トロワ・ドゥ・ロア その2



 ――天気は明朗、活気ある市場の中でも、俺たち二人の間にだけ重い空気が漂っていた。

いくら勇者の血統と言えども、なんだかんだで俺たちは平和の中で育ってきたのだと改めて思う。


「ねえアジンド、あの屋台は何? 美味しいもの? 買ってくれるよね」


 邪神の復活の兆候。その報告を我らが天空街に伝えなければならぬことの、なんと気が重いものか。

四世勇者たるべきアニーゼとて、その気持ちは同じだ。これが後5年、いや10年の範囲に迫ってきているとなれば逆に覚悟が振りきれるだろうが……上手くやれれば、100年後。

それは、俺たち自身が何とかするにはあまりに遠く。かと言って、顔を背けるにはあまりに近い時間の距離。


「ところで今日の夕飯だけど、僕は仔牛のパイが良いな。昨日は鶏のもも肉と白身魚のフライだったし。あれの上にかけられた、野菜を細かく刻んだソースも美味しかったけれど」


 それは俺たちの世代から孫、そしてひ孫の世代に残す責務としては、あまりに憂鬱過ぎる重責だ。

アニーゼなどは特に、自分が動ける時ならと悔しそうにオイふざけんな仔牛の肉とか幾らすると思ってんだやめろ。


「おや、なんだいその顔は。僕にご飯を食べるのを我慢しろと? でも分かって欲しい。僕の1日の健康にはこの世界の10年を続けさせる価値がある。そう、だから僕は健康的に、美味しいものを食べ、よく眠り、ストレス無く過ごす環境が必要……ね?」


 ……アイサダ家は、勇者の血族だ。

唯でさえ俺にとって、面倒くさい首輪でしかなかったそれは、どうやらいつの間にか重い鉄塊がついた足かせへと変わっていた。

アニーゼにとっては、どうなのだろう。俺よりずっと若く、ずっと強く、「勇者」として必ず自身の血を残していかねばならない、たった15にも満たない少女にとっては。


「断固として宣言するが、今日の夕飯は仔牛のパイだ。サクっと噛み切れるパイの生地に、微かに甘くもスパイシーなひき肉が乗ったあの食感。あれを思い出してしまった以上、僕は今日他の物は口に入らないと思って欲しい……




 あ、あのリンゴの蜂蜜漬け美味しそう。あれ買ってアジンド」


「キェェェーァアッ!!」

「おじ様ー――ッ!?」




 色々と臨界点を超えた俺の後ろ上段回し蹴りが、うろちょろする黒フードに良い角度でめり込んでいった。


「テメェいい加減にしろよ毎日毎日……その贅沢に消える金は誰が稼いでると思ってやがる……!」


 まぁ実は俺じゃないんだが、一度俺の懐に入った以上は俺の金だ。

殺意を滾らせ暗紫色の空気を纏う俺の手を、慌ててアニーゼが引き止める。


「お、おじ様……女の人相手ですよ」

「だから何だ。男ならニートで女なら家事手伝いか。あって良いのかそんな事が……!」


 【光刃エンチャント】のチートなんざ持っちゃ居ないが、この時の俺なら怒りでオーラも出せただろう。

贅沢三昧だけならまだ良い。貸した財布は落とすわ、あからさまな詐欺に引っかかるわ、相場の倍の値段で日用品を買って来るわ、こいつが居るだけで懐がずんどこ軽くなって行くのだ。

そりゃあ反比例して空気も重くなるわ。なんだこいつ、貧乏神か何かか。

こいつは悪だ。こんな奴の存在を許してはおけぬ。勇者アニーゼが裁かぬと言うのなら、代わってこの俺が裁く!


