第29話──そして夢の先に
かつて、〈救国の聖女〉と、あるいは〈破滅を運ぶ魔女〉と呼ばれた少女がいた。
主が望まれるままに生み出され、示されるままに学び、導かれるままに戦場へ立ち──役目を果たして炎に消える。
それが歴史の中で彼女に与えられた尊い使命であり、また抗えども逃れ難い宿命でもあった。
偉大なる父の御心は絶対であり、主の忠実なる被造物である彼女は、粛々とこれを受け入れ、天の思惑と人々の理想に殉ずるはずだった。
だが。
神の意志を運ぶ者でありながら、あくまでも人として人の世界に生を受けた彼女は知ってしまったのだ。
造物主への信仰とは別に、迷い、揺らぎそうになる心の支えとなる気持ちを。
使命の成就と同じかそれ以上の喜びをもたらしてくれる、温かな手の存在を。
ゆえに、彼女は終幕の炎に包まれながら祈った。
それは彼女が己の為に捧げる、最初で最期の切なる願い。
いつわりなき、魂の叫び。
そして──その強い想いは宇宙の采配を動かし、ついにここへ奇跡を起こした。
──あの人の腕の中に帰りたい。
彼女の願いは、そのまま彼の願いへと通ずる。
──もう一度、この手で彼女を抱き締めたい。
願いを叶えるのに必要だったのは、自分に正直になる勇気だけ。
長い祈りの果て。お互いの心を偽り、遮るものは全て消えた。
二人が胸の内に湧き上がる衝動を抑える理由も、想いを遂げる事を咎める者もどこにもない。
今はただ、この至福の時の中、互いの全てでもってありあまる愛を交わし続けよう──
◆◆◆
「まあ……まるでいつか見たベルサイユの宮殿のようですね……なんて綺麗……」
人工の星々が瞬く夜のベイエリアをひとしきり散策した後、今宵の宿をとったホテルに到着すると、ジャンヌはその優雅なエントランスに目を見張り、更に瞳を輝かせた。
空間を彩る和と洋が絶妙に合わさった上品な調度の数々。柔らかな照明に照らされた目の前の景色にうっとりとしている少女は、ごく年相応の可愛らしさに溢れている。
聖女としての慈愛と、古の女神のごとき強さと情熱が華奢な身体で同居する奇跡のような女性──騎士であり続けた青年にとって生涯最愛の人。
──やはり、手放す事など出来るはずもなかった。
歴史を感じさせる古風なタイルが敷き詰められた大階段で無邪気に喜ぶ少女を見守るジルは、すっかり元の落ち着きを取り戻していたが、その胸の内に抱く感慨は深いものがあり、再び取り戻した一人の男としての感情にやや戸惑いも覚えていた。
身体の深い部分からじわじわと染み出してくるような疼き──それはちょうど、ジャンヌと出会ったばかりの頃を思い出させるような、忘れかけていた青臭くも根源的なもの。
──まったく、盛りのついた小僧じゃあるまいし。戦場の聖職者が聞いて呆れる至らなさだな。
少女のちょっとした表情や仕草にも反応してしまう己が身に苦笑しつつも、ジルの横顔には付き物が落ちたような清々しさがあった。
たまには馬鹿に徹してみるのも悪くはあるまい。
聖女らしからぬ貪欲さで新たな生を謳歌している少女の背中を追いながら、青年は彼女の導きに改めて感謝するのだった。
時に冷静な分析よりも、直感が全てを覆す事もある。
少女の存在はまさにその象徴ではないか。
少し、思考を巡らす癖を止めてみよう。ただ、今はこの想いに正直でいる事が心地良い。
「ジル……早く早く!」
愛しい姫君が呼んでいる。
──ともあれ、まずはジャンヌの腹ごしらえを済ませてからだ。
◆◆◆
港の見える公園の前に位置する老舗ホテルのレストランで、そこが発祥であるというドリアとプリン・ア・ラ・モードというごく庶民染みたメニューにジルの姫君は舌鼓を打つ。
この港町の迎賓館として機能している由緒あるホテルには、本格的なフレンチのコースが味わえる展望レストランなどもあったのだが、気取った食事よりも自分のペースで気持ちよくお腹を一杯に出来る食事を希望したジャンヌの意向に、ジルは粛々と従った。
もとより、この時代の人間が美食の典型として愛するフランス料理はジル達の時代には存在しなかったものである。
