第30話──旅立ち〈エピローグ〉

 その夜。離れていた時間と心の傷を埋め合わせるかのように、互いの温もりを追い、何度も命を溶けあわせた後。

 愛しい人の腕の中で、心地良い倦怠感に包まれながら、彼女──ジャンヌは夢を見ていた。


 彼女が立っていたのは、見覚えのある聖堂の中だった。

 かつて、栄光の頂点の時に多くの仲間と共に歓喜の瞬間を味わったランスにあるノートル=ダム大聖堂。

 彼女が愛する人と結ばれるまでの長い歴史の中で、革命や大戦によってその荘厳な姿に壊滅的な被害を受けながらも、今尚多くの人々の祈りに支えられてフランスを見守り続ける奇跡の地。


 在りし日に元帥位を授けられたばかりの想い人と国王が聖別される様子を見守ったその場所に、彼女は再び戻ってきていた。

 しかし、今彼女が身に纏っているのは、勇ましく華々しい戦装束ではなく──裾の長い楚々とした花嫁衣装。どこか喪服を連想させる漆黒のローブデコルテであった。

 傍らには他ならぬジルの姿もある。やはり正装姿の彼は、ジャンヌの視線に気が付いて柔らかく微笑み返す。

 静寂に包まれた伽藍の中には、二人の他に気配はなく、ただ頭上からステンドグラスからの淡い光が射しこんでいるばかり。


 生涯の伴侶となる人の包み込むような微笑に見惚れていると、ふいにオルガンの音が鳴り響く。

 燭台に次々と炎が灯され、淡く揺らめく明かりの中で、ジルがジャンヌの手を取った。

 その手は神聖な祈りの場にありながら、赤黒い血で汚れている。しかし、その手が多くの人間の命を奪いつつも、また同時に途方もなく多くの可能性を救ってきた事を知っている少女の目は、とても誇らしく尊いものとして映った。


 彼がもし不浄の存在だというのなら。彼に守られながら戦場を駆けた自らも十分罪に穢れている。

 彼は私が受けるべき返り血を浴びながら、私が振るうべき剣を振るっていたのに過ぎないのだから。

 だから、これからも私はその痛みも喜びも、分かち合いながら生きていく。


 少女の瞳を真っ直ぐ見つめ返す青年の瞳が、淡い光の中で、緩やかにその色を変じていく。

 常に知る湖水の碧から、炎の赤に、そして赤い輝きが温度を上げ昇華してゆき──やがて豊穣の黄金色へ。


「……恐くはありませんか」

「いいえ。

 前にも言ったでしょう?私は貴方に感謝する事こそあれ、忌まわしいなどと思う理由はありません」

「ありがとう──貴女の存在だけで私は救われる」

「私も同じです」


 青年の唇が少女の手の甲に落ちる。それは少女への忠誠を誓う口付け。全ての始まり。

 次に唇は愛らしい額に向かい、二人で過ごしてきた時の中で密やかに温めてきた親愛の情を示す。

 そして──


 額から唇を離した後、どこか躊躇うように目を伏せ、その動きを止めたジルに、ジャンヌが囁く。


「ジル、私の覚悟は決まっています。

 貴方が何者でどのような宿命の下、生まれてきているのだとしても。

 私は貴方の全てを受け入れたい」

「……本当に貴女と言う人は……恐れというものを知らないのですね」


 苦笑した青年の美貌が、再び彼女に近付き──鮮やかな朱唇を素通りして、その白い首筋に沈みこんでいく。

 ゆっくりと開く咢。『牙』と言って差し支えないほど長く伸びた犬歯が、柔肌に食い込んだ。


「ああ……」


 少女の唇から漏れたのは、痛みに対する苦鳴ではなく、恍惚の溜息であった。

 捕食者に血液と命を吸い上げられながら、彼女の身体が感じていたのは紛れもなく悦びであり、眩暈がするような幸福感が身体の芯を突き抜け、思考を蕩けさせる法悦が、青年に委ねられた少女の肢体を震わせる。


