040_0400 堤十路の受難な一日Ⅴ~ふいに眩暈に襲われもする暗闇~


 ナージャをオートバイの後ろに乗せて、十路とおじはとあるファミリーレストランにやって来た。


「なんだかわたし、ご飯食べさせておけば機嫌直すだろって思われてません?」

「被害妄想だ……」


 ボックス席に陣取り、ウェイトレスが運んだお冷をコップを両手で持って、不満そうに軽く睨むナージャに、十路はため息をつく。

 彼女と連れ立って外食を考えたのは、詫びのためだ。失礼なことをした自覚は、いくら十路でもあるので、少しは謝罪を目に見える形してしないとならないと考えて、こうなった。事が事だけに、おごり程度で許されるとは思っていないが、それはそれ。『文句言うなら割り勘』などいう言葉は出さずに、非難めいた言葉を受け止める。


「……十路くんと二人きりなんて、珍しいですね」

「そういえば、そうだな」


 オーダーした料理を待つ間、店内に流れる大きすぎない程度のBGMと、他のテーブルの会話が聞こえる状況に、静かな雰囲気だと思いながら十路は同意する。

 彼女が言う通り、ナージャと二人きりという場面は珍しい。教室ではクラスメイトで共通の友人である和真かずまが一緒のため、二人がド突き漫才しているのを、十路は横で見ている図ができている。彼女が総合生活支援部の部室に遊びに来た時でも、誰かしら他の部員がいる。五月に修交館学院に転入して以来の付き合いのため、さして長いとは言えないが、彼女と二人きりになったのは、記憶にある限り初めてだった。


「そうして考えると、ナージャのことも、なにも知らないんだよな」


 改めて、といった言い方で、十路は胸元のペンをいじりながら口に出す。

 彼女のことを知らないのは、自分が干渉されたくないため、あまり周囲に干渉しない、十路の性格によるところが大きい。人付き合いがわずらわしいのも否定しないが、それ以上に『普通』の人々に十路の経歴は話せないことが多いため、話してボロが出る状況を避けている理由が大きい。

 だからナージャのことは訊きもしない。学生生活の中で見てわかる以上のことを知りもしない。それで困ったことはないため、改めて訊く必要もなかった。

 仮に訊いたら、彼女はどう答えるだろうかと、十路は疑問を持った。


「あらら~? わたしのこと、知りたいですか~? 興味津々しんしんですか~?」


 問うとナージャは、ニンマリとしたネコ科の笑みを浮かべる。いつもの彼女の態度だが。


「じゃあ、ロシアでどんな生活してたんだ? どこで生まれたとか、親の話とか、聞いたことないな」

「…………」


 重ねて問うと、ナージャは表情を空白にして口を閉ざした。話したくないことを訊かれた反応だった。

 大体、そこに疑問点がある。十路は質問を変えて追求を続ける。


「ナージャって、ひとり暮らしだったよな」

「えぇ、まぁ……」

「なんで日本に、それも神戸に留学してきたんだ?」

「そこはまぁ……《魔法》関係の技術になれば、やっぱり世界でも神戸がトップレベルですし」

「そういう進路に進むつもりなのか?」

「今のところ進路相談書には、修交館ウチの大学への繰り上がりで出してるだけで、日本に残るかロシアに帰るとか、具体的な進路は考えてませんけどね」


 受験を控えた高校三年生であれば、なんら不思議ない。学生の甘えを残しながらも、社会人への将来を見据えなければならず、その岐路に差し掛かっている。 

 ただ、他のことを考えると、変な話に思える。

 修交館学院には留学生が多い。ナージャの言う通り、《魔法》に関わる超最先端技術に関しては、研究都市・神戸がトップクラスであるため、関係する研究機関や企業の都合で、世界中から様々な人々が家族と一緒にやって来ることが多いためだ。

 もちろん将来を見据えて単独で留学という学生もいなくはないが、普通に考えれば大学生になってからだ。高等専門教育機関であればまだしも、修交館学院の高等部には、《魔法》関連技術に特化した教育課程は存在していない。

 家族の転勤と共に来日しての留学ならわかる。しかし高校生が単独で留学する理由には弱い気がする。


(……変だな)


