絶望の戯曲
鴻咲夢兎
序曲
少年は本を開いた。綺麗に装丁された本だ。父親の書斎にある、施錠の可能な棚に仕舞われていた。
少年はそれがずっと気になっていた。父親は本を読むタイプの人間ではない。どちらかと言えば、武力に優れた人間である。その実力は折り紙つきで、父親に敵う者は母親くらいしかいないほどだ。そんな父親が持っている数少ない本の中でも、大事に仕舞われていたのはこの一冊だけだ。気にならないわけがない。
しかし、棚はいつも施錠されていた。本が外に出ているところも見たことがない。だが、今日、父親の書斎を覗くと、デスクの上にこの本が置きっ放しにされていたのだ。
その本は英雄譚だった。勇者と魔王の登場する、この世界でもっともポピュラーな物語だ。しかし、少年がこの物語を読むのは初めてのことだった。彼の両親は、彼にこの物語を読み聞かせたことがなかったのだ。
勇者と魔王——五百年前に存在した二人の英雄が、神敵を打ち倒す。
これは、そんな物語だった。
× × × ×
五百年前——
まだ、世界が三つに分かれており、聖族と魔族が争っていた頃。聖気と邪気が反発し、お互いを触れもしない時代。人族の国、グライミリティス王国最南部に位置する荒野で、決戦は行われた。
荒野には数え切れないほどの軍勢がいた。白の軍勢と、黒の軍勢だ。
双方合わせれば、十万は下らない数の騎士達がこの場に集結していた。しかし、二つの軍勢は戦うことなく、離れた位置から事の成り行きを見守っている。その視線の中心にいるのは、たった四人の人間だった。
一人は白髪を肩の辺りで切り揃えた少女だ。純白の鎧を着用しており、その手には白く光り輝く剣——聖剣エクスカリバーが握られている。
彼女は聖剣の担い手、勇者に選ばれた者だ。
一人は漆黒の鎧を身に纏っており、フルフェイスのヘルムをかぶっているためにその素顔は窺えない。しかし、鎧の形状や、ヘルムから流れ出る黒く艶やかな長髪が、女性であることを教えてくれる。彼女が構えるは黒いオーラを漂わせる剣——魔剣ダモクレスだ。
彼女こそは魔剣に見染められし今代の魔王である。
一人は白髪をサイドアップに纏めた少女だ。歳の頃は十七。鎧は着ておらず、手にはなにも持っていない。格好だけ見れば、彼女だけが場違いな雰囲気を漂わせている。しかし、誰も彼女を非難しない。皆、知っているからだ。彼女の実力が勇者と魔王に勝るとも劣らないものであることを。
彼女は聖女と呼ばれている。齢十一にして歴代最高の聖女として名を轟かせ、たった一人で魔導国の魔王側近六人をねじ伏せた紛れもない実力者だ。
三人は皆、同じ方向を向いていた。否、同じ男を見つめていた。この場で、その男だけが敵だった。
最後の一人は銀色の
彼の名はルクス・アエテルニターティス。彼が正眼に構えた剣には聖気と呼ばれる白いオーラと邪気と呼ばれる黒いオーラが纏わりついている。聖魔剣カリバーン——彼のみが扱うことを許された、聖邪混在す奇跡の剣。
彼は天使と悪魔の力を使用することが出来る。天使と悪魔に取り入り、神への反逆を企てる人類と神の敵——それが彼の正体だ。この場にいるほとんどの者がそう思っている。
彼の罪は親殺し、及び聖国王女ユリアの拉致、さらには聖国第一王子ドミニクを騙し、聖国の騎士——白騎士を千人余り殺害、魔導国首都に存在した魔王城への襲撃。いくら償っても許されるものではない。
もはや、彼が悪であることは揺るぎない事実であった。本人がどう思ってようと、いくら弁明しようと、これが覆ることはないだろう。
そんな凶悪な犯罪者と戦闘を開始して、もう数十分が経っている。数十分、これは完全に異常な数値である。