テーブルマナーも中世のそれとは全くと言ってよいほど違いがあるし、その豪奢な世界は決して懐かしさを感じさせるものではない。
イタリアの洗練された食文化が普及する以前の食卓を知る人間からしてみれば、この時代の料理はレトルトパウチされたインスタント食品でも十分旨い。
その証拠に、今日のジャンヌはかつてからは考えられないほど食欲旺盛だ。
今もベシャメルソースの滑らかさに幸福を感じた後は、ガラスの器に盛られたフルーツの鮮やかさに心奪われている。
何とも可愛らしい。
ジルの口元に自然と笑みが零れる。
そんな意地汚いほど食事に夢中になっている己を見守りつつ、対面で微笑みながらゆったりとコーヒーの香りを楽しんでいる自らの騎士の様子に気が付くと、ジャンヌはさすがに申し訳なさそうな顔をして手元を止めた。
「ジル……今日一日、私ばかり食べていますけど……貴方は何も口にしていないではありませんか。
なんだか私、いたたまれなくて……ひょっとして、本当は体調が優れなかったりするのではありませんか」
「いえ。どうぞお気になさらずに。そのまま召し上がって下さい、ジャンヌ。
腹が膨らまずとも、本来少食の貴女がそうして美味しそうに食事をしているのを見ているだけで、私の心は満たされますから。
それに──」
スプーンを持ったまま、頬を赤らめている少女の耳元に唇を寄せると、青年は甘く囁く。
「──私はこれから貴女の全てを味あわせて頂くのですから、余計なものは口にしたくないのです。
今夜は余すところなく貴女を愛し尽くしたい」
これまでの騎士らしからぬ艶めいた言葉に、少女の顔がますます赤くなる。
「……もう。貴方と言う人は。
こんな素敵なホテルを予約しておいて、あのまま私を突き放していたら、どうするつもりだったんですか」
「このホテルを手配してくれたのは、知人の好意によるものだったのですが……まさか貴女を夜の街に置き去りにするわけにはいきませんから、貴女を部屋に通してから、私はバーにでも篭る予定でした」
「……そんなこと、絶対許しませんから」
「そうですね。私は随分と貴女を甘く見ていたようです。
貴女によって生かされてきた私です。離れられるわけがなかった。
正直、今こうしている間も貴方が欲しくて仕方がないのです」
熱っぽい視線が少女を真正面から捕えている。
少女もまた、その視線からあえて逃れようとは思わなかった。
「──聖騎士などと呼ばれてはおりますが、実際のところ、今も私は教会から破門されたままの身です。
敬虔なる聖女の心を奪った男が、祭壇の前で貴女の手を取り、永遠の愛を誓う事を、主は決して赦しはしないでしょう。
それでも……私は貴女を神の下へは返したくない」
己と契りを交わすという事は、すなわちキリストから祝福されない花嫁になるという事だ。
世界の輪から外れ、移ろいゆく人々の営みに恋い焦がれながら、ひっそりと歴史を見守る影法師として生きていく。
自らが少女に与えたいと思っていた世界とは全く逆の生き方である。
ただ、自分は知ってしまった。理性では割り切れない、魂が訴える本当の気持ちを。
切とした光を帯びるジルの瞳と向き合いながら、少女は全てを包み込む笑みで青年の心を受け止めた。
「もともとそのためにこの世界に出戻ってきてしまったのですもの。全て覚悟の上ですわ。
むしろ貴方の下に居られないとなると、困ってしまいます。
それに、私は世界について色々な事を知り過ぎました。
普通の女の子として生きる方がずっと難しいんですよ」
今の自分にとってはジルが全てなのだと、少女──ジャンヌは軽やかに言い切った。
「〈神様〉には他にも出来のいい子供達が沢山いらっしゃいますから。
放蕩娘が一人いなくなったところで、支障はないでしょうし。それに意外と、私が貴方と一緒になるのを面白がっているかもしれませんよ?」
かつての使命や他者の視線など、もう関係のないことだ。
これからは、自らの意志で幸せを勝ち取っていけばいい。
少女の蒼い瞳はただ、明日だけを見つめている。
「別に〈神様〉に誓いを立てる必要はないのではありませんか?
