030_0600 やる気ない彼とキスがしたいⅤ~Kiss me quick~


 総合生活支援部の関係者は、同じマンションに生活しながら、部室以外では行動を共にすることは多くない。意識してずらしているわけではないが、大学生と高校生、社会人と年齢によって活動時間が異なるため、一緒になりにくい。

 その日の朝、制服姿の和真かずま十路とおじがマンションのエントランスに一緒に下りてきたのは、珍しい光景と言える。


「十路、起きるの早すぎ……」


 固い寝床で寝た和真は、まだ眠気が去っていない様子で、あくびをかみ殺している。心なしウルフヘアもしんなりしているようにも見える。

 

「六時起きで早いとか言われても」


 対する十路は、相変わらずの無造作な短髪と気の抜けた無表情のせいで、一見彼も眠そうに思えなくもないが、意識は覚醒している。

 朝五時起きでトレーニングを始める南十星なとせと同居しているせいではなく、自衛隊駐屯地の寮で生活していた十路は、六時には起床する生活が身についている。

 そして起こしたわけではないが、同じ部屋で物音を立てられれば、嫌でも和真も目が覚めるだろう。


「しかも寝る前は勉強なんかしてるし……」

「和真? 自分が受験生だって理解してるか?」


 そして夜も決して早くはなかった。

 十路の成績は、学年順位からすると半分付近のところにいる。物理現象を科学知識で操る《魔法使いソーサラー》の常として理数系科目は得意だが、文系科目はあまりよくないため、総合的には目を見張るほどの順位にならない。

 しかも高校三年生。すぐに大学受験の準備をしないとならないため、教科書を開く程度であっても勉強している。


 朝は早起きしてトレーニング、夜は自主的に勉強。言葉だけ並べれば、優良学生の見本のような生活にも思えるが、実情はそうではない。

 十路の場合、前の学校――陸上自衛隊育成機関でやっていたことと、今の学校でやっていることは違いすぎるため、不足分を補っているだけだ。

 軍事史には詳しくても、一般的な歴史にはうとい。銃火器は一瞥いちべつで種類がわかるが、国語のラ行変格活用や下一段活用は理解すらしていない。英語は日常レベルなら話せる。ただし受験英語とは違う上、やたらと『ファック!』『シット!』を連発する実戦的な――実践ではない――スラング英語で覚えてるので、改めて勉強する必要がある。

 そして常に訓練で体をいじめるような生活だったため、体育程度では運動量が足りない。だから最低限体力がおとろえない程度には、毎朝トレーニングを行っている。

 《魔法使いソーサラー》の役割と学生を両立させないとならない、十路の今の生活はなにかと大変なのだが、和真はそうは捉えていなかった。


「あのな、十路? 勉強なんかせずに、意味もないネット巡回とかメールとかゲームで夜更かしして、目覚ましが鳴ってもベッドの中でグズグズして、時計見たら八時で慌てて起きて準備して、全力疾走で遅刻ギリギリに教室に滑り込むのが、普通の高校生なんだ」