 知らず、その交わりが深くなるようにジャンヌはジルの背中へと腕を回し、ジルもまた少女の細い身体をより強く抱きすくめる。

 罪深い契りの儀式に酔い痴れ、生と死の狭間で至福の時を味わいながら、二人は互いに永遠を誓う。

 血塗られた自分達にはこれ以上ないほど、相応しい門出だと少女は思った。


「さあ、行きましょう。私の花嫁」


 名残惜しそうに首筋をひと撫でしてから、ジルの唇が少女の肌から離れる。

 はにかんだ笑顔でジャンヌが彼の意に応え、その力強い腕に導かれながら、新たな生を歩み出す。


 今、神の教えに対して最も忠実な徒であろうと、誰よりその身を律し、人々の願いと原罪の十字架を背負ってきた二人が、手を取り合って祭壇の前を後にする。

 供物の代わりに捧げられた、古びたロザリオを置き去りにして。


「──我らが英雄達の道行きに幸多からん事を」


 長い身廊を歩んでいた二人に、誰もいないはずの席上から声が掛った。


 声をたどり、視線を向けた先に立っていた人物を認めてジャンヌの目が見開かれる。

 その場に一人立っていたのは、ジルとジャンヌ、二人と共にこの大聖堂で奇跡を体験した、まだ若き日のシャルル七世その人だった。


 自らが彼らを祝福をするのに場違いな人間であるとシャルル自身自覚しているのか、端正な顔に微苦笑を浮かべながら、彼は立ち止った二人に歩み寄る。


「乙女よ──魔術師に唆されたとはいえ、俺がこれまで尽くしてきてくれたそなたや男爵にした仕打ちが赦されるとは思っていない。

 全ては俺の弱さが招いた事。いくらでも俺を恨んでもらって構わない。

 それで気が済むのなら、この場で八つ裂きにもされよう。

 だが、どうか──フランスを、そこに生きる我々の子達を憎まないでやってほしい」


 訴える王の気持ちに偽りはないのだろう。

 その言葉には切とした響きがあった。


「何も出来ない俺を、皆が支えてここまで永らえ、豊かになった国だ。

 願わくば、その身で今一度平和になった私達の故郷を見聞し、愛して欲しい」

「──陛下、どうかお顔を上げて下さい」


 慈母を思わせる微笑みを愛らしい顔にのせて、騎士の妻となった少女はかつての主君の手をとった。


「私もジルも、フランスへの愛や忠誠は変わりませんわ。

 いまや全ては過去の事。

 私達も陛下も、あの時代、自分達がやるべき事をやっただけです。

 陛下は立派に国王としての務めを果たされました。

 栄光の時代への礎を築いたのは、間違いなく貴方です。もっと自分を誇って下さいませ」

「……ふふ、これでは俺がそなたに祝福を受けに来たみたいだな、乙女よ──いや、もう乙女ではなかったな」


 困ったように笑うシャルルの横顔に常の怜悧さはなく、彼らしからぬ血の通った温かさがあった。

 ──あるいは、これがフランス国王ではない、本来のシャルルという繊細な青年が持つ素顔だったのかもしれない。


「男爵よ。これまでのフランスへの忠勤、まことに大儀であった。

 何につけ型破りな女の傍では、宮仕え以上に苦労も多いだろうが、幸の薄かった娘だ……幸せにしてやって欲しい」

「無論です。この命に代えても御命令は全うさせて頂きます」

「命令ではないよ。

 生き別れた妹を自分の手で殺してしまった愚かな兄かもしれない男からの頼みだ」

「………………」

「貴公が居なくなればジャンヌが泣く。その命はもはや貴公のものだけではないぞ。くれぐれも粗末にはせぬようにな」

「…………御意に」


 頭を垂れるジルの目元に光るものがあった。

 それは夢の中の幻に過ぎなかったかもしれない。

 しかし、この時。生前は決して通い合う事が無かった騎士と王、二人の心の間に、確かな絆が生まれたのを見て取って、少女は感慨を覚えずにはいられなかった。