私も聖女は卒業ですから。
貴方と私ですもの。お互いに誠実であれば、きっと大丈夫ですよ」
──本当にこの女性には敵わない。
彼女を一つ知る度に、ジルの心も身体も少女へと吸い寄せられていく。
どうしようもないほどの多幸感に支配された脳内で、言い訳じみた理性や罪悪感など、思考の彼方へ消えつつあった。
「わかりました。
ジャンヌ……貴方のこれからの時間の全てを私に下さい」
「ええ、喜んで……」
ここに確かに契約は交わされた。卓上で静かに重ねられた掌が温かい。
「ランスの夜の──続きをしましょう」
◆◆◆
夜の帳が降りた街。
その片隅で、念願果した一組の男女の影が重なり合っている。
過去も未来も、あらゆる体裁も全て脱ぎ捨てた二人は、ただ互いの存在だけを求めて愛を言祝ぎ合う。
寄り添う姿は、一見、微笑ましいほど若く幼く見える二人が、果たしてどれだけの想いを込めてその温もりを確かめ合っているのか。
傍から窺がう者には知る由もないが、ただ誰の目から見ても間違いないのは、肌を添わせる二人が今途方も無く幸福で満ち足りた時を過ごしているであろう、という事だった。
「ジル……」
心地良い脱力感と共に、痛みの記憶が溶けていく。
青年に微笑み返す少女の瞳から、知らず温かい涙が零れ落ちていた。
「ジャンヌ……どこか辛かった……ですか?」
とうとう両手で顔を覆って嗚咽し始めた少女に、青年が気遣わしげな表情で声をかける。
声の様子から相手の不安を感じとり、ジャンヌは頭を振ってそれを否定しつつ、とめどなく零れ落ちてくる涙を必死に指で拭う。
「違うんです。
ただ……嬉しくて……幸せ過ぎたら、何だか色々思い出してしまって」
「……ジャンヌ」
「ジル……昔、シノンで私が広間にやって来た時、貴方は『光が見えた』と言っていましたね」
ふわりと、はにかんだ笑みを浮かべながら、少女が『その時』の事を初めて告白する。
「あの時、私もあの場に集まった沢山の人達の中に、一際大きな輝きを見つけたのです。
私は『神様』から魂の本質そのものを視る力を与えられていましたから、その輝きの持ち主が、この世界で何か役目を与えられている偉大な方であると、すぐに分かりました。
だから、この方こそきっと王太子様なのだと、思わず嬉しくなりました。
もっとも、すぐに『それは違う』、と『神様』に否定されてしまいましたけれど。
実際の王太子様は、広間でもう少し控えめに澄んだ光を放っている方でした」
「……それは、まさか……」
「ええ、私が広間で一番最初に見つけた光──それが貴方です。
本当に最初から、私達は互いの事が気になっていたんですね」
少女と初めて目があった時──微笑まれたのは決して気のせいではなかったのだ。
彼女は広間に足を踏み入れたその時から、ジルが異質であると気が付いていた。
またそれ故に、フランスを──延いてはこの世界を守る為に、大きな役割を果たす誰かと成り得ることも。
「いえ……さすがにあの時はそこまで私も『神様』のお考えを読み取る事は出来ませんでした。
ただ、どこか私と似ている力を持つ方がいらっしゃるのが嬉しかったんです。
引き合わされた貴方は、本当に魂の輝きがそのまま現世の器として形作られているような方で、私はすぐ好きになってしまいました」
明け透けな少女の言葉に、ジルは少し照れたように視線を逸らし、頬を掻く。
「貴方は軍属の方とはとても思えないほど聡明で優しくて。それでいて戦場では誰よりも強い方でした。
この方は『神様』が私を助ける為に遣わして下さった天使様なのではないかと、最初は本気で思っていました。
でも、だからこそ苦しかった」
「苦しい……?」
ジャンヌの口から出た意外な告白に、ジルが思わず聞き返す。
「貴方はじゃじゃ馬な私に影のように寄り添いながら、常に誠実で、紳士として振る舞って下さいました。
戦場や軍議の時はもちろん、夜、二人きりの時でさえ」
どこか悲しげな響きで、ジャンヌは言葉を紡ぐ。
