揺れる灯りの中で

深里

第1話

 嫌な予感はしていたのだ。そういう気配を感じたのは初めてではない。幼い頃に、祖父の家の蔵でも一度あった。やはりホテルに泊まるべきではなかったのだろう。誰が行ってもいい研修など断ればよかった。

 子供の頃より鈍感になっているはずと思ってもみたが、それは気配だけでなく姿も現した。うんざりしたが、生憎、近隣で幾つかのイベントが催されていてホテルは満室だった。部屋替えは無理。寒空の下の野宿も馬鹿げている。そういうわけで俺は、それを無視してそのまま眠ることにした。

 何かしようという様子はなく、少し寒気がする以外困ることはなかった。遠出して疲れていたせいもあり、殆ど気にせずぐっすり眠った。

 朝になってもそれはまだそこにいた。俺をじっと見ているようだった。まあどうでもいいと思い、朝食を済ませてチェックアウトした。それで終わりと思ったのに、どういうわけか、それは家まで着いてきた。


 また無視してやろうとも思ったが、かりそめの寝場所なら兎も角、自分の家に居座られるのは困る。出ていけよ、と言うと、それは俄かに顔をほころばせた。

「やっぱり僕がわかるんだね」

 ひどく嬉しげに言う。

「あの、勘違いしてるかもしれないけど、僕、人の霊とかじゃないからね」

「何でもいいから出ていけ」

 見た目は中学生くらいの少年だ。口をきくと、更に幼い感じもした。

「僕が怖くないの」

「出ていけっていってるだろ」

「行くところがないんだ」

「あのホテルに帰ればいいだろう」

「僕の家じゃないもの」

「じゃあ、自分の家に帰れよ」

「家はないんだ」

 黒目がちの目が僅かに潤んだようだった。

「でも、じきに出ていくよ。それは絶対約束する。だから、ほんのちょっとの間だけ僕をここに置いて。僕のことがわかる人のそばにいたいんだ。長いこと一人でさみしかったから。お願い」

 行くところがないのにじきに出て行くとは矛盾している。嘘だなと思った。俺か、あるいはこの場所にとりつく気だろうか。

 しかし疲れていたので、遣り合うのは面倒になった。叩き出そうとしたところで、できるのかわからない。できたとしても、勝手についてきたくらいだ、どうせまた勝手に入ってくるだろう。

 無視していれば、そのうち飽きて本当に出ていくかもしれない。

「好きにしろ」

俺はため息とともに言う。

「ありがとう」

それは、ほっとしたように笑った。


 それは、レヴィと名乗った。人の世界ではおそらく魔物と呼ばれる類の生き物だ、と自身について話した。魔物など、いい年をした大人が聞いてあっさり信じるような話ではない。が、家に居座って三日、全く食べ物を口にせず平然としている様を見れば、人でないのは明らかだ。

 俺は、深くは追究しなかった。本人がそういうのだからそうなのだろう。そもそもレヴィが何者でも関係ない。そのうち出ていってさえくれれば、それでいいのだ。

 勿論それらは、レヴィが本当に存在していると仮定しての話だった。

 幻覚の可能性についても、当然考えてはいた。俺は総合病院の近くの調剤薬局で、薬剤師として働いている。そこへ抗精神薬の処方箋を持ってくる患者たちが、たまに自身の幻覚について話をすることがあるのだ。その内容から推測すると、幻覚といっても見ている本人にとっては現実同様の場合が多いらしい。つまりは俺にレヴィが見えるのと同様──だ。

 ホテルからの道中で、レヴィの姿が他の人間の目に映っていないのはわかっていた。でなければ、誰からも咎められず切符なしで改札を通り抜ける、といったことは繰り返せない。

 しかし結局、それについても深くは考えないことにした。突き詰めれば、人の知覚の全ては幻といってもいいのだ。たとえ幻覚があっても、振り回されて生活に支障を来さない限り、大きな問題はない。

