第7話 逃避行
空に照る太陽は大きな雲の中に隠れ、地面に影を落とす。高く上るその雲は、天の頂きに手を伸ばしているようだった。遠くの空をみれば、黒く染まった雲の中で閃光が走っているのが見える。
季節に逆らうような冷たい風を、リオは全身で受け止めた。
「さて、私たちはどうしようね」
テルン達が
「テルンに探すと約束したからな。やるしかないだろう」
フェガはそう口にするが、その様子からは動こうという意思が微塵も感じられなかった。先ほどまで
「……本気で言ってる?」
リオの問いに答える声はない。
「私の予想だと、あいつらはまだ近くにいる。少なくとも、私たちを監視できる程度には」
リオはフェガに服を返し、自分の服を引っ張りだすと手早く着替え始めた。
「探すっていうより、私たちが追い立てられるって感じになるわね。私たちは獲物で、奴らは
そう言っている間にも、リオは荷物を選別しながら武装の準備を始める。
「私の
困ったわねと笑うリオの目は鋭いままで、殺気を隠しきれないでいた。
「だから——」
「リオ、一度落ち着け。お前らしくないぞ」
フェガは落ち着いた声音で、荒ぶるリオを窘める。
「そんなことないわよ……いや、そうね。いつもよりピリピリしてるかもしれない」
リオの少しむっとした表情は、一つのため息と共に苦笑いに変わった。
「いろいろ思い出もあるからね。少しは感情的にもなるわよ」
「……そうだな。無理もない。……北西に約千五百メートル。人数まではよくわからん。どうやってるのか知らんが、匂いをある程度消しているせいではっきりしないのだ。気に食わん」
ふんっと鼻を鳴らし木の傍を離れると、レイピアを軽々と担ぎあげる。
「森の中を走るのに邪魔でしょ? 無理しなくていいよ」
リオは、フェガの行動に少々驚いていた。フェガのことを、もっとクール且つクレバーな思考の持ち主だと思っていたからだ。
テルン達を人間界に送りこんだのも、
そんな冷静な判断を下したフェガが、邪魔になるであろうレイピアを担いだのは、やはり意外なことであった。
「構わんさ。お前の本職はこっちなんだからな。これがなくちゃ仕事にならんだろう」
フェガはこんこんと布越しにレイピアの銃身を叩く。
「じゃあ遠慮なく。ありがと。頼んだわ」
リオの表情はすっかり和らぎ、普段の笑顔を取り戻した。
「お前の言う通り、長居してもいいことはないだろう。こちらに二人しかいないことを向こうが感付けば、すぐに襲ってくる。そうなる前に、一気に引き離す。ついてこれるか?」
「あのねフェガ、そういうのは愚問っていうのよ。余計な心配はいいから、他の種族の集落に迷いこんだりしないように、しっかり道案内して頂戴ね」
リオは不敵な笑みを浮かべ、挑発的な目でフェガを見つめる。フェガはそれに溜息で答えた。
「それこそ、俺を誰だと思っているんだ。——行くぞ」
フェガは言葉と共に走り出す。その加速は、リオに風が吹き抜けたかのような錯覚を起こさせる。一瞬の間についた数歩遅れを埋めようとフェガの後を追う。
森の中に乱立する木々に生え方の法則性などはあるはずもなく、進行方向に突然現れる障害物を、ぶつかる寸でのところで避け続ける。高速で走るフェガの背中を見失わないようにするために、リオは出来る限り直線で走り続けなければならなかった。
強がって啖呵を切ったものの、人間が純粋な亜人の全力の速度についていくのは不可能だということを、
任務の最中に孤立した亜人に遭遇した時。捕獲しようと試みるが、相手が逃げに徹してしまうとどうやっても逃げられてしまう。足に傷でも負っていれば話は違ったが、そんなケースは稀だった。彼らは地面を走るだけでなく、木に登り枝から枝に飛び移り、三次元的な動きまで軽やかにこなす。狙撃するにも次の行動は予測不能で、リオはそれを見る度に煮え湯を飲まされたような気分になった。
「リオ! ついてこれなくなったらすぐに言え! 担いで運んでやる!」
「そんなの必要ないわよ!」
リオはフェガの試すような口調に言い返してやろうと考えを巡らせたが、結局息切れしているのがばれないよう、早口でまくしたてるのが精一杯だった。
ひたすらに走り続けているリオの足には、少しずつ疲労が溜まっていく。踏みしめていた土の感覚が少しずつ薄れる。しっかりと地面を蹴らなければ、前には進まない。フェガとの距離が開き始め、リオは自分の限界を感じ始めていた。