勇者も魔王も聖女も、天才的な戦闘センスを有している。それどころか、勇者と魔王に関しては神の魔術を扱える。聖女だってそれぞれ百番まである属性魔術を全て使いこなせる。一般人なら精々十がいいところだ。この三人は天才という枠では測れない、人外、化物と呼ぶべき領域に足を踏み入れているレベルの強者なのである。
世界最高峰の三人と数十分渡り合う。これを異常と呼ばずして、なんと呼ぶ。現時点において、間違いなく彼が世界最強だった。
「「「展開——」」」
魔王が左から、勇者が右から、聖女が正面から詠唱する。この配置である理由は二つある。一つは、勇者の使用出来る
故に二人は正反対の位置に陣取り、ほんの少し間を空けて魔術を行使する。
「——Atk.Notte No.X
「——Atk.Frayja No.X
「——Atk.Ignis No.C
左からは対象物を破壊する不可視の魔術が、右からは想像を創造し生み出された一撃必殺の兵器から放たれた光線が、正面からは太陽の如く輝き周囲一帯を灼熱地獄に変貌させるほどの熱をもった炎の塊がルクスに迫る。
しかし、ルクスもすでに詠唱を済ませていた。
「融合——Df.Chaos No.X
ルクスを中心に半透明なドーム状の膜が展開される。そこをそれぞれの魔術が通り抜ける——消えた。跡形もなく、まるでもともとなにもなかったかのように、魔術が消え去った。
「……どういう仕組みだ?」
魔王が問う。
そんな魔王にルクスは高らかに笑って言った。
「普通、そんなこと敵に聞くかよ、おい。まあ、知ったところで意味はねぇ、教えてやるよ。【
「反則級、ですね」
勇者が苦い表情を浮かべる。出来れば魔術でケリを着けたかった。魔王と勇者は共闘出来ない。なにかの拍子に殺意が増幅して攻撃してしまうかもしれないからだ。だが、どちらにせよ、もう魔力は尽きかけている。上級の魔術を放ち続けたのだから当たり前だ。
対するルクスには、まだ余裕がある。ルクスも【
では、聖女はどうか。こちらも余裕の笑みを浮かべていた。聖女の魔力総量は極僅かにしか減っていない。
勇者や魔王、ルクスの扱う魔術とは違い、彼女は一般に普及している魔術を使用している、ということが理由ではない。一般的魔術は各属性、攻防別で一番から百番まで(勇者や魔王の魔術は十番までだ)。数字が大きいほど強力で、消費魔力が多い。この数十分、彼女は百番しか使っていない。
彼女の魔力が残っている理由、それは単純に彼女が化物染みた魔力量を有しているからである。
「あいつの魔術はあたしが防ごう。きみ達は互いを攻撃しないよう気をつけてくれればそれでいい」
聖女の言葉に、魔王と勇者は視線を交わらせる。頼もしい仲間だと思うが、しかし、それが一番の問題だ。別方向に向いた殺意を抑えながら同じ敵と戦う、そんなものはストレス以外のなにものでもない。下手をすれば、本来の実力を発揮出来ないかもしれない。
「ははっ! どうした? 止めるか? フライアとノットにでも祈ってみたらどうだ? 困った時の神頼みってな!」
「それは妙案だ。私は貴様を倒すことをここに誓い、前払いで聖気と邪気の、聖族と魔族の、勇者と魔王の相反する性質を打ち消してもらうことにしようか」
もちろん冗談だ。そんなこと、今までだって少ない数願った。まさか今になって叶うなんてことはないだろう。殺意を抑え、本来の実力を発揮しきれずとも、自分は必ずルクスを倒す。
魔王が決意を固めて足に力を入れたときだった。
【——その願い、確かに聞き届けた】
世界に声が響く。皆、初めて聴く声だった。発生源は見当たらないが、しかし、それが誰の声であるのか分からない者はただの一人としていなかった。