「僕ね、あなたの好きな人の服を脱がせることができるよ。誰か気になる女の人がいるなら言って」

「うるさい。別に必要ない」

「どうして? 前に一人だけ、やっぱり僕のことが見えて話もできた人がいて、その人に言ったらすごく喜んでくれたよ。あ、相手は男の人でも大丈夫だよ」

「女も男も必要ない。黙ってろよ」

「もう決まった人がいるの? ここに連れてくる?」

「うるさいって言ってるだろ」

 好きにしろとは言ったが、お喋りの相手をするとは言っていない。叱りつけると、レヴィはしゅんとして黙り込んだ。魔物ならではの奇妙な力を披露したいらしかったが、残念ながら俺には必要のないものだった。


 他にできることは特にないのか、レヴィは一日の大半を寝て過ごしているようだった。俺の帰宅時にもだいたい寝ていた。常夜灯だけをつけ、ソファーの上に丸まって、呆れるほど平和な顔で眠っていた。

 目覚めても俺は殆ど無視しているから、手持無沙汰な様子でぼーっとしている。それでもその顔はいつも満足そうで、出ていく気配は全くなかった。

「僕が生まれたのは、人の世界とは違うところなんだよ」

 食事の支度をする横で、レヴィが勝手に話をする。

「本当はずっとそこにいればいいんだろうけど、向こうは人の世界より怖いところなんだ。弱いものはすぐに殺されて食べられてしまう。僕はすごく弱いから、とても向こうにはいられなくて、逃げ出してきちゃったんだ。人の世界にいる向こうの生き物は、だいたいは自分の世界で暮らせない弱いのなんだよ」

 無視して夕食をとる。その脇で、レヴィは話し続けた。

「だけど、たとえ弱くても、こっちで向こうの生き物には会いたくない。相手も警戒してるし、大抵僕の方が弱いから、下手をしたら殺されかねないもの。向こうの生き物同士はね、皆あんまり仲よくないみたいなんだ。お互い、相手を殺して食べることしか考えてない。少なくとも、僕が出会ったのはそういうのばっかりだった。あのホテルは、他に向こうの生き物がいなくてよかったんだ。人は僕には気づかないし、ずっとのんびりしてた。でもね、あんまり長い間そうしていたら、何だか自分が、もう存在してないような気がしてきて。こんなんだったら、向こうで誰かに食べられた方がよかったのかもしれない。だけどやっぱり、食べられるのは怖いよね」

 ふと気になった。ここへ来てから外へ出たか、と訊いてみる。突然の質問に、レヴィはきょとんとして首を振った。

「出てないよ。なぜ?」

 特に食べ物を要求するわけでもなく、留守中、家にあるものを勝手に食べるわけでもない。外にも出ていないとなると、こいつは最低でも一週間食事をとっていないのだ。相変わらず平然としているが、今の話からすれば、魔物でも何かは食べて生きているということになる。では、こいつの食事はどうなっているのか。

「おまえは何も食べないのか」

 俺はまた訊いた。気にする義理はないが、万が一、空腹で出かける気力がないというのだと困る。出ていく前に飢え死にされては寝覚めが悪いだろう。

「食べるよ、死んだ虫とか。こっちに来てからは人が残したものとかも。時々だけど」

「時々って」

「見つけたときに食べるだけだから」

「人の食事なら、簡単に見つけられるだろ。おまえ、周りから見えてないんだから」

「だけど、人のものを盗るのはよくないよ。残ったものなら、いらないものでしょ。それに僕ね、あんまりたくさん食べなくても生きていけるんだよ。だから、見つけたときだけでも大丈夫なんだ」

 なるほど。ずいぶんと便利な身体のようだ。弱い被食者の生き延びる術ということか。それにしても、盗るのはよくないとは、出会った相手を殺して食べる連中と同族とは思えない言葉だ。それも被食者ならではなのか。

 しかしこの時期に外へ行っても、死んだ虫は碌に見つからないだろう。人の食事の盗み食いもしないとなると──。

 俺は内心、ため息をついた。世話をする必要などない。だが、どこかで残り物を漁ると知っていながら見て見ぬふりをするというのもいい気分ではなかった。僅かな量の食事で事足りるとなれば、尚更だ。