「来てるぞ! 急げ!」
そんなリオの状態を知ってか知らずか、フェガはリオに発破をかける。
小さな枝がリオの頬を擦り、小さな擦り傷や切り傷が増えていく。流れ出る汗は止め処なく、顎から滴る水滴の量は増え続ける。隠せなくなった荒い呼吸が、周囲の音を掻き消す。風を切る自分の身体が、まるで宙に浮いているようだと錯覚する。それでも、リオは足を動かし続けた。
たくさんの木を避け、不自然に折れている大木の株を乗り越え、時には追跡を振り切ろうと、方向を急転換する。
どれだけ走り続けたか。山をいくつ越えたのか。いろいろなことがリオの頭に浮かんでは消えていく。そんなリオの視界が、少し霧がかったように薄らいでいく。自分の身体の限界を、はっきりと主張するかのように。
どうにもならなくなる前に、リオは決断した。
「フェガ! 私はもう限界だから! ……あとは、よろしくね」
リオは残りの力を振り絞って、前方を走るフェガへ声を届ける。そして、そのまま足の力を緩めると、身体を重力に任せて倒れこもうとした。
「よく知らんが、こういう時には決まったセリフがあるんじゃなかったか?」
視界いっぱいになっていた地面は遠のき、身体が宙に浮く。気付けばリオは、レイピアと共にフェガに背負われていた。
「私を置いて先に行け……なんて、死んでも言わないわよ」
リオは無意識のうちに居心地のいい背負われ方を探しながら、消えそうな声で呟く。
「絶対に生き残る。こんなところで犬死にするために、今まで生きてきたんじゃないんだから……」
固く握りこんだ拳は震え、黒い瞳にはうっすらと涙が浮んでいた。
フェガは何も言わずに静かに走り始め、風を切る。気を遣わせていることが分かっていたから、リオは涙を流すまいと瞼を閉じた。それでも自分の中で湧き上がる情けなさに逆らうことは出来ず、悔しさは涙となってこぼれ出た。
* * * * * *
フェガの顔に打ち付ける雨の粒が伝う。豪雨というべきそれは土を泥に変化させ、走る者の体力を奪う。山全体を包んだ霧は視界を大幅に奪い、どこか見知らぬ場所へと迷い込ませる。太陽は隠れ、暗い森の中で体温が少しずつ奪われていく。
「やっかいだな……匂いがせん」
悪天候の中少しでも情報を手に入れようとするものの、視覚は霧が、聴覚は雨音と雷鳴が、フェガの感覚を狂わせる。
「一度休憩したいわね……。あの子達、こんなにタフだったかしら?」
リオはフェガの背中の上でひたすら体力の回復に努めていた。いつまでもフェガに負担をかけるわけにはいかず、なによりリオ自身のプライドがそれを許さない。
「この近くには蛇人族の集落があるはずだ。俺たちが人間を連れてきたと勘違いされては困るからな。できるだけ離れて動きたいが……むっ?」
前方の暗い空を見上げると、フェガは疑問を表しつつ急停止した。
「っ! ……危なかった。どうしたのよ?」
危うく振り落とされそうになったリオは、少し不機嫌な声でフェガに停止の理由を問う。
「あれを見てくれ」
フェガは前方上空に見える、巨大な暗雲を指さした。リオにはその雲が一体なんなのか、他に浮いている雲とどう違うのか、全く分からなかった。
「『落雷の森』というものを知っているか?」
「『落雷の森』? さあ、知らないわね」
しかし、そこに所属していたリオでさえ、『落雷の森』という単語を聞くのは初めてだった。
「これは犬人族の古い伝承の一つなのだが——」
まだ若い犬人族が、日が沈んだ後こっそりと集落から離れていく。大人たちが自分のことを幼い子供のように扱い、狩りへの同行を拒否することに不満を持った彼は、自分の力を皆に見せようと躍起になっていた。そして森の奥深くまで進んだ彼は、洞窟で深く眠り込んでいる大きなグレイブホーンを見つけた。不意を衝き挑んだものの、当然勝つことは出来ず、逃げる道を選んだ。洞窟は奥深くまで広がっていて、神の遺跡へと繋がっていた。グレイブホーンの追跡を避けるため彼は遺跡の中へと進むが、神の怒りを買い洞窟の外まで弾き出され、周りの森には絶え間なく落雷が降り注ぐようになってしまった。
「——というものだ」
「つまり御伽話よね? そんな場所があるなら、私が知らないはずがないわ」
バカにしないで頂戴と少々声に非難を滲ませながら、リオはフェガに続きを催促する。
しかしフェガはまじめな顔でそれに応える。