 そして十路の感覚――陸上自衛隊特殊隊員として、社会の暗部を見てきた経験からは、別の意味でも奇妙だった。

 疑わしいという意味ならまだしも、逆の意味でも奇妙であるため、どう判断していいのかわからない。


「あぁ、そうだ。ナージャ」


 だから十路は、思い切って提案した。


「スカートまくって中身見せろ」

「ぶっ!?」


 唐突な言葉に、ナージャが口に含んでいたお冷を噴き出した。大半はコップに帰還したが、いくつか十路の顔に飛沫しぶきが飛んできた。和真あたりなら彼女の口から放たれた飛沫に喜ぶかもしれないが、そんな特殊性癖などない十路は、迷惑そうにやや顔をしかめた。


「なに堂々とこんな場所でパンツ見せろなんて――」


 ナージャは言い返そうとしたが、十路の顔を見て、言葉を途切れさせる。

 そもそも十路の平坦な口調では、冗談が冗談に聞こえないが、今はそういうものではない。彼は本気で言ってるのが、顔を見ればわかったからだろう。


「なんでレッグホルスターを装着してる?」


 十路は、怠惰たいだに細めている普段の『悪い目つき』ではなく、怜悧れいりな野性の光を宿した『鋭い目つき』に変えている。

 クラスメイトに向けるものではない。敵に向ける目だった。

 スカートをずり下ろした時に一瞬見た、彼女の左脚に装着されていた物は、銃器を収めるためのホルスターに思えたから。


「素直に応じれば、ちょっと事情を聞くだけで済ませるけど、ホルスターに入れてる物を出さなければ――」

「ちょ、ちょっと待ってください!? なにか勘違いしてませんか!?」


 場を考えた抑えたものだが、剥き出しの敵意をぶつけられ、ナージャは慌ててスカートを探る。

 渋ることもなく、言い訳もせず、あかしを隠そうともしない。スカートのポケットに穴を空けているらしく、そこから太ももにくくりつけていた物を取り出し、テーブルに置いた。


「携帯電話……か?」


 それを見た十路の感想が疑問符付きなのは、最近の主流とはかけ離れた形状をしているからだった。

 携帯可能な無線機や、基地局のない僻地へきちで使う衛星通信電話のような大きさだが、そう呼ぶには全体的に細長い。なにかを表示するためだけには、液晶が大きすぎる。スマートフォンを同じタッチパネルと見た方が正しいが、同じと見るには大きさが中途半端だ。PHSをもっと長くして、ダイヤル部分まで液晶画面にすれば、近いだろうか。かなり年季を経ているのか、硬質プラスティックの黒い外装は、ところどころ摺れて白くなり、細かな傷も目立つ。

 そしてボディの裏側隅に、小さくロシア文字で『п-6』と打刻されていた。


 十路がそれを手にしても、ナージャはなにも言わない。なにか危惧するように、ほんの少し表情を動かしたが、止められはしなかった。

 電源ボタンらしきものを押すと、液晶に明かりが点るが、表示された画面に十路は顔をしかめる。

 アイコンが表示されて、感覚的に操作できる仕様ではない。システム画面を思わせるツリーバンク構造になっている。そして表示されているのは全てロシア文字がだった。十路は読めないので、うかつに触るのはやめて、電源ボタンをもう一度押してテーブルに置いた。

 ただの携帯電話と判断するには奇妙な代物だが、どう見ても銃火器ではない。


「皆さんの立場を考えれば、警戒するのはわかりますけど……銃なんて持ってるわけないじゃないですか……」

「ま、そうだよな。悪い」


 ため息混じりにナージャが携帯電話らしき物をポケットに収めるのを、十路は大して悪いとも思っていない返事をして。

 更に指摘した。


「でも普段電話を使う時、それじゃなくてピンクの二つ折りを使ってるよな」

「ぎくぅ!?」


 彼女が携帯電話を使ってるのを見たことがあるし、借りたこともあるので間違いない。最近は学生の多くもスマートフォンを使っている中、彼女は日本製の、いわゆるガラパゴス携帯を使っている。