「俺と同じものでいいなら、おまえの分の食事も作ってやる」

「え、本当に?」

「必要なときは言え」

レヴィは戸惑った様子で暫く黙った後、笑った。

「うん。同じものでいいよ。ありがとう」


 それからまた一週間経っても、レヴィは食事を要求してこなかった。

 本当に空腹ではないのか、遠慮しているのか。あるいは、実は残り物が好きだったのかとも思い訊いてみると、必要なときがわからない、という妙な返事が返ってきた。

「わからないってどういうことだ」

「だってさ、ずっと、見つけたときに食べてたから。見つけたら見つけただけ食べて、ないときは食べなくて。お腹はずっと空いてるような気がするけど、いつが必要なときなのか、よくわからないんだ」

 何とも間の抜けた話に聞こえたが、定期的に食事がとれるとは限らない状況で暮らしていると、そうなるものなのかもしれない。それで必要なら言えといったら戸惑ったのか、とも思い当る。

 仕方ないので、一日一回夕食を食べさせて様子を見ることにした。すると今度は、食べる量の限界がわからないと言って困り出した。確かに、自由にとらせるとあるだけ食べてしまう。幾ら量を増やしても同じで、際限がなかった。満腹、という感覚がないのだろうか。

 元々、少量の食事で暮らしてきたらしいのだ。最終的に子供のように腹を壊されても厄介だ。こちらで適当に盛りつけて出すことに決めた。不満を述べるかと思ったが、それでむしろ安心した顔で食卓につくようになった。全く、魔物というのは奇妙な生き物だ。


「ねえ、本当に気になる人いないの?」

 食事をとりながら、レヴィがまた以前と同じ話題を出す。

「しつこいな。必要ないって言っただろ」

「だって、何かしてあげたいんだ。こんなに親切にしてくれるんだもの」

「別に親切でしてるわけじゃない。どうせ食事を作るんだから、ついでだ」

「本当に誰もいないの。あなたも一人なの?」

「一人だと悪いのか」

「さみしくない?」

「別に」

「僕は、一人はさみしいな」

「喋ってないで、食べろ」

 俺はレヴィを黙らせた。


 一人でさみしくないのか。職場でも、時折言われる言葉だ。

 まだ二十八で、結婚結婚とうるさく騒がれる年でもないと思う。そもそも、他人の結婚について周りがとやかくいうこと自体理解できないのだが、世間というのは違うらしい。結婚はしないのか。いい人はいないのか。一人でさみしくないのか。皆、口を揃えて言う。

 さみしくなどなかった。一人は気楽だ。誰とも一緒にいたいとは思わない。その感覚が普通と多少ずれていることも知っている。おそらくは両親のせいだろう。俺の親は二人とも、感情の表出があまりない人間なのだ。だから、普通なら親から与えられるであろう体験が俺には殆どない。可愛がられるとか干渉され過ぎるとか、褒められるとか叱られるとか、たとえばそんなものだと思うが、そういった体験がないために、俺の感情もあまり育たなかった。

 自分の感情が育っていないと、他人の感情も理解できない。親たちは、お互い感情の動かない同士で気が合ったのかもしれないが、俺は他人と過ごすのは苦痛だ。相手の気持ちの動きがよく読み取れないし、同調もできない。向こうもたぶん俺といて楽しくないだろう。いや──この、楽しい、という感覚からして、俺にはよくわからないものなのだ。

 楽しい、がわからないから、欲しいものやしたいことも特に思いつかない。感情の面だけではない。母親に抱かれた記憶も全くないせいか、他人に触られることが苦手だった。他人に触りたいとも特に思わない。誰かの服を脱がせてどうこうしたいとも思わない。相当、変わった人間なのだろう。レヴィにもそう思われているに違いない。

 魔物に変人と思われるのは不本意な気もするが、まあ仕方がない。俺はそういう人間なのだ。今更どうなるものでもない。他人の感情がよくわからないとはいえ、三十年近く生きていれば一般的なことは学習する。職場で、表面的に相手に合わせて会話するくらいは可能だ。特に困ることはない。あるいは変だと思われているのかもしれないが、あからさまに口にする人間はいない。相手にも常識というものがあるのだ。