「──それでは他の者達が出てこないうちに、俺はもう行く事にしよう。達者でな《アデュー》、我が家族達」



              ◆◆◆




 少しずつ伽藍の出口に近付くにつれ、また誰かの話す声が聞こえてくる。

 囁き声はやがて大きくなり、やがて豪快な笑い声や口笛に混ざり、わずかばかりの泣き声と、様々な感情が入り混じった賑やかなものになる。


「おお、出てきたぞ出てきたぞ……!」

「………………!」


 その声の懐かしさに、ジャンヌがジルに何か言いかけたその時。

 薄暗い聖堂の外に足を踏み出した二人は、高く上がった太陽の眩さに、一瞬視界を奪われる。そして──


「おめでとう、わが友よ。私からも心から祝福を」

「はっはっはっ!とうとう本性出しちまったな、このスケベ男爵!

 お望み通り、乙女に腰が抜けるほど搾り取ってもらったか?あとでゆっくり感想を聞かせろよな。

 よし、野郎共!俺達の乙女が晴れていっちょまえの女になったぞ……!祝え祝え!」

「ああ、ジャンヌ!少し見ない間にすっかり綺麗になっちゃって!

 やっぱり男からの愛は最高の美容よね~

 アタシも愛が欲しいわぁ~、ね~、ラ・イール隊長♪」


 今一度周りに広がる世界がこの目に映った時。彼等を迎えたのは、見知った人達の温かい表情。そして歓喜にあふれた声、声、声。


 ──リッシュモンが居る。

 ──ラ・イールが居る。

 ──ドーロンが居る。

 ──アランソンは……何やらこちらに背を向けて天を仰いだまま、ぶつぶつ呟いているのを、脇からデュノワがしかめっ面で突いていたが、まあいい。


 他にもジルやラ・イールに仕えた騎士団や傭兵団の面々、あのオルレアンやパリでの戦いで苦楽を共にした人達が、総出で二人を祝福に駆け付けていた。


「ジャンヌおめでと♪

 あのむっつりスケベに今度こそきっちり幸せにしてもらうのよぉ♪」

「ジャン……!」

「彼は甘え下手だからね。それとなく察して支えてやってほしい」

「……伯爵様……」


 二人してむさ苦しい男どもにもみくちゃにされながら、それでも戦友達が自分達を心から思ってくれている事に、ジャンヌは感激せずにはいられなかった。

 こみあげてくるものに、目頭が熱くなり、あわてて指で拭う。


「婚礼早々、泣かせてるんじゃないよ!この甲斐性ナシ……!」

「……い、言いがかりです公爵。く、くるしい……」

「おい、それ以上首を締め上げるといくら男爵でも苦しいだろ。少しは空気読めよアランソン」

「黙れデュノワ!君に私の何がわかるってんだ!」

「男の嫉妬はみっともないぞー、乙女を愛してるならお前さんも祝福してやれよ、公爵」

「わかっちゃいるさ!わかっちゃいるよ……!

 それでも……それでも……私の乙女が……私の乙女が……男爵のナニでアレされたかと思うと……ウワーンッ!」

「はぁ……それでも王家に連なる誇り高い公爵かね。

 我が身内ながら情けない」

「……政治的にも公爵にはかなり足を引っ張られましたからね……アルテュール……」

「まだいうかこの口はーッ!」

「女の子が主役の場で何時までじゃれ合ってんのこの馬鹿野郎どもは!いい加減にしなさい……ッ!」


 乙女の心に男の腕力を持つドーロンの一喝と拳が唸り、さすがのアランソンも大人しくなった。


「う……すまない……ドーロン殿」

「さあさ、花嫁が涙を流してお待ちよ。慰めておあげなさいな」


 二人して仲間達に背中を押しだされながら、ジルとジャンヌは顔を見合わせると、困ったように笑いあう。

 どうしようもなく幸せな気分に浸りながら。


「せっかくだ。

 司祭がいないのなら私が立会人になるから、皆の前で改めて誓いのキスをしてくれないかね?