 しかも彼女は、太腿に入れていた電子機器を『携帯電話だ』とは肯定していない。同時に正体も説明していない。

 だから遠まわしに追求すると、ナージャは面白いくらいに顔色を変えて、紫色の瞳を虚空に泳がせる。


「えーと……これはお仕事用?」

「なんの仕事だ」

「えーと……つ、通信空手?」

「受講する側じゃないのか?」

「えーと……」

「大体なんでレッグホルスターなんて付けてる?」

「かっこいい、から……?」


 当然の疑問だが、確信には触れない。外堀から徐々に埋めるようにして、意地悪く追及していくと、ナージャは言葉を詰まらせる。


「ていっ」


 そしていつ取り出したのか、指で飴玉を弾き飛ばしてきた。

 大阪在住の年配女性のように、彼女はいつも飴を持っていて、よくくれる。そして時折こうして指弾で飛ばして口に放り込むので、油断ができない。

 しかし今は油断していない。十路はなんでもないように空中で飴玉を掴み取る。


「…………」

「えーと……」


 苦しまぎれとしか思えない閉口行為を難なく防がれ、嫌な湿気がボックス席を支配する。


 そこでウェイトレスが、ひれかつ和膳とミックスグリルセットを持ってきた。見た目からして外国人のナージャの前に、焼けた鉄板で音を立てる洋食ミックスグリルが置かれようととしたが、十路が手を差し出して受け取った。このロシア人はただ和食というカテゴリーだけでなく、外国人が嫌がる味噌も納豆もなんでも平気で箸を使って食べる。


「いただきま~すっ」

「いま飯が来て話が途切れて助かったとか思ってないか?」


 おしぼりで手を拭きながら十路が言うと、ナージャが割り箸を手にしたままビクリと動きを止めた。


「や、やですね~? 思ってないですヨ?」

「まぁいいけど……それなら望み通り、話を変えてやろう」


 顔を引きつらせる彼女の方は見もしない。謎の電子機器への追求はやめて、十路は割り箸を割りながら別の話題を切り出す。他の客に聞かせられる話ではないため、声を落としながら、具体的な単語は出さないように気をつけて。


「公表されていないが、先月に起こった総合生活支援部おれたち戦闘ぶかつどうで、ある《魔法使い》が介入してきた」


 神戸魔法テロ事件――世間的には、そこに関わったとされている《魔法使いソーサラー》》は、十路・樹里・コゼット・南十星の四名と、犯人と目される人物、計五人だ。

 しかし実際は、もう一人存在した。


「《魔法》を使っても不可能なはずのことを、どういう理屈かそいつは平然とやった。攻撃もしたが、かすり傷ひとつ付けることもできなかったらしい」


 全身が真っ黒で、彼らが便宜上『幽霊』と呼んでいる謎の存在は、あらゆる面で異質だった。

 二本の足で音速を突破して移動し、戦略攻撃規模の高出力魔法の直撃を受けても無傷と思われる、無敵の防御能力を発揮した。更に《魔法使いソーサラー》が持つ《マナ》を通じ、範囲内の全てを感知するはずのセンサー能力でも、一切看破できなかった謎の隠匿いんとく能力まで持っている。

 常人の不可能を可能にするのが《魔法》だが、『幽霊』が使ったのは《魔法使いソーサラー》でも到底不可能なはずの能力だった。

 十路も初めて目の当たりにした時、混乱して驚いたが、時間がたった今では冷静な口調で語れる。


「そこで唐突だが、話は変わる。《魔法使いおれたち》の業界には、ある噂話がある」


 《魔法使いソーサラー》の業界とは言っても、正確には軍事関係者の間であって、他の部員たちは知らないだろうという話だった。


「最凶――最も強いじゃなくて、不吉の方のな? そういう《魔法使い》の話だ」


 ロシア人だろうと、不勉強な日本人よりも日本語が堪能で、漢字の読み書きもできるナージャだ。より細かく説明しても、日常生活で使わない言葉と使っても大丈夫だろう。


「《魔法使い》の噂なんて玉石混合で、なにが本当かわからない。『そんな事できるはずないだろう』ってことでも、意外と真実だったりするし、逆もまただ」

「《騎士》サマの経験ですか……?」

「……今は関係ないから、その名前で呼ぶな」


 それはナージャの言う通り、十路自身の経験でもある。

 かつて彼は《魔法》を使わない絶対的不利な状況で、史上最強の軍事兵器|魔法使い《ソーサラー》と正面切って戦闘を行い、勝利し、《騎士ナイト》という称号をつけられている。剣一本で敵を倒していさおを立てた、物語に出てくる騎士のようだと。

