ネコミミクラスタ02

Two Cats 猫妖精の森

　円卓公園から常若町に続く坂道の途上。

　そこにソウタの家である喫茶店『猫妖精の森』は建っていた。猫妖精の森は義兄ユウタの実家でもある。２月の終わりに、ユウタに連れられて猫妖精の森に越してきてから、半月近くが経とうとしていた。

　漆喰でできた白い建物の間に、２つの切妻屋根を持った猫妖精の森は建っている。

　我が家が近づくにつれ、ソウタはハルのことを考えていた。

　屋根についた切妻屋根が、白いネコミミに見えたからだ。朝陽を受け、窓がついた切妻屋根は桜色に染まっている。ハルのネコミミも光を受けると、淡く薄紅色に輝くのだ。

　朝陽のように眩しかったハルの笑顔を思い出す。

　２人組に会おうという提案を、ハルは微笑みながら受けてくれた。嬉しそうなハルの瞳が今でも忘れられない。

　心臓が軽やかに鳴る。

　自然と、ソウタの口元には笑みが滲んでいた。

　玄関の前へとソウタはやってくる。

　玄関を見上げると、黒猫の形をした看板が風にゆられキィキィと音をたてていた。今度は、義姉であるミミコのネコミミを思い出す。

　ミミコのネコミミは、看板の黒猫のように艶々とした黒色をしているのだ。

　ハルの話をすると、ミミコはいつも楽しげに黒いネコミミを傾けてくれる。

　驚いたときには黒ネコミミを反らしながら。嬉しいときには、ネコミミをぴょんぴょん動かしながら。

　話をするたびに様々な表情を見せてくれる義姉のネコミミが、ソウタは大好きだ。

　今日はどんな風にハルの話をミミコにしようか。笑顔を深め、ソウタは玄関を見つめる。

　ソウタは瞳を見開き、立ち止まる。

　玄関を見つめるソウタの顔から笑みが消えた。

　ソウタは瞳を剥いて立ち止まった。

　玄関の左側には、ポストがわりに使われているネズミ捕りがある。そのネズミ捕りが、真っ赤なペンキで汚れていたのだ。

　ネズミ捕りを汚しているペンキは陽を浴びて、血のように毒々しく輝いている。

どくりと、ソウタの心臓が不吉な音をたてた。

　ポストにペンキをかける嫌がらせを、自分たちが越してきてからしている奴がいる。ケットシーである自分とミミコを、よく思わない奴の仕業だ。

　真っ赤になったネズミ捕りを見て、嫌な想像をしてしまう。

　会おうとしている２人組が、もしケットシーで自分とハルを受け入れなかったら。

　もし、彼らがハルが傷つくようなことしたきたら。

　そんなことはない。ソウタはネコミミを振り気持ちを切り替える。

　じっと、赤く染まったネズミ捕りをソウタは見すえる。ペンキの毒々しい赤色に抵抗を覚えるが、意を決しソウタはネズミ捕りに駆けよった。

　ネズミ捕りの中には、１通の手紙が投函されていた。

　ソウタは急いでネズミ捕りを開けた。

　蓋についていたペンキが指につく。指先に広がる粘ついた感触に嫌悪感を覚えながらも、ソウタは手紙を摘みだした。

　手紙の無事を確認する。手紙はペンキを被ってしまっていたが、封筒が分厚いこともあり中身は汚れていないみたいだ。

　ほっとソウタはネコミミをたらし、手紙の宛先を見た。

　表の宛名はペンキを被ってしまい分からない。封筒の裏を確認する。裏は汚れもなく差出人がすぐにわかった。

　差出人はユウタだ。仕事で家を空けることが多い彼は、頻繁に手紙を送ってきてくれる。

　汚れた手紙を見つめたまま、ソウタは思い悩んだ。

　どうやってミミコに手紙のことを説明しよう。

　彼女はからの手紙を、とても楽しみにしている。こんな汚れた手紙を見たら、ミミコはさぞかし気落ちするだろう。

　困ったようにソウタは玄関を見つめる。

　猫の形をした玄関窓からは、ゆらゆらと揺れる黒いネコミミが見えた。

　店の左側にあるカウンターに、黒いネコミミを生やした女性が座っていた。

　義姉のミミコだ。

　玄関窓から視線を放し、ソウタは俯いてしまう。

　玄関のドアノブに手をかける。だが、ソウタはその手を離してしまった。

　また、玄関窓を見つめる。カウンターに座るミミコのネコミミが力なくたれさがっていた。

　また、具合が悪いのだろうか。心配になって、急いでソウタはドアノブに手をかけた。

　玄関ドアを開けると、猫の形をしたドアベルが軽やかな音をたてる。

｢あ、お帰り、ソウタ｣

　弾んだミミコの声がネコミミに響く。安堵したソウタは、心臓を軽やかに鳴らしていた。声を聴くかぎり、ミミコは元気そうだ。

　カウンターに瞳を向ける。

　目尻のさがった深緑の瞳をソウタに向け、ミミコは微笑んでいた。

　彼女が艶めく黒ネコミミを動かす。彼女の左ネコミミについた鈴が音をたてた。黒いネコミミを包む長い黒髪が、深緑に輝いている。

　思わずソウタは、その輝きにみとれていた。

　この辺り一帯がニホンの首都トウキョウだった頃には、美しい黒髪が重宝されたという。その理由が、ミミコの髪を見ているとわかる。

　ミミコはティーカップを手に持っていた。

　カップからは、優しい桜の香りが漂ってくる。その香りに気がついたソウタは、ミミコを睨みつけていた。彼女に詰め寄り、ソウタは大声をあげる。

｢義姉さん、俺の紅茶勝手に飲んだでしょっ」

｢ありゃ、ばれた？」

　ミミコが悪戯めいた笑みを浮かべてみせる。