「俺は! 俺以外の奴が不労所得でヌクヌクしているのを男女平等に許さんッ!!」

「おじ様ぁ……」


 なんだか凄く溜め息を吐かれた。一回り以上年下の"はとこの子"にこういう目で見られるのは正直きついので、怒りも少しクールダウン。

地面に蹴り倒されたトロワの奴も、それなりにダメージが抜けたのだろう。地面に手をつき、むくりと起き上がった。


「痛いな……何をする」

「それはこっちの台詞だ、ったく。人の世間を満喫しやがって。なんなんだお前は、何をしに来た」

「僕かい? 僕は詩人……世界の声を歌の調べに乗せるエトランゼ。人の領域には、僕だけの美しい物語を探しに来たんだ」

「嘘つけ!」


 ウソジャナーイ、ウソジャナイヨー、と楽器をかき鳴らしながら歌い上げるトロワの鼻を、俺は容赦なくつまみ上げた。

形の良い顔立ちが台無しになるが、知ったこっちゃない。こうしておかねば直視できないというのもある。


「本当のこと言ってみろ。お前アレだろ? 魔王印が出たのをこれ幸いと勇者の家にたかりに来たんだろ?」

「ふがが……ほ、本当らよ、半分くらいは」


 摘んだ手をペチペチ叩かれて、俺はようやく開放してやった。赤くなった鼻をさすり、トロワはフードの縁を直す。

こんな雑踏の中でフェロモン全開にできんから仕方ないとは言え、たったそれだけの仕草で色気を出せるのが物凄く気に食わん。

常時「魅了チャーム」をまき散らしてるようなもんだからな、あれは。抵抗力が無ければ同性でもコロリと行くレベルだ。


「そう認識してるのに躊躇なく顔を蹴りとばすあたり、君は本当に酷い……」

「うるせぇ。もう半分を言ってみろ、コトによっては勘弁してやる」


 何か言いにくい事でもあるのか、トロワはそっと目をそらしながら呟いた。


「……次期魔王に選定されて、これで一生遊んで暮らせるとか思ってたら、実家の対応が思いの外ガチガチで……」

「そうか、帰れ!」

「いやいや、帰すわけにも行きませんから! トロワさんに監視が必要なのも確かでしょう!?」

「ぐぐぐ……」


 まぁ、それもその通りだ。仮に次期魔王の話が嘘だったとしても、このレベルの純魔族が人の生息圏に入ってきてるだけで大問題になりかねん。

かと言って、もう武力でお帰り願う訳にも行かない世の中だ。人魔戦争から約100年、魔王派に与しなかった魔族も居た以上、ある程度の交流は為されている。

実を言えば、僅かに変装しただけの魔族がこの市場に何人か居たっておかしくはない。こんな所に暮らしている以上、だいぶ人の血も混じっているだろうが……一応魔族であることに変わりはないのだ。


 俺が唸っていると、トロワがそっと俺にだけ覗ける角度でフードの縁をめくり上げた。

銀髪の帳の奥に隠れる、潤んだ真紅の瞳と目が合う。ああ、このくそったれ。男がそいつに逆らえないのを知っていながら。


「頼むよ。君たちだけが頼りなの……僕1人で放り出されたら、今度こそのたれ死んでしまうよ」

「ぐぉ、こ、こいつ」


 ちくしょう、クラクラしてきた。息遣いが感じられるほどの距離だからか、やたら良い匂いがしやがる。

トロワの全てを許したくなる。華奢な割に、ごく一部が豊満な身体を抱きしめたくて、脳が甘く痺れていくようだ。

ええいちくしょう、俺だって勇者一家の端くれだぞ。気合を入れようとした手を、トロワの冷たく滑らかな指がそっとなぞる。


「おねがい、アジンド」


 ……あ、ダメな奴だこれ。


 そう思った瞬間、「ぎゃん!」と甲高いイヌのような悲鳴を上げてトロワの身体が仰け反った。視線がこいつから離れて、ようやく霞がかった意識が晴れていく。

尻を抑えてうずくまるトロワの後ろに、黄金色のオーラを纏いながら手をはたくアニーゼの姿があった。

今回はこいつに助けられたな。まぁ、トロワも冗談の範囲だったろうが。


「……トロワさん? そういうことするなら、本当に岩に括りつけて置き去りにして行きますよ」

「え、えぐいよアニーゼちゃん。よくもお尻を叩いたね、母さんにも叩かれたことないのに」

「背が高くて足も長いので、叩きやすい位置に有りました」


 ちなみに、俺とトロワの身長差は5cmから10cm程度。腰の位置に代わりが無いということは、つまりその分俺の胴が長いと言うことになるな。

……うん、こういう冷静な計算は悲しくなるからやめよう。


「いくら私に止められるのが分かってたからって、趣味の良いふざけ方じゃありませんよ?」

「……怖い子だね」

「大きなお世話、です」


 はにかむように笑うアニーゼがおっかないのは、遺憾ながら同意する。

設定辞書データブック】の奴が何か言ってたな。笑いとは本来、狩猟の前動作だとかどうとか。あいつの笑顔ってまさにそんな感じなんだよ。

ふと視線を戻すと、トロワは膝を叩いて起き上がりながら、妙に黄昏れた視線を一方向に送っていた。

その先には、朗らかに笑いながら買い物をする親子。親に手を引かれながら、かごの中の果物を落とさないよう懸命に抱えている。


「……まぁ、帰る場所が無いのは本当。1人で放り出されたら、多分すぐに死ぬだろうことも」

「あン?」

「この手の刻印は、魔族にとっては大事な御旗。万が一の時の為、探知魔術も開発されているくらい。そして、所有権を移すもっとも手っ取り早い手段は刻印の所有者を殺す事だから」