「オルレアンから戦ってきたジャン、アランソン公、ラ・イール隊長、リッシュモン伯──みな、かけがえのない仲間で、本当に大切な人達です。
誰一人、欠けてもあの奇跡は起こせなかったでしょう。
ですが、ジャンや公爵達に対する『好き』と、貴方に対するそれとは明らかに違うと、私は気が付いてしまいました。
私は『神様』に生涯を捧げる誓いを立てていたのにも関わらず、人を、決して好きになってはいけない男性を愛してしまったのです」
人々を導く聖女としての役目を期待され、また自身もそうあるべきとして神の定めた運命に従ってきた彼女にとって、それは己の存在理由を揺るがす一大事であった。
この創造主や彼女に救いを求める人々への裏切りとも言える感情は、彼女に途方もない罪悪感を背負わせる事になり、果たすべき使命との狭間で己がどうあるべきか、大いに悩ませることになったのだった。
「その方は妻子ある大貴族で、とても私のような後ろ盾の無い小娘とつり合いの取れる方ではありません。
この道ならぬ恋を実らせるのは端から無理だと分かっていました。
だからせめて……戦場に居る間だけでもいい。
一夜の過ちで構わない。
いっそ、貴方から私をただの女にして下さらないかと……そんな浅ましい期待すら抱くようになっていました」
「………………」
それはずっと聖女として祀られてきた少女が、その心にひた隠しにしてきた闇であり、儚くも愛らしい人間としての感情だった。
ジルと同じかそれ以上に、少女は自らの想いの重さに苦しんでいた。
「でも、貴方は他の殿方と違って、いかなる時も騎士である自分を崩しては下さいませんでした。
貴方の清らかさや落ち着いた佇まいが眩しくて、余計に自分が惨めで……このまま苦しみ続けるなら、軽蔑されて貴方から離れた方がいいと……ランスであんな真似を……」
「……そう……だったのですか……」
まさか、それほどジャンヌが思い詰めていたとは。
あれほど傍に居ながら、思い至らなかった己の余裕のなさが改めて憎らしい。
しかし、悩み抜いた末、戦場であれほど凛々しく振る舞っていた少女が見せることになった、精一杯の『女』としての勇気。
それが結果として二人を結びつけ、少女もジルも救ったのだ。
「私ばかりが苦しんでいるようで悔しくて、思わず仕出かした行動でしたが、貴方もずっとずっと苦しんでいたのが分かって……ごめんなさい、私、凄く安心したんです。
貴方が天使様ではなく、私と同じ人間だった、という事が分かって。
それからますます貴方が大好きになりました」
自分を覗き込んでいる美貌の輪郭を愛おしげに指でなぞり、ジャンヌが表情を綻ばせる。
艶やかでありながら、温かく慈愛に満ちて、包まれるような安らぎを与えるその笑顔。
青年にとって何よりも大切な奇跡の光。
「だからどうか……今夜は最後まで私を愛して下さい……」
言葉が終わるか終らないか分からないうちに、ジルの口付けが少女の珊瑚色をした唇を塞いでいた。
ここまで思われて、ジルの中の男が奮い立たぬはずもない。
「──ええ、言われずとも」
微笑み返してから、また深く口付ける。
ジャンヌが愛おしくてたまらない。
もう、誰にも奪わせてなるものか。
彼女の全ては、自分のものだ。
そして、この身の全ては彼女のもの。
互いが互いのものであり、だからこそ一人では欠けたままの部分を満たしたくて、魅かれあい、求めあう──
「ジャンヌ……私のジャンヌ……愛してます……
貴女は私だけのもの、私も貴女だけのものだ。
永遠に……離さない……」
「……嬉しい……私も貴方が大好きです……
ジル……私の騎士様……」
愛する人に全身で求められて、少女がふわりと心から満たされた微笑みを浮かべる。
青年もまた優しく微笑み返す。そして──
全ての因果から解放された少女の甘い声が再び夜の静寂に響いた。
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