織丸ごと潰すつもりなんだから、数は減らせる分は減らしておいた方がいいですし。リアルな正義の味方は情け容赦無いものですよ。ふふふ……」


 その人懐っこい顔にそぐわぬ不敵な笑みを浮かべる弓男。


「いや、リアルでない正義の味方もそんなもんだろ」

「あ、ついでに月那さんのせいで、鷹彦がエロい夢見たそうだと送っておきました」

「おいっ、待てよ。俺は下ネタを言ってもセクハラはしないんだぞっ」


 弓男の言葉に、鷹彦が笑いながら抗議の声をあげた。


***


「いきなりメールで下ネタを送られるとは思わなかった! 最低だ!」


 カンドービル前にて、出会い頭に怒った顔で美香は文句をぶつけた。

 昨夜と同じく無地のTシャツを着てキャップを目深にかぶっているが、下はデニムのショートパンツに黒い迷彩柄のオーバーニーソックスといういでたちだ。


「いやいや、あの程度でそんなに怒らなくてもいいでしょ」

「こいつ、大人しい顔していやらしい奴だからさ。本当にごめんな」


 困り顔の弓男の横で、にやにやしながら鷹彦が顔の前で手を合わせて頭を下げる。弓男は鷹彦を貶めるつもりでいたのに、美香の怒りの矛先が弓男の方に向いていたことが、鷹彦からすると痛快だった。


「私は下ネタが好きじゃないんだ! Hな男も好かん!」

「いや、男は皆エロの塊ですし、そうでない男がむしろ異常ですよ」


 ここだけは引くまいと、真剣な眼差しで断言する弓男。


「で、どうしてこんなに早くに襲撃を? もしあまり人を殺したくないなどという甘っちょろい理由でしたらね、悪いのですが、共闘は解消にいたしましょ?」


 弓男の口調はいつも通り飄々としていたが、冗談で言っているのではないということは、美香にもわかった。


「無益な殺生は好まぬが、今回の仕事は性質上全く手が抜けないという事も承知しているし、そういう理由ではない! 単に手薄そうな時間帯を狙っただけだ! ここの夜番の連中がそろそろ帰宅する時刻だしな! 奴等、私が一度襲撃したせいで警備が厚くなっている!」

「そういうことならノープロブレムです。でも結局全員殺すことになるのですから、逆に固まってくれて、数が多くいてくれた方がよかったのでは?」

「私は慎重派だ! 以上!」


 一方的に話を締めると、美香はタクシーに向って手を上げる。弓男と鷹彦は後ろで、やれやれといった感じで顔を見合わせる。

 煙に巻かれたが、間違いなく美香は、敵とあらば容赦なく皆殺しがポリシーの自分達とは合わない事がわかったからだ。


「ところで! どうして貴方達二人は、革命家などしているんだ!」


 タクシーの中で、運転手の存在など全く気に留めず、大声で尋ねてくる美香。


「あれま、いきなりその質問ですかー」

「すごく興味がある! 世界規模で歴史に名を残す活躍をしてしまっている! 正にリアルタイムの英雄! 素敵な生き様だ! 憧れる!」


 隣の席でよく響く声を張りあげられ、非日常的な言葉を並べられている事に、タクシーの運転手がどう思っているか、弓男は気になって仕方がなかった。


「そういう貴女も、正義の味方をしている感じですよね。裏通りのトラブルに巻き込まれた表通りの人を助ける仕事ばかりしていますし。正義の味方そのものに憧れて、そういうことをしているんですか?」


 少し意地悪な質問かなと思いつつも、あえてぶつけてみる弓男。


「その気持ちが無いというのなら嘘になる! だが、もう一つ決定的な理由がある! 私は昔、こんな変わり者なせいで周囲からのけ者にされた! だからいじめられもした! だからそいつらを見返してやりたかった……だから裏通りに堕ちた! だからアーティストとして人前に立つようにもなった! だから私の周囲にいる連中は嫌でも私を目にし耳にする! 有名になって活躍する私を見て、かつて私を馬鹿にしていた連中がどう思うか!? 最初の動機はそんな卑しく不純な感情からだった! 動機としてひどく不純なのは私もわかっている! だが今はそんな気持ちは無い! 結果として私はこうして満足いく生き方をしているからな!」


 しかし美香は弓男の思惑など全く気付かず、嬉しそうに己の動機をまくしたてた。


「だから、が多すぎ」

 笑いをこらえ、こっそりと呟く鷹彦。


「えっと、あのですね……一応今は正体隠しているんでしょ? 運転手さんにわかっちゃいませんかね?」


 遠慮無く想いをまくしたてる美香に、とうとう我慢できずに突っ込む弓男。


「気にしないでください。いろんなお客さんいますから」


 白と黒の混ざった髭面の初老の運転手は、おかしそうに笑っていた。


「さあ! 私は言ったから次は貴方達の番だ! 聞かせてもらおうか!」

 美香が促す。


「あまり満足のいく答えは返せない気もしますけれどね。それでもいいんでしょかねえ?」

「聞いておいて、つまらんなどと失礼なことは言ったりはしない!」


 弓男は少し間をおいて考えてから、語りだした。


「何百年経っても、どんな国でも、勧善懲悪のお話が流行っちゃう理由はわかります? それはね、現実ではほぼ有り得ない、痛快で爽快なファンタジーだからですよ。現実には正義の味方なんてそうそういやしません。ええ。腹黒い奴等が弱者をいたぶって肥え太る構図ばっかりです。はい。だからフィクションの中で、せめてこうなったらいいという願望をね、お話にすると楽しめるんですよね」


 そこまで喋った所で、弓男は鷹彦に一瞥をくれる。


「世の中には、人の痛みを知らない下衆に毟られるだけ毟られる哀れな人達がね、いっぱいなんですよ。そういった貧弱軟弱虚弱脆弱な人等はね、自分の力だけでは自分の置かれた境遇を変えられないんです。どうしょうもないんです。はい。だから私は最初、自分の復讐のためという不純な動機で得た力をね、今度はそうした人達のために使おうと思ったんです。世の中に一人くらいは、リアルでそんなファンタジーしちゃっている奴がいても、いいんじゃないかと思いましてね。はい」

「やっぱり……似ているな! あんたはどうだ?」


 鷹彦の方に振り返る美香。


「俺はあまり深い理由ねーよ。ただ面白いからこいつに付き合っているだけだぜ」

「はい、着きましたよ」


 微笑みながら鷹彦が答えた直後に、タクシーが止まった。


「正義の味方さん達からお金をもらうのも、気が引けますが」

「何か、すごく変な会話聞かせてすみませんねえ。遠慮せず、どっかで話のネタにでもしちゃってくださいな」


 にこにこと笑う初老の運転手に、弓男は照れ笑いを浮かべて料金を払う。

 運転手を直に見てわかった事だが、この人物もどうやら堅気では無いようだ。雰囲気でわかる。副業で裏通りに片足を踏み入れているのか、さもなければタクシーの運転手の方こそ副業なのだろうと、弓男は判断した。

 実際彼は裏通りの住人で、所謂闇タクシーの運転手であり、美香とも顔馴染みであったが故に、美香も遠慮なく持論を喚いていたのであった。

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