 そんなある種の『偉業』を打ち立ててしまうと、様々な憶測が飛び交った上に、裏社会では有名になってしまう。そして非公式の存在である特殊隊員や諜報活動員には、活動のさまたげになるだけの不要なものだ。

 だから十路は《騎士ナイト》という呼ばれ方を嫌っている一因になっている。


「で、まぁ、そもそも情報局秘密情報部SISやキルロイみたいに、この業界の話は、空想と現実がゴッチャになって伝わることも珍しくないんだが……コイツの噂話は、ちょっと性質が違う」


 気を取り直して十路が言う。

 イギリス情報局秘密情報部――通称MI6は、とある映画シリーズの主人公が所属する諜報機関として有名だ。毎作銃撃戦が当然のように展開され、SFじみたハイテク兵器が出てくるため、現実とかけ離れた組織として想像されがちである。

 キルロイとは、第二次世界大戦時にアメリカ軍兵士が描いた『Kilroy was here(キルロイ参上)』という、ただの落書きだ。しかしどんなに困難な施設を征圧しても、もっと前にたどりついた人物が残したかのように、その落書きは存在している。そのため、あのアドルフ・ヒトラーも、どんな場所にも潜入する超人スパイ・キルロイの実在を信じたという逸話もある。

 事実は小説よりも奇なりとも言う。火のない所に煙は立たずとも言う。だから注意深く分析しても、噂は真実かどうか、どこまでが真実か、わからない事が多い。

 だが、都市伝説や噂話には、具体性がないのが特徴だ。『友達の友達から聞いた』などと始まる信憑性の怪しい話にも関わらず、広く信じられていることもある。


「そいつの暗号名コードネームはロシア語で『ビスパリレズニィ』、所属しているのはロシア対外情報局――スパイ組織だってのは、なぜかハッキリしてる」

「…………」


 区切りまで話し終えて、十路が反応を窺うが、彼女はなんの反応もない。

 正確には反応がないのではなく、硬直していた。

 どう反応するかと様子を見守りながら、食事をしていると、ナージャは錆びた動きで首を動かし、強張らせた顔のまま口を開く。


「…………もしかして十路くん? わたしがその人だとか、考えてます?」

「あぁ」

「その人、実在するんですか……?」

「俺が通ってた前の学校で、実在が証明された様子はなかったが、こうなりゃ実在するだろうな」


 前の学校――陸上自衛隊特殊作戦要員育成機関・富士育成校に所属していた時分には、噂はあくまで噂でしかないとされていたが、十路は推測を間違いないものとして断言する。


ロシア対外情報局SVR所属非合法諜報員イリーガル『ビスパニレズニィ』……それが先月介入してきた『幽霊ヤツ』、そしてお前の正体だ」


 それにナージャは、乾いた笑みで反論する。


「ヤですね~……? わたしがロシア生まれだからって、そんな短絡的に考えないでくださいよ~?」

「お前の言動は怪しすぎる」


 ナージャの言い訳じみた反論など聞く耳を持たず、十路は根拠を指摘していく。食事をしながらだから、尋問のような雰囲気はないが。


「《魔法使い》なんてワケわからん連中とは、普通の人間は距離を取る。人間兵器がゴロゴロしてる支援部ウチの部室に入り浸るのは、俺たちの情報を集めるために近づいたって考えるのが自然だな」


 ただ親しいだけならば、部員それぞれに人間関係を築いているが、大学生から中学生までいる無秩序な部室まで押しかけるとなると、そういない。依頼のために部室まで足を運ぶ者はいるが、用事もなく遊びに来るのは、たった二名しか存在しない。


「百歩ゆずって、好奇心が強いってことで片付けたとしても、ナージャは何度か部活にも首を突っ込んだことがある。普段の便利なボランティア部のじゃない。本物の軍隊と事を構えた時にだ」


 武装した戦闘ヘリや、カノン砲を搭載した装甲車と交戦した時にも、ナージャは参加していた。映画の撮影などではなく、殺意をむき出しにして実弾を発射する本物と、彼女は一時なりとも相対した。そんな兵器が出てくることは想定外だったが、命のやり取りになる想定はしていたのに、彼女は毅然とした態度で参加した。