「確かに、落雷の降り注ぐ森はまだ存在しない。あれは決まった場所にあるのではなく、空に雲の吹き溜まりが不定期に出現し、それが霧散するときに起こる自然現象なのだ。まあ、これは受け売りの知識だが」
昔を懐かしむフェガの顔からは、長い年月を生きてきたことへの哀愁が漂っていた。
「これが始まると、本当に森は落雷に包まれる。そこに巻き込まれれば、間違いなく死ぬ」
「それで、つまり。あの雲がその原因になる雲ってことなの?」
「その通りだ。俺たちの進む、ちょうど正面。もし奴らを撒けていないのなら、完全に退路を断たれたということになる」
「……いよいよまずいわね」
「新しい道を見つけるべき——っ!」
殺気を感じ、フェガが咄嗟に身を捩る。耳元を弾丸が掠め、空気を切り裂く音がフェガの耳に飛ぶ込む。的を失った弾丸はそのまま目の前の大樹へとめり込んだ。
「掴まってろ!」
フェガはリオに注意すると返事を待つこともなく走り出し、木々の隙間をすり抜け急速に加速する。リオはフェガの首に手を回し、振り落とされまいと必死に力を込めた。
フェガは右へ左へ身を翻し、時には木の上に飛び出がり、まき散らされる弾丸の雨を躱していく。
「どこにいくの⁉」
「俺もそろそろ限界だ! 『森』に飛び込むぞ!」
「そんな!」
「このままじゃどのみち死ぬぞ! 腹を決めろ!」
雨脚は更に激しさを増し、落雷は凄まじい音を轟かせ、鼓膜を強く震わせる。吹き付ける風は冷たく、進もうとする身体を押し戻す。夜のような暗さの森の中で姿の見えない追手から逃げ続けることは、二人の精神を大きくすり減らした。
「跳んで!」
リオの叫びを聞いたフェガは進路をずらしつつ飛び退く。途端、先ほどまで走っていた場所は燃え上がり、爆音とともに破裂した。
「焼夷炸裂弾……! 人間相手に使うもんじゃないわよ!」
亜人界に生息する大型生物の足などを吹き飛ばし、動きを制限する目的で使用される手榴弾型武装魔道具。何らかの衝撃を与えると、半径七メートル以内に存在する物を焼きながら爆発させる。人間に使えば間違いなく死体も残らない代物であった。
「向こうも直撃するなどとは思っていまい。せいぜい私たちの足止めだ」
信じられないといったリオの言葉に、フェガは冷静な声で答えた。
「そうは言っても——また来るよ!」
二人の周りで一つ、二つと火の手が上がっては、一瞬にして消えていく。
お互いの詳しい位置が分からないという証拠であったが、無作為に飛んでくる死は、予測できるものよりも遥かに危険で、容赦がなかった。
「森はすぐそこだ! このまま逃げ切る!」
「フェガ!」
もうすぐ逃げ切ることが出来るという事実が心に隙を作ったのか、フェガは一瞬、周囲への注意を怠った。
リオの声に我を取り戻した瞬間、背後から飛来する死の気配がフェガの身体を支配する。
全力で地面を蹴るのと同時に、爆風が二人に襲い掛かった。
二人は身を焼く痛みに叫びをあげながら、弾かれたように飛んだ先で太い木の幹に打ち付けられ、力なく倒れこむ。
頭を打ち、ぼやける景色の中、フェガはやっとの思いで起き上がる。自分の負った怪我の度合いを確かめつつ、空中で離れてしまったリオの姿を暗がりの中、匂いを頼りに探し始めた。
「こっちよ!」
リオは痛みに顔を歪ませながら、木に背を預けていた。
「リオ! 無事か!」
「ええ。なんとか、ね——っ!」
激突した衝撃にリオの身体は耐え切れなかったようで、難病を患ったかのように激しく咳き込む。そこには多量の血が混じり、口を押えた手から滴り落ちた。
「リオ!」
「はは……こういうのも、久しぶりね。フェガの身体は丈夫で、羨ましい限り」
大したことないわと肩を竦めつつ、軽い皮肉を挟む。そんなリオの様子は傍目に見れば無事と言えるものだったが、フェガはリオの状態を正しく見抜いていた。
「無理をさせて悪いが、場所を変えるぞ」
「まだ追ってきてる?」
フェガはリオをそっと抱き上げると、リオの問いに首を振って答える。
「これ以上追手はこないだろう。来たくても来れない、というのが正しいがな」
「……なるほどね」
リオは周囲を見回し、自分の置かれている状況をようやく把握した。
