006
「すみません。トゥーカムケアリにはまだ?」
ローラ・リーは読み途中の聖書から顔も上げずに、横を通る客室乗務員へ問いかけた。唐突な質問を投げかけられ、彼女は明らかに困惑している。
とはいえ、さすがにプロフェッショナルなだけあって、いつまでも乗客を待たせずに対応した。「えー……トゥーカムケアリ、ですか……そろそろ上空を通過するころかと思いますが……」
「そう。ありがとう。あと、チョコレートを1枚いただけるかしら」
「どうぞ」
ローラの隣の座席に座るビジネスマンが、逡巡した様子で声をかけてくる。「もし、シスター」
「……何か?」
「お節介かもしれませんが、この便はサンタフェ行ですよ。トゥーカムケアリには降りません。トゥーカムケアリへ行きたいなら、飛行機でアマリロまで行ってからバスにでも乗るべきでしたね。まァこうなったらダラスへ引き返すよりも、サンタフェから車で直接向かったほうが早いでしょうが」
「“すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。”」
「ハイ?」
「使徒言行録9章18節――イエスの弟子を迫害していたサウロが、回心するきっかけになった出来事。“目からうろこ”という慣用句の元になりました」
「それはつまり、私の伝えた事実にものすごく驚いていると、遠まわしに言っているわけですか?」
「いいえ。たまたま今の箇所を読んでいただけです」
ローラは聖書から顔を上げて、
「……は? いや、ですからこの飛行機は――あっ、ちょっとシスターっ」
座席から離れてどこかへ歩き去るローラを止めることもできず、ビジネスマンはただ呆然と眺めていた。
「お客様、どちらへ」
「トイレへ行きたいのですが」
「トイレはこちら側ではありませんよ。通路の反対側です。よろしければご案内しましょうか」
「おかまいなく」
「あの、すみませんが、この先は立入禁止で――」
邪魔した客室乗務員を、容赦のないボディブローで失神させて、ローラは貨物室へと侵入する。
積み込まれた膨大な数の荷物から、急いで自分の物を見つけ出すと、貨物搬入用のハッチを開いた。すると途端にハッチから荒々しい暴風が吹き込む。油断すると風にさらわれそうだ。
眼下に広がる荒野――。ローラは一片のためらいもなく、パラシュートもなしで飛行機から飛び降りた。紫の尼僧服が風になびき、危うくベールが飛ばされそうになるのを手で押さえつける。
このままではあと数十秒で地上へ墜落する。たとえバンパイアといえども、この高さから地面に激突すれば、心臓ごとペシャンコに潰れてしまうだろう。
もっとも、バンパイアゆえにそんな悲劇は起こりえない。背中から生やした翼を大きく羽ばたかせて、大空をわがものとする。
多くのバンパイアはコウモリのような、悪魔のような赤黒い翼を持っている。だがローラの場合は、白い羽毛に包まれた荒鷲の翼だ。真祖にあたるドラゴンの違いにすぎないが、ローラはそうは考えていない。この純白の翼は、まるで天使のようではないか。
「“しかし、女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒れ野にある自分の場所へ飛んで行くためである。女はここで、蛇から逃れて、一年、その後二年、またその後半年の間、養われることになっていた。”」
ヨハネの黙示録12章14節――だが、彼女は蛇から逃げるつもりなどない。むしろ戦いに行くのだ。神と人間の敵を滅ぼすために。バンパイアどもの血で、紫の衣を赤く染め上げてやる。
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