 二人の仲を見せつければ、アランソン公も認めざるを得ないだろう」


 何やら楽しげにリッシュモンがもっともらしい事を言い出すと、周囲から歓声(と約一名の悲鳴)が上がった。

「いいぞ!」「やれやれ!」の大合唱に、ジルもジャンヌも引っ込みがつかなくなる。


「さあ」


 にこにこと押しの強い笑みを浮かべながら促すリッシュモンの声に、取り囲んだ皆が固唾を飲んで二人を見守っている。


「ジャンヌ……必ず幸せにすると誓います」

「はい」


 仲間達にはやし立てられ、照れ臭そうに微笑みながら、何度目かになるその言葉をジルが口にする。そして伸びた指先が小さくジャンヌの顎を上げさせた。

 神妙に答えた少女は、これを合図として静かに瞳を閉じる。


「おおお………………!」


 ほどなく唇の上に感じる柔らかな感触。周囲からの感嘆の声が大きくなり、割れんばかりの拍手が起こった。だが、ジャンヌにはもうアランソンの怨嗟も、ラ・イールの冷やかしも聞こえてはいなかった。


 ──今も幸せですけど、もっと幸せになりましょうね。ジル。


 心地よい喧騒に包まれながら、ただ、ただ、愛する人が傍に居る喜びを、彼の仕草の一つ一つを、ジャンヌはその胸に刻んでいた。

 おそらく唇を重ねている青年も同じ気持ちに違いない。


 そして呼吸すら忘れたように、二人は優しい時に微睡みながら、抱擁し続ける──



              ◆◆◆



「──お目覚めですか、ジャンヌ?」

「ん……っ」


 甘く囁くようにかけられたジルの声に、ジャンヌはゆっくりと重い目蓋を開けた。

 カーテンの隙間から淡く朝日が差し込んできている。


 未だ心地良い温もりに包まれたまま、彼の声を追うように身動ぎすると、肌を滑る布地の感触に思わず声を上げそうになった。

 その身にあの淑やかさと妖艶さが見事に融合した漆黒のドレスはない。愛する人と繋がった時と同じく、生まれたままの姿は、上掛けにくるまれているだけだった。

 身体のそこかしこに感じられる情事の名残に、二人で過ごした熱い時間の記憶が蘇ってくる。

 そこでの己の痴態の数々を思い起こして、少女の頬が赤くなった。


「お身体の具合は如何ですか?

 昨夜は我ながら少し浮かれ過ぎました。貴女が許してくれるのを良い事に、色々と無茶な真似を……」


 同じベッドの上でジャンヌに寄り添う彼もまた、一糸纏わぬ身で、雪花石膏の肌を惜しげもなく晒している。気遣わしげな言葉と共に、柔らかく細められたその眼差しに収まる瞳の色は、ジャンヌがごく見慣れた新緑が映り込む水面を思わせる深い碧のそれに戻っていた。


「え……あ、はい……

 まだ少し奥に何か挟まっているような……変な感じがしますけど……大丈夫です……」


 ぽつぽつと、記憶と共に身体の感覚を確かめながら、ジャンヌは答える。

 そうしていると、あの時肌の上に滑った彼の指の軌跡が反芻されて、性の悦びを覚えた身体は衣擦れの気配にすら浅ましくも火照り出し、胎の奥がじわりと熱くなった。

 そんな自分の様子に呆れつつも、漏れ出る溜め息すらどこか甘い。


 ……確かに、初夜にしてはお互いかなり思い切った事もした気がするが、そもそも彼が穏便に事を進めようとしてくれていたのを無理におし切ったのは自分だ。別にジルが謝る事はないと思う。それに……