 他人といるのは好まないが、仕事は大事だ。感情が育っていないといっても、何も感じないというわけではない。空腹など身体の苦痛はなるべく味わいたくない。だから収入は必要だ。一人でいたいというのは誰にも頼らないということだから尚のこと。薬剤師なら薬という物相手の仕事で自分に合っているかと思ったのに、実は人相手の仕事だったというのは誤算だったが、とりあえず首になっていないから雇用側からしても大きな問題はないのだろう。

「ごちそうさまでした」

 どこで覚えてきたのか、食事が済むとそんなことを言って、レヴィは食器を流しに運んだ。まだ何か言いたそうにも見えたが、結局何も言わず、いつの間にかソファーの上で眠っていた。


 さみしさを感じない人間と一緒にいても一層さみしいだけではないかと思ったが、一ヶ月以上経ってもレヴィが出ていく様子はなかった。

 食事を与えたのがよくなかったのだろうか。しかし、それ以外では殆ど相手にしていないから、状況は最初の頃とさほど変わらないはずだ。

 寝ているか、ぼーっとしているか、食事をしているかの単調な生活に飽きるふうもなく日々が過ぎていく。こちらももう慣れて、レヴィの姿はソファーやテーブルなど家の中のものと同化しつつあった。

 あまりに話しかけてきてうるさいときに、テレビでも見ていろ、と言ったせいか、最近では録画の操作まで覚え、気に入った番組を録って繰り返し見ている。このところ好きなのは旅行番組のようだった。ペンションの中、暖炉が映っている場面を特に好み、何度も再生しては食い入るように見ていた。

 呆れるほどしつこく見ているので、てっきり以前行ったことでもある場所なのかと思ったが、違うようだった。

「火って綺麗だよね」

 暖炉の中の炎がアップになったとき、呟くようにレヴィが言った。

「僕ね、火が好きなんだ」

 また無視しようと思ったが、これは聞き捨てならなかった。ここに火でもつけられては敵わない。

「何だって?」

 眉をひそめて問うと、レヴィは画面を戻して、ほら、と言った。

「すごく綺麗でしょ。向こうの世界の生き物には、火を自由に操れる種族もいるんだ。何度か見かけたことがある。ちょっとうらやましいよね」

「火の、どこがいいんだ」

「え、どこって、よくわからないけど、見ていて飽きないし。前は人の世界でも、灯りとして火が使われてたでしょ。暗くなると、あちこちで火が灯って、とっても綺麗だったよ」

 灯りとして火が使われていた頃。そんなに昔からこいつは人の世界にいたのか、と少し驚く。見た目や話す調子の幼さに惑わされ、子供とばかり思っていたが、少なくとも俺よりは長く生きているようだ。いったい幾つなのだろう。

「あの頃はね、今より僕のことが見える人が多かったんだよ。でも話はできなかったけどね。皆、怖がって逃げちゃったから」

 おまえは幾つなんだ、と聞こうとしてやめた。時間の概念が共通でなければ、年を訊いてもあまり意味はない。代りに言う。

「テレビで見る分にはいいが、ここで火遊びはするなよ」

「火遊びって?」

「その辺のものに火をつけることだ」

「火をつけたら、皆燃えちゃうよね」

「皆燃えるから、するなって言ってるんだ」

「うん、しない。皆燃えるの、昔見たことあるよ。すごく燃えてて、何にもなくなっちゃった。あんまり大きい火は怖いよね。皆なくなるのは悲しいし」

「ここが燃えたら、俺は住むところがなくなる。いろいろ面倒だから、絶対に燃やすな」

「うん。僕は、灯りくらいの火が一番好きなんだ。本物の火の灯り。それはちょっと見たいな。ここに蝋燭とかないの?」

「ない」

「そっか」

 レヴィはまたテレビに戻る。俺も食器を洗いに流しへ行った。


 皿を洗いながら、ふと思い出した。祖父の家の蔵のことだ。

 幼い頃、親の都合で時折祖父の家に預けられた。従兄弟たちの賑やかさについていけなかった俺は、あるとき家を抜け出して裏庭へ行った。蔵は庭の隅にあった。天気のよい日で、風を通すために入口の扉は開け放たれていた。俺は中へ入り、暫くそこで過ごした。蔵の中はとても静かで、ひんやりとしていた。