 ふと、子供がよろめいて。一瞬、周辺の誰もがその子の腕から転がり落ちる果物に視線を移した――その瞬きを縫い、群衆から音もなく1人の男が駆け出すとも知らず。

トロワと同じ意匠のフードに、暗器付きの手甲。布擦れの音すら立てないのは、魔術によって消音しているからか。

俺は慌てて、投擲用のナイフを構えた。トロワの真紅の瞳が驚愕に見開かれ、窄まっていく。

そして、そのどちらもが二呼吸は遅い。レザーの手甲から突き出た針がトロワの喉をえぐり……賑わう市場での穏やかな午後を、惨劇の舞台へと変える。


 ――アニーゼがここに居なければ、そうなっていた可能性は非常に高かっただろう。


「大丈夫でしたか?」


 俺たちの戦闘準備が完了するころには、アニーゼは巨大な剣の入った平たい鞘で、男の鼻頭を打ち付けていた。

自身の勢いまで含めて盛大に顔からぶつけられた男が、力を失い崩れ落ちていく。


「な、なんだ……アサシンか? 驚かせやがって」

「うん、僕の兄の差金だと思う。確証はないけど」

「一応、路地裏に引っ張り込むか。人も集まってきそうだし、面倒は嫌だ」


 幾ら人間に比べて頑丈な魔族といえど、頭に鋼の塊がモロに入れば昏倒もするのだろう。

今はまだ、群衆はあっけに取られているだけだ。今なら「蹴躓いたフードの男が、不幸にも"たまたま"持ち替えようとした剣の鞘にぶち当たった」ということで誤魔化せるだろう。

しかし、俺たちが手元で一動作行うよりアニーゼが鉄塊のような剣を振る方が早いのか。分かっては居たが、改めて地力の差を感じるぜ。

俺は物陰に転がした狼藉者を手早く縛り上げると、他にも暗器が隠されていないか確認していく。

おっ、この財布まだ結構入ってるじゃん? 迷惑料として貰っておこう。


「あなた……」

「小銭程度でも金属の塊だからな。手だれの暗殺者なら武器にだって使えるから仕方ない、仕方ない」


 同様に、【気配隠蔽】という剣呑な付与魔法が施されているフード付ローブもいただきだ。これは人の注目を受けにくくなる効果で、町によっては違法だったりもする逸品である。

闇市とかに流れると非常にコトだが、この町の自警団に売りつけてやる分には構わんだろ。なんだかアニーゼが呆れている気がするが、襲いかかってくる方が悪いのだ。勇者だから合法行為。


「それにしても……うむ、やっぱり魔族か。どうやら僕の兄は、人間の英雄譚サーガに憧れる一族の恥晒しに、魔王印を預けておくのがよほど気に入らないらしいね」

「……血を分けた家族から、そんなことを願われるなんて」

「『よくあること』とまでは言えないけれど、物語の題材にはしょちゅうなる程度の出来事だもの。英雄にも、悪役にも、等しく悲しみは振りかかる」


 そう嘯くトロワの奴は、やはりどこか寂しげで。


「勇者の家族は、仲が良い?」

「私は……」

「ま、ほどほどだよ。なんせ一家と言うにはちとデカすぎるからな。仲良い奴もいれば、録に顔も知らない奴もいるさ」

「そうか。それはそれで、楽しそうだ」


 蹴っ転がした暗殺者は、この後衛兵に突き出してやれば良いだろう。

とは言え、この先もこういう奴らが襲ってくるのなら、俺はトロワに言わなきゃならんことがある。

それはある種、アニーゼに言わせるにはキツい言葉だ。まぁその為に俺が居る以上、俺の仕事ってことだな。


「……お前、やっぱりいつまでも俺たちが引き連れて行くわけには行かねぇわ」

「おじ様?」

「ん……どうしてだい?」

「冷静に考えてよ、俺たちゃ勇者だぞ? ゆくゆくはお前の実家に近い、旧魔族領にだって行かなきゃならねー。ただでさえアウェイだってのに、後は着火するだけのダイナマイトなんざ懐に入れて持ち運べる訳無いだろ」


