カンセン

らいちょ

第1話

 息苦しく、荒い呼気が続いた。

 咳き込みながら身震いをする。体の芯に冷たい塊のようなものがあって、それが四肢末端の熱を奪うような感覚に、僕はぶるると身震いをする。

「風邪ですか?」

 尋ねたのは運転席に乗る男。制服に帽子姿でてきぱきとした仕草で書類に何かを書き込んでいる。ボードの前に提示されたカードは僕の運転免許書だ。

「いえ……」

 違うと思う。だが続く言葉が出る前に胸奥に息苦しさを覚え、ゴホゴホと咳き込んだ。

「ま、お大事にしてくださいね。風邪流行ってるみたいですし」

 助手席の男はどうでもいいことのように告げた。

 ま、彼等にとって僕の体調など、本当にどうでもいいのだから仕方がない。

 彼等は医者ではない。調子が悪い僕を病院に運ぶ善良な市民でもない。

 彼等の主な仕事は道路交通法を遵守し、取り締まる仕事だ。

 体の異変に気づき、バイクで病院へと向かう一般市民を普段から誰が守っているんだというような一旦停止線を守っていないという理由で停車させ、違反切符を切ることが彼等の仕事であり、今日もノルマポイントを稼いでいるのであろう。

 今日もせこせこポイント稼ぎとは本当にご苦労とは思うのだが、体に不調をきたす状態の人間を警察車両の中で延々と長話をしているのはどうなのだろう。

 無駄な考えが頭を巡るが、酷い咳込みに体をよじれさせ胃の奥が裏返るような咳を繰り返した。喉奥から熱いものがこみ上げ、鉄の味が口の中に満ちていく。咳のしすぎで器官を痛めたのだろうか。

 だがそうだとしても、彼等は眉一つ動かさせず淡々と仕事をこなしていく。

 目の前で苦しみに悶えたとしても、彼等にはどうでもいいのだろう。

 ノルマのポイントを稼ぐ。その書類を書き終え、違反切符を拵えるまでが彼等の仕事であり、その際に起こった犯人の健康状態など自らの関与しなければどうでもいい事に過ぎないのだ。

 運転席の男は咳き込む僕の姿を淡々と眺め、ボードを僕に差し向けた。

「じゃ、ここにサインと左手に人差し指で捺印してもらえますか?」

 こちらの体調などどうでもいいといった風な態度であり、助手席の男は捺印用の黒いインクの入ったケースを僕に差し向けた。

「はい。これでもう帰れるから。そしたら早く病院に行ってくださいね」

 言われなくてもそうするし、こちらは早く解放されたいのだ。

 指先の感覚が鈍くなるの感じながら、震える手で名前をサインする。

 名前を書く事すら一苦労した。手が震え、自分のものではないようにも思えた。

「じゃ、左手出してもらえるかな」

 助手席の男の言葉に僕は左手を見せる。その姿に二人はギョッとした顔をした。

 咳が続く。コンコンと言った乾いた咳がゴボッゴボッというこみあげたものになり、咽頭からこみ上げた血塊が口の中に満ち、僕は我慢できずそれをボードの上に吐き戻した。

 違反切符を収めた書類が真っ赤に染まる。僕の免許書もドロリとした血塊に塗れた。

「あ、あんた……。それ……」

 助手席の男が上ずった声で尋ねる。「それ」と表現するのは僕の左手だろうか。

「彼女を看取っていたら、少し、傷を負いまして……」

 僕は真っ赤な血に染まったぐるぐる巻きの包帯を見遣る。

 親指と人差し指は欠損し、残った指も感覚はない。

 僕は荒い呼気を繰り返しながら、ボード上の血を拭った。

 僕はボードを持っている。ペンを握っている。何をしなければいけないのか。記憶がぼやけ頭の中に靄がかかる。

「警察官のお二方。世間は妙な事件が続発しているというのに、ノルマのポイント稼ぎお疲れ様です」

 頭の記憶がぼやけ、僕は心に抱いていた皮肉を漏らす。

 世間一般を騒がす事件――。それは死んだと思った人間が突如蘇り、それは感動的な対面などではなく、腐敗した屍人が凶暴化し、人に襲い掛かるというB級映画じみた事件が今現在日本中で発生している。

 僕の彼女は看護師であり、多くの噛まれた患者の手当をした。だが屍人に噛まれた人間は懸命な看護のかいも無く屍人同様になり、また凶暴化していき、そしてまた人を襲うのだ。

 彼女が僕の家を訪れたのは夜半過ぎだった。連絡のない唐突な来訪に僕は肝を冷やしたが、その右腕に巻かれた包帯を見て全てを悟った。人間としての最後の時を一緒に過ごしたいというのだ。そして人で無くなった時は、この僕が彼女を止める役目を担わなければいけない。

 何故、彼女が……。僕は絶望した。怒りを覚えた。危険を顧みず、噛まれた人に対し必死に治療を試みた。その結末が自らも屍人になるだけの運命とは……。

 神は死んだというのか?