今まで抜けてきた森に比べ視界は大きく開けていたが、その代わりに数えきれないほどの倒木が存在し、その全てが黒く、木の焼けた炭の匂いを漂わせる。いくつかはまだ燃え続け、小さな炎が燻っている。大粒の雨は叩きつけるように降り注ぎ、火が燃え広がるのを抑えていた。手の届きそうな距離で幾筋もの光が暗い空と地を繫いでは、瞬く間に消えていく。地面までも焦がすそれは、二人の無意識に恐怖を植え付け始めていた。
「安全な場所を探すぞ。……俺も、ここで死ぬわけにはいかんからな」
雷はいつどこに落ちるか分からない。次の瞬間には気づくこともなく死んでいるかもしれない。二人は神に祈るような気持ちで先を急いだ。
「あそこ!」
リオが見つけたのは、切り取られたような山壁にできた洞穴だった。楕円形の入り口は暗く、奥の様子を伺い知ることは出来ない。飲み込まれるような感覚に、リオはそれを巨大生物の口のようだと思った。
フェガは気配を消しながら洞穴の中を覗きこみ、安全を確かめる。誰もいない、何もいないことが分かると、フェガはようやくほっと息をついた。
穴に大した奥行きはなく、少し歩くと行き止まりに突き当たる。フェガは頭を下げ身を屈めながら進み、抱きかかえていたリオを下して横にした。
「ありがとう。悪いね、足引っ張ってばっかりで」
「気にするな。お前に出来て、俺に出来ないことだってたくさんある。今回は立場が逆だっただけだ」
「……そう」
リオはフェガから目を逸らし、出口から見える景色を眺めた。
「じゃあついでに水を探してきてくれる? すごく喉が渇いちゃって」
「……雨と雷が止んだら、な」
リオの言葉に、フェガは思わず苦笑いを浮かべる。
フェガの言葉が自分を気遣ったものではないと、本心だと分かっていたから、リオは感謝とほんの少しからかいの気持ちを込めて、明るく笑った。
* * * *
「こちらキャット。標的を見失いました。天候悪化のため、これ以上は進めません」
『天候悪化? おいおい、シーラ。それくらいのことで任務放棄してどうすんだ。報告書まとめるのも、上から文句言われるのも俺なんだからさ。もう少しガッツを見せてくれよ』
通信用魔道具から伝わるメネルの言葉は荒々しいものだったが、口調は緊張感のないおどけたものだった。シーラは副隊長として、上司の気楽さに溜息をつく。
「隊長、任務中なんですから名前で呼ばないでください。それに、ふざけて言っているのではありません。前方の雲から異常な頻度で落雷が発生しています。我々の装備で突入するのは危険です」
武装魔道具を始めとする魔道具の類には少なからず特殊な機功が使われている。それらが激しい気温の変化に弱いということ。更にその道具の多くが金属、主に鉄製であるということ。雷を引き寄せるものを身に付けている状態であの中に飛び込むほど、シーラは無謀ではなかった。
『そうか。なら、現場の判断を優先させるべきだろう。お前の判断で動け。来たときのゲートはまだ開いたままになってる。さっさと帰りてえから、お前らも急いでな』
「了解、帰還します。——総員、退却準備」
通信を切り替え、周囲にいる仲間に退却を伝える。通信用魔道具を上着のポケットにしまうと、雨と汗で額に張り付いた短い黒髪を、グローブをはめた右手で掻き上げる。
現在地でも既に嵐のような気候だが、ゴーグル越しに見えている景色とは比べ物にならない。まるで荒れ果てた荒野のようで、生き物の気配を感じなかった。それでもシーラはこの先に目標エモノが居ると直感で感じ取っていたが、不確かな情報で部下を危険に晒すわけにはいかない。
小さな逡巡の後、隊員すべての退却準備完了が魔道具より伝えられる。退却開始の命令の後、ふとした違和感がシーラの頭を掠め、振り向く。
「あれは……?」
眼を凝らし、暗い木々の隙間を観察する。雷の光によって浮かび上がる木々のシルエット。その中の一本の枝がやけに目に付いた。どこかで見たことがあるような、懐かしい形。警戒しながら枝に近づき、まじまじと見つめる。そして、気が付き目を見開いた。
「レイピア……!」
震える手でレイピアを掴み、枝の間から荒々しく引き抜く。踏ん張ったわりにあっさりと抜けた反動で態勢を崩し、尻もちをついた。
シーラはそのままレイピアを強く抱きしめ、肩までも震わせる。誰にも聞き取られないような声で呟き、ほんの一粒、涙を流した。人には見せない、心の涙を。
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