　彼女はソウタにカップを見せつけてきた。カップの中には、薄紅色の水色が美しい紅茶が入っている。桜の香りは、その紅茶から放たれていた。

｢まったく｣

　ソウタは瞳を眇め、カウンターの上に置かれた紅茶缶を見つめた。

　缶は桃色で、真っ白なネコミミが描かれている。ハルに飲ませてあげようと取り寄せた、桜のフレーバーティーだ。

｢うーん、美味しいと思ったんだけど、香りがきつくて駄目。朝ごはんも、あんまり食べられなかったし、今日はなんかなぁ」

　カップをソーサーに置き、ミミコは困ったように笑ってみせた。

「大丈夫？」

「大丈夫だよ。ちょっと横になったら、楽になった」

　不安げにソウタはネコミミを伏せる。鈴が頼りなさげに音をたてた。慰めるように、ミミコは頭を撫でてくれる。よけいに、手紙が渡しづらくなってしまう。

　ケットシーであるミミコの健康状態はここ数年、思わしくない。

　彼女が最新の治療を受けられるよう、ユウタはマブの主要施設が集まった常若島に自分たちを連れてきたのだ。

｢ソウタ、何か悩んでるでしょ？」

｢別に、なんにもないよ」

　瞳を細め、ミミコがソウタの顔を覗き込んできた。

　ミミコの言葉に、ソウタは彼女から顔を逸らす。ネコミミの鈴が、気まずそうに音をたてた。

｢嘘、薬飲んでない？」

｢何で、飲まなきゃいけないの……？」

｢ソウタ｣

　ミミコが静かにソウタを呼ぶ。彼女は瞳を鋭く細め、ソウタを見すえた。

　彼女と視線をあわせることができない。ソウタは顔を逸らしたまま、ネコミミを　弱々しく伏せた。手紙を強く握りしめてしまう。

　ウイルスを抑制する薬を飲まなければ、自分の命が危ない。ミミコが怒るのはもっともだし、自分を思っての行為であることも分かっている。

　それでも、ソウタは彼女の言葉にネコミミを貸すことができなかった。

　不意に泣きそうになって瞳が潤む。その瞳をミミコに向けると、彼女は驚いたように瞳を揺らめかせた。

　ソウタは何も言わず、ユウタからの手紙をミミコに差し出す。

　手紙を見たミミコは瞳を曇らせ、困ったようにソウタに視線を戻した。

｢これが、理由？｣

｢俺たちって、そんなに気持ち悪い……？」

　ソウタは涙を堪えながらミミコに問う。ミミコは瞳を見開き、ソウタの肩を抱き寄せた。

｢そんなの気にしないの、ソウタっ。ハルちゃんの件だって町長に話したけど、あいつ何でそんなことするんだって、怒ってくれたよ。誰も、あなたたちを傷つけないから」

　ミミコは叫んでいた。

　まるでソウタに訴えかけるように、彼女は言葉を吐き出していく。

　ハルの家に鎮魂祭にでるなと、脅迫状が届いていた。

　もし出れば酷い目に合うと、脅迫状には書かれていたそうだ。

　怯えるハルにそのことを打ち明けられ、ソウタはミミコに相談したのだ。ミミコはこの件について、顔なじみである町長と話し合ってくれたらしい。

　町長にはソウタも会ったことがある。

　ミミコの幼馴染だという彼は、裏表のない芯のしっかりした男性だ。ケットシーだからといってハルを鎮魂祭にださない人ではない。

　でも、心にわだかまる鬱屈とした気持ちは消えない。

　どうして自分たちはケットシーであるだけで、これほど差別を受けるのだろう。

｢でも、ハルは差別された……。どうして、脅迫状なんてハルは受け取らなきゃならないの。ハルがケットシーだから？　俺たちがウイルスで死ぬ存在だから……」

「ソウタっ」

　ミミコがソウタの顔を覗き込んでくる。彼女の瞳が煌めき、思わず心臓を高鳴らせていた。慰めるようにミミコはソウタを抱きしめてくれる。

｢ウイルスで死ぬ存在だから、何？　私たちは何もしてないし、ケットシーであることを恥じる必要もない。そんな人間の言葉を聴いたりしちゃダメ｣

｢でも、信仰が俺たちを否定する……」

　ミミコの言葉に、ソウタはつぶやいていた。

　悲しげにミミコは深緑の瞳を潤ませる。どくんと、ソウタの心臓が罪悪感を覚え、音をたてた。

　ケットシーは他の感染者と違い、ウイルスが変異しているため抑制剤を飲まなければ死んでしまう。

　そして、特殊な能力を持っている。

　それが、ケットシーへの差別に繋がっているのだ。

　かつて統治機構マブは、そんなケットシーたちを隔離し、差別する政策を行っていた。旧文明時代にウイルス研究のために設立されたマブにとって、ウイルスの克服は何者にも代え難い悲願であった。

　それを、否定する存在が現れた。

　彼らにとって、ケットシーは自分たちの成果を否定する驚異そのものに映ったのだ。彼らはケットシーたちを隔離し、統治機構内での差別を信仰により徹底した。

　ケットシーは救世主たる灰猫の恩寵を受けることができない、汚れた存在である。そう、箱庭の住民たちに吹き込んだのだ。

　　時代の流れとともにマブの支配体型も変わり、今日では教義による差別は否定されている。

　マブの政策に反発したケットシーたちによる反抗運動や犯罪も一時期は横行したという。そんな過去の記憶もあり、ケットシーの差別が消えることはない。

　社会に貢献しているケットシーを不平等な存在とみなし、社会から締め出そうとする人々もいるのだ。彼らは言う。ケットシーの能力はウイルスがもたらしたものであり、努力して勝ち得たものではない。