 退屈しのぎに、重ねてある小箱の幾つか開けたとき、小さなオイルランプが目にとまった。スタンドタイプのもので、色とりどりのガラスの火屋が薄暗い中にも鮮やかだった。

 実際に火をつけたところを見たいと思い、祖父に話すと、蔵へ入ったのか、と小声で窘められた。中は暗いし、様々なものが積み重ねられ仕舞われているので、危険だから入ってはいけないと言われていたのだ。

 俺は自分の失敗に気づいて謝った。祖父はそれ以上は叱らず、ずっと使っていないから手入れが必要だろうと笑った。手入れが済んだら火をつけてやろうとも約束したが、その後幾らもしないうちに病に倒れたのだ。二年ほど入院し祖父は亡くなった。ランプの約束は果たされないままだった。

 葬儀の後、皆が祖父の家で休んでいるとき、相変わらず賑やかな従兄弟たちを避け、裏庭へ行った。蒸し暑い日で、蔵の中の冷たい空気が恋しくもあった。しかし蔵の扉は閉まっていた。葬式の日に蔵の換気を気にするものがいるはずもないのだ。それでも扉の前まで行った俺は、突然、ぞっとするような寒気に襲われた。

 身体の芯から震え上がるような寒気だった。何か得体の知れないものが近くにいると感じた。暗いところでも大して怖がるような子供ではなかったから、事態の異常さがはっきりわかって殊更身が竦んだ。やっとの思いで蔵から離れると、寒気は不思議なほどさっぱりと消え去った。

 あれは何だったのだろう。もしかして祖父の霊だったのか。あるいは、レヴィのようなさみしがりの魔物でもうろついてたのか。

 どのみち確かめようもないことだ。あれきり蔵には近づいていない。小学生になり、祖父の家に預けられることもなくなった。大人になってからも、つきあいが面倒で盆や正月の挨拶にすら行っていない。

 妙なことを思い出したものだ。レヴィが、本物の火の灯り、などと言ったせいだろう。欲しいものやしたいことを殆ど考えつかない俺にも、ランプの灯りを見たいと望んだ子供時代があったようだ。

 洗い物を終えた後、思い立ってネットでランプを検索してみた。あんな時代錯誤なものはもうないかと思ったが、案外出回っており、手頃な値段で購入できるようだった。

 専用のオイルとともに、ひとつ注文してみる。生活や仕事に必要なもの以外の買い物は、初めてだった。


 注文した品は、すぐに届いた。宅配業者が来たとき、誰も訪ねてこないのが常態のこの部屋のインターホンが鳴ったので、レヴィはひどく驚いた。

「誰か来るの? 服を脱がせたい人?」

 違うといっても、やってきた配達員を目を輝かせて見ている。配達員がすぐに帰ると、幾分がっかりしつつも今度は荷物に興味を示した。

「何? 何が来たの?」

「ランプだ」

「ランプ?」

「本物の火の灯りが見たいって言ったろ」

「え、僕のために?」

「別にそういうわけじゃない」

 実際そういうわけではなかったのだが、レヴィは勘違いをしたらしい。いたく感動した様子で、箱から出てきたランプを見つめた。これではますます出ていかなくなるなと思ったが、まあ今更考えても仕方がない。