 そう、『勇者』が世界を回るのには、魔族に対する示威行為的な意味も含むのだ。

俺たちはまだこれだけ強いぞ、あっと言う間にお前たちの喉元を噛みちぎってみせるぞと誇示して行かなければ、いずれまた世界のバランスは傾く。

そんな道中にこの次期魔王を連れて行くのは、幾らなんでも危険が過ぎる。刻印を奪取することと次世代の勇者を出し抜くことがイコールで繋がれば、過激派魔族の士気は炎のように燃え上がる。

……別に、魔族全員が過激派ってことは無いんだけどな。戦争が終わってもう100年だ。人と共存してる魔族だって、境界域近くになれば普通にいるだろうに。


「いくらアニーゼが世界最強の勇者っつったって、分断されればそれまでだ。正面対決さえ避けてお前を殺るなら、俺だって手段の10や20考えつく」

「へぇ、怖いね」

「……だけど、放っていくわけにも行かないんでしょう?」

「そりゃあ分かってるがね。刺客を返り討ちにできる実力があって、信頼できて、すぐに連絡つく相手なんて早々――」


 居ないから、将来的にどこかでバイバイする覚悟をしておけ、と続けるつもりだったんだが。


「――いや、居るじゃねえか適当なのが」


 幸いなことに、ポンと浮かぶ顔があることに気付いちまった。

おまけに、間接的にこちらが抱える問題も片付く一石二鳥の策だ。


「そうかそうか、あいつに全部任せちまえば良いんだな!」


 まぁ頼み込むのにちょっと骨は折れそうだが、まず断られはしないだろう。

ニタニタとほくそ笑む俺を、女性陣がなんだか気味の悪そうな目で見つめていた。






 □■□






「ふーん? なによ、急に連絡してきたと思ったら、このワタシにこいつを保護しろってワケ?」

「いやー、ちょっと混みいった事情があってな。大婆様にも伝えてあるから、どうか頼むぜ」

「フン! アナタの頼み事じゃなければ、ちょっとは考えてあげても良かったけど。どうしてもって言うなら、口の利き方ってのが有るんじゃない? このアイサダ・デルフィニィ・デュオーティに対して!」


 黒髪をかきあげ、挑発的に笑ってみせるデュティに対し、俺は爽やかな笑顔のまま頭を下げる。


「いやーそんなこと言わず、どうかお願いしますよ、デュオーティお嬢様」

「け・だ・か・き!」

「いよっ、気高き竜人様! いやーウチのアニーゼは融通が利きませんで。魔族誅すべしって言って聞かないのですよ」

「ほーっほっほ! それじゃあ仕方ないわね、所詮あの子は獣(けだもの)だもの! お婆様が仰るような高度な政治的判断なんて、できないに違いないわ!」

「いや、まさしくその通り!」


 うむ、竜人はやっぱりチョロかった。

俺はこういう時に売るプライドは腐るほど持ってるからな。これからこいつもトロワに振り回されるのだと思えば、頭くらい幾らでも下げてやるさ。


「いいでしょう。この私が保護してあげる。家事くらいは出来るんでしょうね?」

「――情け深い計らいに感謝致します、竜人の姫よ。歌を紡ぐしかできない身では有りますが、ぜひ御身の輝かしい英雄譚を僕に紡がせていただければ」

「ふふふ、許可してあげるわ! 三千世界に響き渡るような素晴らしいものに仕上げるのよ?」


 膝をついて一礼するトロワも、大概ノリノリだな。

こいつはこいつなりに、ひと目でデュティのことが気に入ったのだろう……無論、おちょくる対象として。

勇者の血が魔王におちょくられてて大丈夫なのかと思わんでも無いが、まぁアレで実力だけは確かな筈だ。

何より、これでデュティも強行軍を続ける訳には行かなくなったろう。モンスター退治の依頼を全部掻っ攫われるような状況も、多少はマシになるはずだ。


「つーことでこれで一件落着……いやー、やっと財布も緩められるなぁ、お嬢?」

「そうですねー。私は融通が利かないですけど、勇者ですもんねー」

「……なんだ、何にじり寄って来てんだ? ひ、久しぶりに豚のげんこつでも齧るか?」

「いえ、せっかく二人旅に戻ったのですし、どうせなら獣らしくあなたに甘咬みでじゃれつこうと思います……がぶ」

「痛い! ガブっていってる! 牙立ってる牙!」


 微妙に黄金色のオーラを纏わせながら、アニーゼがじゃれついてくるのもそれはそれで普段通りで。

おかしな出会いを交えながらも、俺たちの旅はまだまだ続くのである。

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