「それも一万歩ほど譲って、参加するだけの理由があったとしよう。だけどお前の運動能力の高さは異常だ。戦闘訓練を受けた人間って考えた方が自然だな。もちろん通信空手初段とか、そんなレベルじゃない」


 今日の昼間、武道館で彼女は、多数の剣道部員を片付けただけでなく、刃のない模造刀で竹刀を斬ってみせた。同じことをしようと思っても、戦闘能力しか取り得がないと思っている十路にも自信がない。


「となると、さっき見せた、お前の足にくくりつけてた物は、専用システムと繋がった携帯型端末という発想もできるわけだ。隠匿いんとく性を考えるならこのご時勢、スマートフォンと同じ形に作る気はするが、年代モノみたいだからそこまでの事情は知らん」


 通信システムや情報の秘匿性を考えなければならないが、スマートフォン自体が最新技術の粋を集めた産物だ。システム的な問題なので、スパイ映画の小道具ほど荒唐無稽こうとうむけいな代物でないのだから、相応の技術力があれば、そのような専用端末の開発は充分に可能だろう。

 一般的に軍事技術が最先端だと思われがちだが、一概には言えない。信頼性を重視する場合、型落ちと呼んでいい、数十年前から変化していない古いシステムを使っていることもある。

 そしてナージャの持つ物は、その双方が合わさった、見た目は年代物だが、中身は最新技術の詰まった情報端末だと想像する。


「以上のことから、俺はお前を、ロシア連合共和国に所属する《魔法使いソーサラー》だと判断する」

「…………………………………………」


 論証完了Q.E.D.。ナージャは絶句した上に、硬直までしている。

 彼女をそんな態度にさせた十路は、一瞥いちべつすらせずに食事を続ける。


 国家に管理されていないワケありの《魔法使いソーサラー》たちが集まる総合生活支援部は、想定される敵が多い。その力を利用しようと画策するテロ組織や、未管理状態に危機感を抱く国家機関が接触を図り、場合によっては破壊しようと想定できるし、実際に幾度かそういった組織と交戦したことがある。

 だが十路の態度は、国家に所属する――敵対するかもしれない組織の《魔法使いソーサラー》と相対している雰囲気ではない。


(さて、どう反応するか――)


 断言はしたが物的証拠はないのだ。少なくともまだ手に入れてはいない。だから十路は反応をうかがいつつ、食事を食べ終えた。

 不意に店内の照明が消え、暗くなった。BGMを流していたスピーカーも沈黙し、代わり客のざわめきが大きくなる。


 十路はすぐさま反応し、テーブルの下に潜り込む。暗闇に乗じて襲撃するなど、特殊部隊の常套じょうとう手段であるため、こんな事態、訓練で何度も経験している。

 機関銃で腰だめの掃射されても、当たらない高さまで姿勢を低くする。ただし地震時の備えのように完全には潜り込まない。床にテーブルが固定されていなければ話は別だが、榴弾りゅうだんを投げ込まれることも想定したため、異常があればすぐさま飛び退けられるよう、ある程度は自由を確保している。


 だが、警戒したようなことは、なにも起きない。一分もしないうちに照明が再び灯り、店員たちの謝罪の言葉と、客の安堵が漏れる。


(ブレーカーが落ちただけか……)


 ただの停電だとわかったが、すぐには動かない。ほっとして気を抜いた瞬間が一番危ないと経験している十路は、テーブルの下からはすぐに動かなかった。

 そして遅れて気づいた。テーブル中央の足を挟んだ反対側に、ナージャも潜り込んでいた。十路のような警戒した態勢ではなく、雷におびえる子供のように、体を丸めて頭を抱え込んでいる。


「ナージャ?」


 怪訝けげんに思って声をかけても反応がない。

 テーブルの下に潜ったまま彼女に近づいて、震わせている肩に触れると、彼女はやっと反応して顔を上げた。


「おい、ナージャ……?」


 停電で悲鳴を上げるとすれば、驚きの割合が大きい。


「いや……! いやぁ……!」


 だが長い髪を振り乱し、焦点のぼやけた瞳を見開いて、体を縮ませているナージャは、度を越した恐怖の反応を示していた。

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