「わあ、懐かしい。こういうの、昔よく見たよ。ねえ、早く火をつけてみて」

「オイルを入れなきゃ、火はつかないだろ」

「そうなの? じゃあ、早く入れて」

「触るなよ、オイルがこぼれる」

 はしゃいで急かすのをいなしながら準備をする。芯が十分にオイルを吸い上げた頃を見計らって、火をつけた。

「電気、消してもいい?」

「ああ」

 天井の明かりが消えると、部屋の中にランプの光が浮かんだ。昔、蔵で見たのとは違う透明な火屋の中で、橙色の炎が揺らめいている。

「綺麗だね」

「ああ」

 なるほど、火をつけるとこうなるのかと思った。揺れる炎だけでなく、ランプ自体が、明るく光を放つ生き物のように見える。色とりどりの火屋もさぞ美しかったろうが、狭いこの部屋には透明ガラスの静けさの方が相応しい気がした。

「やっぱり、本物の火の灯りが一番いいね。電気の明かりになって長いけど、実は今でもあんまり慣れてないんだ。真っ暗も嫌いだけど、明るすぎるのも苦手だから、こういうのほっとする」

 レヴィが小声で言う。それで一人のとき常夜灯だけにしていたのか、と思い当たった。レヴィはそれから黙り込み、いつまでもランプを見ていた。俺が眠った後も、ずっと見ていたようだった。


 甘やかしすぎかとは思ったが、苦手と知りつつ放っておくのも気が引けた。仕事から戻った後、薄暗い中で家事をするのは不便だ。だからせめてレヴィが一人の間だけ、ランプの灯りを使わせることにした。

 多少不安はあったが、火のつけ方を教えてみると、練習するまでもなくレヴィは覚えた。その手際からして、火事を起こすようなことはまずないだろうと思えた。ここが燃えれば、こいつだって行くところがなくなるだろう。気をつけるはずだ。と、魔物を信頼するのが正しいのかどうかはよくわからなかったが、実際何事もなく留守中の時間も過ぎていった。

 家に戻ると、揺らめく仄かな灯りの中でレヴィが眠っている。気配で目覚めて、まだ眠そうな目をこすりながら、おかえりなさいと言う。夕食を作って食べ、時々は眠る前にも少しランプの灯りのもとで過ごした。

 平和な日々だった。レヴィの寝顔と同様に。

 それで特にどうだということもないのだが、惰性のごとく馴染んだ毎日を変えようという気もなかった。俺がレヴィを追い出そうとさえしなければ、何も変わらないだろうと思っていた。だが、違ったのだ。


 ある日、俺は突然、職場で倒れた。

 身体は基本的に丈夫な方だった。風邪も滅多にひかない。年齢的なこともあろうが、健康診断でもいずれの値も正常範囲内だった。当然、具合が悪くて倒れた経験などない。

 だから自分でも驚いた。直前まで、別に体調の悪さは感じていなかった。流行性の何かが移ったのだろうかと考えた。季節柄、薬局を訪れる患者の大半が風邪やインフルエンザ、ウイルス性胃腸炎など患っているのだ。どれかに感染していてもおかしくはない。

 自身の何かが患者に移ってはまずい。熱を測ってみたが、平熱だった。咳が出るわけでもなく、吐き気がするわけでもない。ただ、目が回るような感じがして立っていられないのだ。

 貧血かとも思ったが、健康診断は二ヶ月前に行われたばかりだ。そのときは正常値だった。僅かな間で急激に悪くなるようであれば、よほどの大病だろう。医者へ行く方がよいかとも思ったが、結局休憩室で十分ほど休んだらすっかりよくなった。

 そのまま仕事を続け、家に帰るころには倒れたことも忘れていた。そのときはそれで済んだ。が、その後同じことが、何日か間を置いて三回あった。ずっとトイレや更衣室で倒れていたので周りに気づかれなかったのだが、四回めは休憩室だったため、見咎められて心配された。早退するよう促され、明日も不調なようなら受診するようにとも言われた。

 いつもどおり少し休んだら元に戻ったのだが、自分でもさすがにおかしいと思ったので、逆らわず家に戻った。冬の日暮れは早い。部屋の中は既に薄暗く、レヴィはランプに灯りを点そうとしているところだった。