【——呪縛から解き放たれし我らが眷属よ。御使いを手駒にした、我らに仇なす敵を排除してみせよ】
創造神フライアと破壊神ノット。紛れもなく二神の言葉であると理由も根拠もなく確信した魔王と勇者は、再び互いを見る。
——殺意は消滅していた。
「ははっ、まさか、こんなにも簡単に……」
ずっと、その方法を模索していた。なぜ今なのか、なぜ今までそうだったのか、なにも分からない。分かっているのは、今なら共闘できるということ、背中を任せられるということ、そして、その状況で——
「負ける気が、しない」
「そうですね。今はそれだけ分かれば」
「ああ、充分だ」
攻撃範囲外にいる騎士達すら背筋を凍らせ、失神してしまうほどの気迫。誰もが二人の勝利を確信した。ルクスさえも例外なく。
「……茶番だな」
ルクスはそっと独りごちる。
「覚悟はいいか、ルクス・アエテルニターティス」
「その首、頂戴させていただきますよ」
戦意に満ちた二人に苦笑を返し、ルクスは改めて聖魔剣を構える。
「かかって来いよ、ぶった斬ってやる!」
先に動いたのは魔王と勇者だった。魔王は一歩でルクスとの距離を詰め、間を置かずに魔剣を横薙ぎに振るう。ルクスはそれを背後への跳躍で回避しながら、横から斬りかかってきた勇者の聖剣を受け止めた。
ルクスは着地と同時に地を蹴り、カウンターを恐れて退いた勇者に突撃する。しかし、大上段から放った斬撃は受け止められてしまう。鍔迫り合いになる前にルクスは距離を取り、詠唱した。
「展開——Atk.Angelus No.I」
黒い靄が現れたところで詠唱を保留し、
「展開——Atk.Diaboli No.I」
次は光が現れたところで詠唱を留め、ルクスは仕上げの詠唱へと移行する。
「融合——Atk.Chaos No.I
二つが混ざり合って現れた千を超える数の聖魔剣を空中操作しながら、ルクスは二人と相対する。魔王の攻撃を一本の聖魔剣で防ぎ、それぞれに十を超える聖魔剣を発射すると同時に、勇者を背後から襲う。
「こんなっ、温い、攻撃で——」
驚くべきスピードで的確に剣を振り、聖魔剣をいなし回避し叩き落とす。
「私達を、倒せるとっ、思っているのか!」
全てを防ぎきった二人が、ルクスに向かって駆ける。この化物どもには十本程度じゃダメだ。そう感じたルクスは、それぞれを五百の聖魔剣で囲み、一斉に発射した。
剣戟の音が荒地に響く。次々と弾き飛ばされていく聖魔剣を操ることに集中していたルクスは殺気を感じ、その場から大きく飛び退く。すると、先ほどまでルクスのいた場所に雷が落ちた。
強烈な光で瞑目し、轟音で耳がイカれそうになる。薄っすらとまぶたを持ち上げて聖女を睨むと、聖女は底意地の悪そうな笑みを見せていた。
「くそあまが……」
暴言を吐きつつ、制御が疎かになり数が減ってしまった聖魔剣の群れから抜けだしてきた二人の攻撃を紙一重で躱す。見たところ、二人とも傷はないようだった。
「まじで化物かよ、おいっ!」
ルクスは両手に聖魔剣を持ち、追撃してきた二人の剣を受け止める。衝撃で地面が沈んだのを見てなんだか馬鹿馬鹿しいと感じながら、剣を弾き返す。
「それはこちらの台詞ですっ!」
「どんな腕力をしているんだ貴様は……」
それを二人に言われたくはない。今ので腕は痛んだ。そもそも、ほとんど同格なのだ。ルクスが二人を相手取って互角で戦えているのは、ただの意地である。軋む腕に鞭打って、ルクスは足掻き続ける。
戦況が大きく傾いたのは、それから三十分以上が経過してからだった。ルクスの鎧は傷だらけになり、ところどころ大きく裂かれて出血している。そんな状態でも致命傷はなんとか避けてきたのだが、身体はもう限界に達していた。
