080_0600 モヤモヤお~たむず2Ⅰ~帰早々~
マンション五階は一室しかないので、エレベーターの扉が開くとすぐに玄関ポーチだ。
シリンダー錠に鍵を挿してひねり、指紋で電子ロックを解除すれば、見慣れた広い玄関が現れる。時刻は夜だが、暗視できる目にはハッキリ見える。リビングから洩れる光で、常人でもぞんざいに脱ぎ捨てられたビジネスシューズは見えるだろう。
その音が聞こえたのか。リビングの扉が開き、廊下の光量が一気に増大した。
「あれ。お帰り」
ゴソゴソ音がするから様子見に出てきたのだろう。ラフな部屋着の
荷物を拾ってリビングに入りしな、樹里は年上の同居人に険悪な目と、青白い光が宿る人差し指を突きつけた。
次の瞬間、小さな稲妻がつばめの鼻に落ちた。
「の゛お゛お゛お゛お゛ぉぉぉぉっ!?」
つばめは顔を押さえてのた打ち回るが、樹里は無視してその脇を通り、テーブルにビニール袋を置いた。
「鼻ついてる!? モゲてない!?」
「ついてるに決まってるじゃないですか」
半泣きで鼻の頭が赤くなったつばめに、なんの感慨も抱けない。彼女の能天気な顔を見た瞬間、鼻を吹っ飛ばす威力にしてやろうかと一瞬思いはしたが、さすがに自重したくらいなのに。
「てか、帰って早々なに!?」
「わかりませんか……?」
もう苛立ちを隠すのは無理だった。普段見せない大きな犬歯をむき出して怒鳴る。
「ホテルの予約、どー考えても嫌がらせですよね!?」
「ちょっと奮発した熱海温泉の旅館と、富士五湖周辺のホテルでなにか不満? 秋の行楽シーズン、しかも週末の温泉と富士山だよ? 予約しないと泊まれないよ?」
「だからってなんで堤先輩と私を同じ部屋に押し込めるんですか! 特に二日目――!」
北富士演習場での演習に一日付き合い、部活は終了。山梨県の富士五湖に近くなるため、二日目の宿泊地はそちらに用意されていたわけだが、事前に知らされた住所に
「あそこ完全にラブホテルじゃないですか!?」
最近はあまりケバケバしいのは好まれないらしいがそれでも派手なネオンが設けられ、『ご宿泊』だけでなく『ご休憩』も存在する利用料金の案内看板が外に掲げられ、駐車場入り口は人目につかないようカバーがかけられ、受付は目隠しされてメニューパネルで設けられ、コスプレ衣装がレンタルできて、客室内になぜかスロットマシンがあり、更には自動販売機も設置されドリンクだけでなくアダルトグッズまで取り揃えている、絶対普通の宿泊施設とは違う建物だった。
風営法の関係上、本来一八歳未満は入店禁止だが、つばめが挙げた理由で変更できず、背に腹は変えられず利用したわけだが。
照明の色合いがムーディーなのも、大人ふたりで入れる風呂を使う時も、ダブルベッドで寝る際も、翌日――つまり今日、神戸まで帰る道すがらも、気まずいったらなかった。
「で? で? トージくんとヤった?」
「なにもないですよ!」
一日目の旅館とは比較にならないあからさまさでも、何事も起きなかった。部屋に用意されていた避妊具は開封どころか手にも取られていない。それどころかイクセスが推測していたように、十路は当然のようにソファで寝た。
樹里は嫌でも意識したのに、彼は平然としていたので、余計な苛立ちが加味されてつばめにぶつけてしまう。
「なぁんだ、つまんない。せっかくお膳立てしてあげたのに」
「いま本気の殺意が湧きました」
きっと瞳が狂気の色に染まっているだろうに、なぜこのダメな大人はそんなセリフを吐けるのか理解できない。アイアンクローで電流を流して脳ミソ沸騰させればかえってマトモになるのではなかろうか。そんな普段考えもしない発想まで出てくる。
そんな怒りなどどこ吹く風。以前と違って脅しが通用しない。樹里が帰るまで晩酌していたのだろう席につばめは座り直し、焼酎の水割りを口に運ぶ。
「押し倒しでもしないと、トージくんはジュリちゃんのこと、気にも留めないと思うけど」
「…………」
薄々思っていることを突きつけられ、樹里の中で怒りが引っ込む。
『薄々』は語弊がある。ナージャ・クニッペルや、同じく十路のクラスメイトで支援部にもよく押しかける
盗み聞きしたイクセスとの会話で、部員たちの好意は承知しつつも、応じる気配を感じなかった。
結局名前すら知れなかった、
それに、夜中に旅館を抜け出して、海に花を手向けたあの姿。
十路には恋愛への欲求がない。
彼の心には、いまだ衣川羽須美が住んでいる。
そして再び思い人が失われることを恐れている。
過去を知るであろう南十星以外は、そこまで明確ではなかろうが、部員たちもなんとなく察しているのだろう。だから誰も好意を向けつつも、今以上に距離を詰めようとはしない。
彼女たちはわかっているのだろう。距離を詰めようとしたら、彼はきっと拒絶すると。
(どうしよう……)
知ってしまったら、樹里も踏み込めない。
結局今回の旅行で、知らなかった十路の一面は知れたものの、収穫と呼べるものはなにもない。
「結局のところトージくんは、誰にも心を許してないんだよね」
樹里は気持ちをしぼませ、話半分でサバの味噌煮缶に箸を突っ込むつばめの向かいに、ようやくにして腰を下ろす。十路に対する好意を彼女に隠すのはもう諦めた。
「イクセスはそうでもないみたいですけど……結構プライベートなことも話してるみたいですし」
「人間じゃないから素直になれるのかな?」
つばめが何気なく出した言葉にハッとする。
(人間じゃないから……)
《
(要するに堤先輩がイクセス相手にやってるのって、ロボット・セラピーみたいなものなんだよね……なら手はないこともないけど……だけど、うーん……反応が想像できない……)
樹里がその手を使ったところで、彼のなにかを引き出すことはできるだろうか。心を許してくれるだろうか。
(やってどうするのって思わなくもないけど……先輩のプライベートなんてほとんど知らないから、試す意味はないこともないか……)
効果は果てしなく怪しいし、十路が気分を害するかもしれないが、やったところで今より悪い結果になるとも思えない。
『どうせ他にできることはないのだし』と実行を決意した。
その気配を察したらしい。つばめは満面の笑みで親指を立てる。
「男なんて、下半身と胃袋掴んじゃえばいいんだから」
「……………」
樹里、男を掴んでいない独身二九歳を白けた目で見つめ。
「はぁぁぁぁ~……」
微塵も感じられない説得力を、日本海溝並に深いため息で指摘した。
「なにその反応!?」
「たまには私の胃袋を掴んでくださいよ……」
そして店構えや中身とは裏腹にオシャレに英文で『淡路屋』と書かれたレジ袋を押しやる。夕食の用意がないのは想像の範囲内、帰ってすぐ料理しないとならないのは面倒なため、帰りしな買った駅弁だ。
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