「どうしたの? いつもより早いみたい」

 決まった時間より早く帰ったことは一度もなかったので、レヴィはぽかんとした様子で俺を迎えた。

「ああ、ちょっとな」

 職場で休んで具合はよくなったはずなのに、再び眩暈が襲ってきた。コートも脱がないままソファーに座り込むと、レヴィの目に驚きと不安の色が浮かんだ。

「具合が悪いの? 大丈夫?」

「大丈夫だ、ちょっと疲れただけだ」

「顔色が悪いよ」

 そういうレヴィの顔も、なぜか真っ青だ。大袈裟だな、と思う。しかしまあ、明日は本当に病院へ行った方がいいのかもしれない。

「大したことない。心配するな」

「でも」

「疲れじゃなきゃ風邪だろう。職場に風邪をひいた人間がたくさん来るからな。移ったのかもしれない」

 風邪だとは思えなかったが、レヴィがあまりに不安そうなので態と言った。

「おまえ、移りたくなかったら向こうへ行ってろ」

「僕は風邪はひかないよ」

「そうか」

「ここで休む? お布団、持ってこようか」

「いや、このままでいい。灯り、つけろよ」

「うん。……ごめんね」

「何で謝るんだ」

「ううん、何でもない」

 火を点そうとするレヴィの手は、どういうわけか震えていた。うまくつけられず、結局俺がつけた。少し座っている間に、また回復したようだ。全くどうなっているのかと思うが、よくなる分には文句はない。

 着替えて、いつもどおり夕食を作る。レヴィはずっと不安そうに黙り込んでいた。食事時はいつも、うんざりするほど喋り続けるのに、だ。

 仕方なく、なぜか俺がいつもより話す羽目になった。


 眠りにつくまで具合が悪くなることもなく、これならば受診はしなくてもいいかと高を括ったが、夜中にまた眩暈を起こした。

 トイレに行った帰りだった。幸い倒れるまではいかなかったが、すぐには動けない。壁に身体を預けて休んでいると、後ろで気配がした。大丈夫、と問うてくる。レヴィだった。

「起こしたか。大丈夫だ。寝ていて急に起きたから、ちょっとふらついただけだ」

「僕のせいだよ」

「何が」

「僕のせいなんだ」

 声が微かに震えている。廊下の明かりを映し、瞳が潤んで見えた。

「何だよ、どうしたんだ」

「僕ね、あんまり長く人と一緒にいると、悪い影響を与えちゃうみたいなんだ。僕がひとつのところにずっといると、僕のことが見えない人たちばかりでも、いつも誰かが具合が悪くなってた」

「それは、偶然が重なっただけじゃないのか。人っていうのは、しょっちゅう具合が悪くなるものだ」

「違うの。僕にはわかる。僕、長くここに居すぎたんだ。楽しかったから。だけどこのままだと、あなたは死んでしまうかもしれない。だから、行かなくちゃ」

「急に何を言ってるんだ。俺は別に──」

「ごめんね。僕がいなくなれば、すぐに元気になるから」

「おい、待てよ」

 ふ、とレヴィの姿が消えた。俺は呆然と立ち尽くした。

 それきりレヴィは戻らなかった。気づけばランプもなくなっていた。持っていったのだろう。二度と戻ってくることはないのだと思った。あまりにも呆気ない別れだった。


 それから二ヶ月が過ぎた。言われたとおり、レヴィがいなくなってから俺の体調が崩れることはなくなった。やはりあいつの影響だったのか、ただの偶然か。今となってはもうどうでもいいことだ。

 レヴィが消えた後、俺は少し泣いた。なぜだかわからないけど涙が出たのだ。

 しかしそれから俺の何かが変わったかといえば、別にそんなことはない。特にさみしがってもいないし、代りに誰かと親しくなって服を脱がせようとするようなこともない。勿論、レヴィを待っているわけでもない。何も変わらない。これまでどおりの生活が続くだけだ。たぶん、それでいいのだろう。

 ただ、時々思い出す。揺れる灯りの中で眠るレヴィの姿を。目覚めて俺を見る黒目がちの目を。そして、たとえじきに死んでも一緒にいる時間の方が大事だと、あの一瞬に考えたことを。

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揺れる灯りの中で 深里 @misato

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