 何も語らなくなった彼女の傍らで、僕は静かに涙を流した。

 涙を流すことしか僕にはできなかった。

 僕に残されたのは、屍人になった彼女を始末する事だけ。

 鉄バットを握り、動かない彼女の頭に掲げる。

 振り下ろして脳天を砕き、脳漿をぶちまければ、屍人も活動することは出来ない。

 僕は……、彼女の頭に鉄バットを渾身の力で……、振り下ろせなかった。

 好きだった。愛していた。大切に思っていた。

 だから彼女が看護師として病院に行くことを反対した。

 二人でここから逃げ出し、安全な所でひっそりと暮らそうと言った。


『でも……。苦しんでいる人を助けるのがお仕事だから……』


 病院へ向かう彼女は最期にそう言って手を振り笑顔で去っていった。

「××××……」

 虚ろな瞳が僕を見据え、僕の名前を口にする。

 ただそれだけで僕は虚脱し、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 彼女は――、まだ――。

 手を差し伸べた瞬間、僕の左指は屍人に食いちぎられた。

 痛みよりも悲しみが僕の心を射貫いた。

 頭の中が真っ白になり、僕は力の限り咆哮していた。

 殴りつける。力の限り。

 鈍い感触。砂を詰めたズタ袋を殴ったほうがいっそマシとも思える感触が右手に直に伝わり、両手両足が痙攣するそれを見据え、僕は咆哮の続く限り鉄バットでメッタ打ちにしていた。

 

 何時間が経っただろうか――。フローリングの床板はべったりとした血が広がり、壁にはバットの軌道を描くかのように真っ赤なラインが走っている。脳片が足元に散乱し血に染まった骨片が壁に突き刺さっているのを見て、僕はようやく鉄バットを下ろした。

 気だるさと、虚しさが体中に満ちている。

 返り血に塗れた衣服を着替え、食いちぎられた左手に包帯を巻く。

 どうあがいたところで、結末は同じ。

 ここが終末なのだ。

 ならばここで朽ちていくのが人生なのだろうか。

 いや……。違う……。

 それは誰に対しての問いかけで、誰に対して答えたものなのだろうか。

 心の奥底に黒い憎悪のようなものが溢れ満ちるにつれ、そんな疑問さえどうでもいいもののように思え、僕は無意識の内にバイクの鍵を握り、家を出た。


「病院に……、行こうと思ったんですよ……」

 虚ろな眼で呟く僕の独白に、二人はゴクリと息を呑む。

「屍人に噛まれたのか!? なら早く病院に行かなくては!」

 焦った様子の運転席の男に対し、僕は呆れたといったため息を漏らした。

「や、噛まれたらもうおしまいでしょ。僕は助かりたいから病院に行くわけじゃない」

 なにやら全てがどうでもいいように思え、面白おかしくなってくる。

 ゴボッゴボッと血塊を吐き戻し、ボードを置き捨てると体を前のめりにずらした。

「復讐だった……。彼女をあんな目に合わせたのが病院だというのなら、そこに居る奴ら全員襲ってやれと思った。……でも、今はもうどうでも良くなった。体から体温が消えていくたびに、恨みも憎しみも人間だった自分の感覚と共に消え失せていく気がする」

 ――なら、今の僕の行動理由とは?

「おまわりさん……、ノルマポイントなんか稼いでる場合じゃないでしょ」

 ノドが……、カワく……。

 チがホシくなる……。ニクをクいヤブりたくなる……。

 耳だに響く悲鳴。だがそれよりも早く僕の体は座席シート越しに彼等の首根っこを掴んでいた。

「本部に連絡、至急応援を要請!」

 車内に怒号が響き渡る。二人の警官は青ざめた顔で社内から逃れようとドアを開けるが、首根っこを常人ならざる膂力で掴まれた以上、逃れる事など不可能な訳で。

 この喉からの乾きを癒すために。

 この胃の奥からこみ上げてくる空腹の嘶きを満たすために。

 本能のままに。本能の赴くままに。

 

 ボクは……、むサぼりクった……。

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カンセン らいちょ @raityo

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