「いくら俺が普通の学生生活にうとくても、和真が言う高校生はごく一部の連中だって知ってる」

「あと走る時に食パンくわえるの必須。曲がり角で転校生の美少女とぶつかって、教室で再会するんだ。ぶつかって転んだ時にはM字開脚でパンツ見せるのもお忘れなく」

「そんなファンタジーは現実に存在しない」

「《魔法使い》だろ! ファンタジーな存在だろ! なんとかしろよ!」

「二一世紀の《魔法使い》はそういう存在じゃない……というかファンタジーの魔法使いでも、そんなことに魔法は使わないだろ」

「できないのか! せめてパンモロだけでも!」


 無意味に熱い和真の言葉に、十路は首筋をかきながら、脳内に圧縮保存された術式プログラムを思い出して答える。


「まぁ、できなくはないけど……」

「おぉ!」

「同時に周囲一〇メートルくらいが吹き飛ぶ」

「パンツのために何をやる気だ!?」

「だから、やらないって話をしてるんだろうが……」


 そんな建設性の欠片もない、男同士ならではの幼稚な会話をしていると、エレベーターが上階から降りてきた。


「あ、おはようございます」

「およ? はよん」


 エレベーターから、それぞれの制服に着替えた樹里と南十星が出てきた。合流を約束したわけではないので、十路たちがいることに小さく驚いた様子だった。


「悪いな、木次きすきなとせアイツの世話押し付けて」

「や、それは別に……」


 一階には住居となるスペースがない。ホテルばりの高級マンションでもなく、フロントカウンターなどない。

 観葉植物が置かれているだけのエントランスは、普段通り過ぎるだけ。ここで会うのも少々意外なのに、顔を合わせた早々謝る十路に、樹里はやや面食らっていた。


「アイツ、迷惑かけてなっかたか?」

「やっぱり心配です?」

「身内とすれば、な。家事については普段なにもしないし。そのくせ大食らいだし。あと小学生並の生活サイクルだから、朝からドタバタしてたんじゃないのか?」


 髪を横で束ねたお下げを揺らし、和真と馴れ馴れしげにじゃれあう南十星に、十路はやや複雑そうな視線を送る。


「ふぇ? そうなんですか?」

「え?」


 しかし樹里の意外そうな返事に、十路は慌てて振り返った。


「なとせ、今日は朝練サボったのか?」

「や、そっちじゃなくて。なっちゃん、普通に朝ごはんの用意、手伝ってくれましたけど?」

「……炭化した産業廃棄物を作成した?」

「ややややや、ごく普通においしいオムレツを」


 十路はこめかみに手をやる。昨夜、和真と話したこと――南十星がわざと十路に世話を焼かせているという話が、現実味を帯びてきたため、軽い頭痛を感じた。

 樹里も彼の様子から、話がかみ合わない――というより、認識の違いを理解したのだろう。眉根を不思議そうに寄せる。


「あの、なっちゃんって、料理しないんですか?」

「あぁ……」

「卵は片手で割ってましたし、かなり手馴れた様子でしたから、てっきり毎日やってると思ったんですけど……」


 昨夜は南十星の歓迎会だった。料理はデリバリーのピザと、手慣れた樹里とナージャの合作料理だった。

 だから主賓が料理を手伝わずとも、不自然ではなかった。

 そして十路は南十星が手伝えなどと言うはずもない。彼女は料理ができないと思っていたのだから。

 確信する以外なかった。


(本気でワザと俺に世話を焼かせてる?)


 とはいえわかったのは、実は料理ができるというだけのこと。その真相についてまでは不明だった。


「なとせ」


 だから十路は、彼女を小さく手招きした。


「樹里ちゃーん。ナージャたちも来んの?」

「あ、はい――」


 タイミングよく和真も樹里を呼んだので、話し相手が交代することになる。


「で、兄貴。どったの?」


 近づいた南十星は顔を見上げる。十路もさほど大柄ではないが、彼の肩にようやく届く小柄な体格では、身長差で見上げることになる。

 いつもの締まりないヘラヘラした彼女の顔に、十路はどう切り出したものか、首筋に手をやり少し迷ったが。


「……お前は、なにをしたいんだ?」


 それでも切り出した。

 聞く必要のない事だと、十路も頭の隅では理解していた。少し迷ったのがその証明だろう。


「なにって、なにが?」

「今朝木次たちと一緒に飯作ったんだろ? 料理できるのに、なんでいつも俺に作らせてたんだ?」

「あー。そゆことね」


 けれども彼は間違えた。問うてしまった。重ねて訊いてしまった。


「にはは。兄貴に隠すつもりはなかったけど、あたしも少しは料理できまっせ?」

「ゆうべ俺が料理できるのかって聞いたら、明らかに笑ってごまかしたよな?」

「…………」


 そして彼女も間違えた。昨夜の会話を思い出さなかった。今こそ笑って誤魔化すべきだった。


「……昨日の夜、和真に言われたんだよ。俺たち、仲が良すぎるって」

「そうかもね……中学生と高校生になってまで、ここまでベタつかないだろうし」


 二人とも間違えた。言葉を出すたび顔から表情が抜けていくのがその証拠。

 彼女にとってはいずれ開くとわかっていた。

 彼にとっては存在そのものを理解しないままに。

 触れてはならないパンドラの箱を開いてしまった。


「まだ兄妹を続けなければ、俺たちは兄妹じゃいられないのか?」


 他人が聞けば奇妙に思うだろう言葉は、十路も自覚するほど固い声になった。


「……半分は、その心配をしてる」


 それに南十星は、顔をほろこばせた。幼さの目立つ彼女に似つかわしくない、大人の匂いがする薄い微笑だった。


「だけど残り半分は、兄貴が考えてるのとは逆だよ」

「逆?」

「こっちに帰って来てから、あたしも色々考えたんだよ……ずっと離れて暮らしてた兄貴と、どんな距離感で接すればいいのかって」


 それは十路も抱いていた悩みだった。密に連絡を取り合い、時々は顔を合わせていたが、長年離れて暮らしている。一番身近な家族という関係であり、しかし共に過ごした時間は友人程度という、奇妙な距離間を持て余している。