　何より彼らは、救世主たる灰猫の恩寵を否定する存在であると。

　ソウタも謂れのない差別を受けてきた。

　それはミミコだって同じだ。だが、ミミコはいつだって毅然として、差別に立ち向かっている。

｢ごめん、義姉さん｣

　傷ついてばかりで、前を見ようとしない自分が情けない。

　ソウタはしっかりとミミコを見つめた。重い口を開き、彼女に謝る。

　ミミコは瞳を見開き、ソウタを見つめた。そっと瞳を綻ばせて、彼女は微笑みかけてくれる。

｢いいのよ。わかってくれれば。私はソウタが側にいてくれるから、こうしていられる。だから、ハルちゃんの側にもいてあげなさい」

　ちりんと、ミミコのネコミミについた鈴が軽やかな音をたてた。

　両頬を、彼女の柔らかな手が包み込んでくれる。ミミコの掌の感触が気持ちよくて、ソウタはネコミミをたらしていた。

　ミミコが笑みを深める。瞳が放つ緑の光彩に魅入ってしまう。その瞳を見つめていると、ソウタはいつも安らかな気持ちになれるのだ。

　心のわだかまりを見通して、ミミコは言葉を紡ぐ。

　彼女はわずかな仕草や表情から、人の感情を読み解くケットシーだ。

　簡単な嘘ぐらいなら、すぐ見破ってしまう。

｢やっぱ義姉さん、すごいな。みんなが魔女って呼ぶのが良くわかる」

｢私は、魔女じゃくて、使い魔のつもりなんだけどね」

　ソウタの言葉にミミコは苦笑してみせる。

　ネコミミについた彼女の鈴が、悲しげに鳴った気がした。

｢それより、ソウタ。まだ、悩みあるでしょ」

｢別に、大丈夫だよ」

｢嘘ついてる。ネコミミに書いてあるよ」

｢えっと、その……」

｢ほら、言う」

｢義姉さん、学園って楽しかった？」

　ソウタの言葉に、ミミコは驚いたように眼を見開く。

　彼女は優しく瞳を細め、ソウタのネコミミを撫でてくれた。柔らかなミミコの掌がネコミミを包み込んでくれる。

　気持ちよくて、ソウタは瞳を綻ばせていた。

　楽しげに瞳を煌めかせミミコは微笑む。彼女は優しい声でソウタに言った。

「私は、側にいてくれる人がいて、嬉しかったけどな。肝心なのは、あなたがどうしたかじゃないの？」

「うん」

　こつんと、ミミコが額を押し当ててくる。

　不思議だ。

　ミミコの言葉を聴くと、体の力が抜けて安心できる。悩んでいるのが馬鹿らしいぐらい、心が軽くなるのだ。

｢側にいてくれた人って、義兄さん？」

｢あれ、よく分かったじゃない」

｢義兄さんが、泣き虫だった義姉さんをよく慰めてたって言ってたから。義姉さん、学園に行きたくないって、よく義兄さんを困らせてたんだって？」

｢あのクソ旦那。また、ソウタに変なこと吹き込んで。帰ってきたら、ただじゃおかないんだから」

　瞳をいからせ、ミミコは吐き捨てる。

　ソウタは先ほどの発言を心の底から後悔した。

　自分の失言が原因で、帰ってきたユウタが命が危ないかもしれない。

　けれど、ミミコの瞳は嬉しげに綻んでいた。ユウタのことを考えるだけで、ミミコは幸せなのだ。そんなミミコが少しだけ羨ましい。

　不意に思ってしまう。

　ハルが、自分にとってそんな存在になってくれればいいと。

｢いいな……」

｢何か、言った？」

｢ううん、何でもない」