聖女の魔術を躱したところに、タイミングを合わせて仕掛けてきた魔王と勇者。先と同じように、双方を受け止める。
「——っ!」
声にならない悲鳴をあげ、聖魔剣を一本手放したルクスは二人と距離を取る。左腕が持ち上がらない。どうやら完全に機能が停止してしまったらしい。
「ちっ、くそが」
悪態をついたところで怪我は治らない。二対一、その上片腕が使えないとなれば、傷を負う回数は必然的に増える。肉が裂かれ、骨が断たれる。右腕を斬り落とされ、ルクスはよろめく。
——瞬間、両胸を剣が貫く。
「がっ……はっ——」
剣が引き抜かれ、地面に膝をつく。視線を上げると、息を切らした二人の顔が瞳に映った。
「私達の、勝利です」
「とどめだ」
ルクスの首を断ち切るために、二人は剣を高く振り上げる。刻一刻と死へ向かって進んでいく中で、ルクスは離れた位置に佇む聖女を睨めつけた。
ルクスの視線に気づいた聖女は唇を動かした。そして、にっこりと笑う。まるで、すべて計画通りだとばかりに。
そんな彼女の怪しい笑みを見た直後、世界を騒がせた大犯罪者——ルクス・アエテルニターティスは人生の終わりを迎えた。
× × × ×
ぱたりと本を閉じ、少年はふぅと息を吐く。一気に読んでしまった。窓の外を見やれば、外はもう暗くなっていた。
それにしても、なぜこの物語を両親は読み聞かせてくれなかったのだろうと少年は思う。そのくらい面白かったのだ。最後の決戦の章などは手に汗握った。
魔王と勇者は歴史の授業で習ったし、もちろん神仇なす敵ルクス・アエテルニターティスのことも知っていた。けれど、歴史を知っているのと、物語を知っているのでは全く違う。
同年代の友人は皆、昔からこれを知っていたのかと思うとなんだか悔しい。
「あら、こんなところにいたの?」
少年が眉根を寄せて唸っていると、突如として聞き慣れた声が室内に響いた。少年はびくぅっと肩を跳ねさせ、恐る恐る振り向く。そこには、白髪を低い位置でサイドテールにした実母が立っていた。
「もうそろそろご飯の時間よ……あ、それ」
「いや、これは、その……つい」
悪さが見つかった子供のように慌てる少年に、母親はふっと笑みをこぼす。
「全部、読んだ?」
「……はい。ごめんなさい」
「そう。別に謝る必要はないわ、あなたにはいつか話そうと思っていたから」
「それは、どういうことですか?」
「英雄は勇者と魔王ではないのよ」
母親の言葉に、少年は心底驚く。そんなことを言われても信じられるわけがないのだ。それが一般常識として広まっているのだから。しかし、母親の表情を見る限り、嘘をついているというわけでもなさそうだった。
「それでは」
本当の英雄は誰なのか。一瞬脳裏に過った名前を少年は頭から振り払う。まさか、そんなわけないだろう。そう、きっと、聖女だ。聖女に違いない。
そんな少年の予想を、母親は躊躇なく裏切った。
「——ルクス・アエテルニターティス。彼こそが真の英雄だった」
この世界に住む者が聞けば笑い飛ばすであろう台詞を、母親は平然と言った。
「お父さんが帰って来たら、ご飯を食べた後、話をしましょう。彼の話よ。そしてそれは、人生を弄ばれた三人の人間の話でもある。正確には四人なのかもしれないけれど、それは些細なこと。大事なのは、誰が世界を救ったのか。今、この時間は誰のおかげで流れているのか、あなたにはそれを知っておいてほしいの」
「誰が、世界を、救ったのか……」
「そうよ。これは、彼の物語。絶望の戯曲から抜け出した、彼と彼の物語なの。魔王と勇者にとって、彼らこそが、いえ、彼らだけが——救世の英雄だった」
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