 だから彼女がで話しているとは、考えなかった。


「それからね、兄貴がみんなのコトどう見てるのか観察した」


 急に話が飛んだ。十路はそう思った。


「昨日の夜は、みんなが兄貴のコトどう思ってるのか、聞いてみた」


 また急に話が飛んだ。繋がっているとは考えなかった。

 話しながら南十星が一歩近づく。元から近くで話していたのに、更に距離を詰めると、ほとんど密着することになる。


「ね、兄貴……」


 更にネクタイを掴んで、十路の顔を下げさせる。

 離れなければならない。とっさに彼は思ったが遅かった。自身も爪先立ちで背伸びした南十星の腕が、低くなった首に回された。

 まだ幼さ残す、整った中性的な顔が接近し、間近で問う。


「好きなコ、いるの?」

「…………」


 なにか返さなければ、と十路は思った。

 しかし声帯にブレーキがかかる。『いる』とは言えない。嘘を使った言い逃れだと確実に彼女は理解する。『いない』とも言えない。それを口にすると直後に起こる事を肯定しまう気がしたから。

 なによりも異様な緊張で口の中が渇き、舌が貼りついて、言葉が出てこなかった。


「好きなコがいないんなら、あたしがこうしてもいいよね?」


 朝トレーニングしてシャワーを浴びたのだろう、ほのかな石鹸とシャンプーの匂いを漂わせる。すぐ正面にある顔は、普段の――明朗快活で頭の足りていない言動をする彼女ではなかった。

 十路が全く知らない、『女』の堤南十星だった。


「ん……」

「――っ!?」


 残っていたわずかな距離が詰められ、唇が隙間なく重ねられた。

 確かで柔らかな感触に、十路の頭は真っ白になる。それは驚きで動きと思考が停止したのとは異なる。

 で棒立ちしたというべきだった。


「あのですわね、クニッペルさん? 貸すとは言いましたけど、トリートメント使いすぎだっつーの……」

「いや~、申し訳ないとは思いますけど、髪の長さ考えてくださいよぉ――」


 ヘアセットに時間がかかっていたのか、エレベーターの扉が開き、コゼットとナージャ、野依崎が降りてきて。


「「え゛」」


 エントランスで繰り広げられている光景に固まった。声は上げなかったが、いつも眠そうにボンヤリした野依崎も、目を見開いたので、相当に驚いたのだろう。

 その声に、離れて話していた和真と樹里が振り返る。


「「え゛」」


 そして三人の視線をたどって逆側に振り返り、同じように固まった。


「!?」


 五人分の硬直した視線と、四人分の唖然とした軋み声で、遅まきながら再起動した十路が、南十星を力任せに引き剥がした。


「お、おま、なにを……!?」


 自身もよろめくように後ずさり、距離を開く。事実を改めて認識するように、うろたえたように、十路は口元を手で覆う。

 唇を重ねたことが問題ではない。異性への好奇心と気恥ずかしさを抱く無知で純粋な時期は、彼はすでに通り過ぎている。

 ただ、相手に問題がありすぎた。

 南十星とキスをした。

 冗談でそんな話をしたことはあっても、実際にやったことなど一度もない、家族が相手なのが大きな問題だった。


「勘違いさせないようにと思って」


 しかし彼とは裏腹に、南十星はそれを問題としている様子はない。

 まるで舞台に立っているようだった。五人の観客に構わず十路を見つめ、子供のように精一杯の背伸びをするでもなく、乙女のように頬を赤らめるでもなく、成熟した女性のように余裕がうかがえる微笑をたたえ、静かに宣言する。


「あたし・堤南十星は、兄・堤十路が好きです」


 日本では馴染みなくとも、親愛の意味でキスをする者もいる。情愛のように舌を絡めるようなことはなく、たた唇を重ねただけだから、そう取ることも可能だった。

 しかし行為が意味する感情を、杭として打ち込んだ。彼女が言ったように決して勘違いなどさせないよう、十路の心の奥深くにまで届かせる。

 金槌で叩いた後に響く甲高い金属音のように、その言葉の持つ意味は周囲にも広がる。


「…………え」


 それで最初に呪縛が解けたのは、樹里だった。


「ええええぇぇぇぇっ!!」


 漏れ出した声は、せきを切ったようにあふれ。

 一秒後、それを呼び水に絶叫の大合唱になった。

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