　ネコミミを上下に動かし、ソウタは首を振った。ミミコが不思議そうにネコミミを揺らす。ソウタはそんなミミコに笑いかけた。ミミコも微笑みを返してくれる。

　ソウタは、そっとカウンターに乗った紅茶缶を両手で包み込む。

　紅茶缶を優しく両手で抱え、カウンターの中へと移動する。

　眠い。ソウタは背筋を伸ばしあくびをする。

　重たくなった瞼を手の甲で擦って眠気を和らげる。

　最近、早朝練習のため早起きが多いせいか、妙にあくびをする回数が増えたきがする。

｢ちょっと、寝てくる……」

｢ソウタ、寝るのが大好きだもんね。それなのに、ハルちゃんのために早起きなんてしちゃってさ。熱い、熱い」

　ミミコの言葉を聴いて顔が熱くなる。それによって、眠気が引いていくのがわかった。

　ソウタはミミコに振り向き、彼女を睨みつける。

｢うるさいなっ。ハルとは、そんなんじゃないっ」

｢はいはい、分かってますよ。ごめんね」

　にんまりと瞳を歪め、ミミコは笑ってみせる。

　彼女はソウタのネコミミをなだめるように撫でてきた。

｢それより、ソウタ。寝る前にやることがあるんじゃないの？｣

｢えっ｣

｢薬、ちゃんと飲みなさい｣

　びしっとミミコがソウタの背後にある棚を指差した。

　ソウタは瞳を曇らせ背後の棚へと視線をやる。

　天井までとどく造り付けの大きな棚には、色とりどりの紅茶缶やカップが並んでいる。その棚のすみに小さな牛乳瓶が置いてあった。

　牛乳瓶の中には、苹果の形をした透明な錠剤が入っている。ソウタのために造られた、ウイルスの抑制剤だ。

｢飲まなきゃ、ダメ｣

｢死にたくないでしょ？｣

　ミミコに振り返り、ソウタは不満そうに猫耳をゆらす。ネコミミをびしっと立ち上げ、ミミコは凛とした声でソウタに告げた。

　ソウタは渋々と棚に近づき、牛乳瓶を手にとる。蓋を開けて牛乳瓶を傾けると、ビー玉大の錠剤がころんと掌に落ちた。

　陽光を受けて、赤い錠剤は艶々とした輝きを放っている。

　ごくりと唾を飲み込み、覚悟を決めたソウタは錠剤を口に放り込んだ。

　錠剤がソウタの舌の上で転がる。強烈な苦味が口いっぱいに広がった。

　ソウタは口を押さえ、苦味に耐えた。あまりの辛さに、涙が出てきてしまう。

　ソウタはカウンターへと駆け寄り、卓上に置かれたティーカップを手にとった。そのまま頭を反らし、一気にティーカップに入ったフレーバーティーを飲み干す。

　フレーバーティーの甘味と錠剤の苦味が口の中で混じり合う。ソウタはカップをカウンターに叩きつけるように置き、両手で口を抑えた。

　あまりのマズさに、口に含んだものを吐き出してしまいそうになる。

　ぷるぷるとネコミミを震わせながら、ソウタは錠剤を嚥下した。

　口を開く。

　フレーバーティーの香りが鼻の中に充満し、嘔吐感が込み上げてくる。涙を流しながら、ソウタは唾を飲み込み、それを耐えた。

｢もう、コレやだ……｣

　涙声を発しながら、口を抑えたソウタはミミコを見つめる。

　ミミコはネコミミをプルプルと震わせながら、笑うのを堪えていた。

｢義姉さんのバカ！！｣

「お休みなさい、ソウタ」

「お休み、義姉さん」

　ミミコに笑顔を送ると、ソウタは踵を返す。紅茶缶を持ち直し、２階へと続く階段箪笥へと駆ける。階段箪笥を跳び越え、ソウタは２階へと上がっていった