アドバンスト
笠虎黒蝶
考える足
第1話
チャレンジド。神から挑戦するべき試練を与えられた人。
「早瀬さん、準備ができたら右手を挙げてくださいね。ゴールラインの永井さんがカウントダウンを始めますから」
「わかった。アイちゃん、もう離れてくれていいよ」
凌介は、東都工科大学のグラウンドに設けられた、百メートル走トラックのスタートラインにいた。ジャージ姿の凌介は同大学にある
凌介はしゃがみ込んで左足の
凌介が両膝下を失ったのは四年前。現在、彼の膝にはカーボン素材と金属から成る独自開発の義足が取り付けられている。深川研究室の研究テーマは医用生体工学であり、義足はアポロン社との共同開発品である。最先端の技術によって開発されたこの義足は、足を動かそうとする際に体内に流れる微弱な電流を検出して動作し、表面に取り付けられた複数の超小型ハイスピードカメラを始めとする多数のセンサーによって、関節の角度を微調整しながら歩くことが可能となっている。凌介達が今回新たに実装した機構が理論通りに動作すれば、
凌介がプロテクターの締まり具合を確認するように身体を
「サングラスは危険じゃないですか?」
「やっぱりそう思う? でも、これが無いと、どうも落ち着かなくてね」
スポーツバンドで愛用のサングラスが固定されていることを確認した後、凌介はクラウチングスタートの姿勢を取り、右手で合図した。アイは小走りで凌介から離れ、それを見た永井がスターターピストルを構えた。
「カウントダウン始めまーす! 十秒前、九、八、七、……」
ピストルが鳴り、凌介が右足を踏み込んだ瞬間、義足の装置が稼働を始めた。凌介の身体に流れる微弱電流と、各関節のカメラやセンサーが捉えた状態が電気信号となってプロセッサ群に伝わり、そこでは瞬時に計算が行われ、各関節のモータに適切な電流が送り込まれる。この一連の動作が完了するまでには千分の一秒もかからない。これらの装置の連動によってロケットスタートを切った後も義足は加速を続けた。最初は順調な加速にただ心地良さを感じていた凌介であったが、これまでにない速さでつき上げてくる義足と膝の衝撃に転倒の不安が頭をよぎり始めた。
——着地の衝撃が大きすぎる。これはスプリング制御の調整が必要だな。
凌介が何とか前傾姿勢を保ちながら、そんな分析を始めた頃、ゴールを告げるピストルが鳴った。
完走できた——そう思った瞬間、次の一歩は地面を捉えることはできず、転倒には至らなかったものの、凌介は不格好に数メートル程スライディングする形で走行を終えた。
「早瀬さん! 怪我無いっスか!?」
「ふぅ……俺は大丈夫。でも、結構な勢いで
そう言って、凌介は義足の
「うわっ、新品のゴムに変えたばかりなのにこりゃひどいな……でも、よく無事でしたね」
「一歩間違えば、俺の顔がそのゴムのようになっていたかもだ。で、タイムはどうだった?」
「ストップウォッチでの計測ですけど、ヤバイっスよ。五秒九五です」
「五秒九五か……まぁ、歩幅を考えるとそんなものかな」
「そんなもの、って……何だか他人事みたいな反応ですね。いつもの『想定通り』ですか? 俺も十秒は切ると思っていましたが……これはもう人間の速さじゃないですよ」
「そりゃあ、普通の人間の足と比べれば速くて当然さ。でもオリンピックには出してもらえないだろうね」
次に巨体を揺らしてやってきたのは中村であった。息が荒いのは久々に走ったからなのか、興奮を抑えられないからなのか。吹き出す汗を拭きながら、持ち前の大声で話しかけた。
「早瀬さん、うまく行ったじゃないですか。もう、発表しちゃっても、いいんじゃないですか? これは、もう、結構なニュースになりますよ。カメラにちゃんと収まっていると、いいんですが」
「世間に公表するんですか? うーん、それはまだ早いと思いますけどねぇ……いずれにせよ深川先生の許可が必要ですし、午後の会議で相談しましょう。それまでにデータを整理しておかなきゃいけないな……」
アイが凌介の背後から心配そうに声をかけた。
「早瀬さん、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫。義足は傷だらけのようだけどね。一本しか走ってないけど、データ取りはこれで十分だろう」
「そうですね。じゃあ、戻って解析やりますか」
「そうしよう。悪いけど研究室まで手引き頼むよ。中村さんも行きましょう」
「了解です。じゃあ、永井さん、後片付けお願いしますね。私は解析やっておきますから」
「エーッ、俺一人かよ。しょうがねぇなぁ」
口を尖らせて整地に向かった永井に片付けを任せ、凌介はアイに先導される形でその場を離れた。
「それにしても、何も見えずにあんな速さで走るなんて、怖くないんですか?」
グラウンドの端にある階段を上がりながら、アイが凌介に尋ねた。
「平気だね。平坦な場所だから。この階段の方がよっぽど怖いさ」
凌介は少し強がってみせた。四年前、彼は両膝下と同時に両目の視力も失っていた。
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