「……とても、きもちよかったので……」

「………………」

「その……ジルは……私として……よかったですか……?」


 青年の腕の中で身体を丸めたまま、目を合わせる事も出来ずに、少女はその言葉を口にしていた。

 こんなことを相手に聞くのは、正直、顔から火を噴きそうなほど恥ずかしい。

 でも、自分の気持ちに偽りがないからこそ、少女は問わずにはいられなかった。


「ジャンヌ……」


 幼い新妻の発言に、ジルは一瞬、驚きに目を見張った。

 そしてしばしの沈黙の後、彼女の言葉が己の聞き違いでない事を認めると、青年の美貌に艶やかな微笑みが広がった。


「……ええ、貴女は本当に素晴らしかった。

 今日ほど自分が男で良かったと思えた日はありませんでしたよ」


 羞恥と期待に震える少女の額に、青年の優しい口付けが振る。

 ジャンヌは瞳を潤ませたまま、安堵したように微笑み返すと、最も欲しかった言葉をくれた彼の唇に己のそれを重ねた。


「まだ朝食までは時間がありますから。ゆっくりお休み下さい」


 夢の余韻にふわふわと霞んでいる視線のすぐ先には、穏やかに微笑む青年の美貌がある。


 互いの間に何一つ隠すものも遮るものもないこの状態がたまらなく幸せで、少女は彼の胸元に頬を寄せた。

 素肌から直に感じる彼の鼓動。この瞬間、自分達が確かに生きているのが確かに感じられて、込み上げてくるものに目頭が熱くなる。


 少女の心情を察してか、ジルは穏やかな沈黙を保ったまま、彼女の気持ちを宥めるように、その頬にかかる柔らかな髪を梳いている。

 青年の指先には、幼い新妻への誇りと深い労りが込められている。今、慈父のごとき表情で少女の髪を優しく撫ぜる彼の仕草からは、とても昨夜、少女と我を忘れたかのように激しく愛を交わした姿は想像する事は出来なかった。


 満ち足りた時間が二人の間を静かに流れていく。


「ジル……」

「はい」

「夢を……見ました。

 大切な人達……みんながそろって祝福してくれる、そんな素敵な夢を」

「……ええ、私も。

 アランソン公は不服そうでしたがね」


 ジルのその一言で、彼もまた、あの幸福な時間を共有していた事をジャンヌは確かめると同時に、夢の中での悲壮感溢れる公爵の表情を思い出し、二人は顔を見合わせ笑いあった。

 ああ騒ぎつつも、彼は彼なりに祝ってくれているのだろう。きっと。

 泡沫の幻にしては、今も言葉の一言一言すらはっきりと思い出す事が出来るその風景。

 不思議な奇跡は、あの中の誰一人欠けたとしても起こせなかったはずだから。


「──幸せになりましょうね、ジル」

「はい、ジャンヌ」


 夢で誓った言葉を、改めてジャンヌは口にしていた。ジルもすかさず応えを返す。


「これから、どうしましょうか」

「……そうですね。

 夢で見た黒いドレス姿も美しかったですが……私は、純白の花嫁衣装に身を包んだ貴女も見てみたい」


 さりげなく発せられた青年の言葉に、今度はジャンヌが驚いた。

 彼がこれほどはっきりと、他者の意見を伺う事無く、自らの望みを口にするところを目にした事がなかったからだ。


「やはり無垢な貴女には、何より白が似合うと私は思う」


 ひどく尊いもののように己を見つめ、微笑む青年の表情を、少女は感慨深げに見つめていた。


 自分が彼の愛を受けて生まれ変わったように。

 彼もまた変わり続けていく。二人とも生きているから。


「今の時代では、式を挙げなくても、好きな衣装を着て記念写真を撮れる場所が沢山あるようですから……そうだな、しばらく私も騎士業は休業する予定ですし、このまましばらく旅を続けるのもいいかもしれませんね」

「あ、でしたら私──」


 いつになく饒舌な青年の様子に、水を差すのを恐れながらも、ジャンヌがすかさず口をはさむ。


「一度ジルの故郷に──ブルターニュに行ってみたい、です」

「…………」

「い、いやですか……?」

「いいえ。貴女と一緒なら、どこへ行こうとそこは私にとって天国になりましょう。

 ……では、本場のガレットとシードルを楽しみに行きましょうか?」

「は、はい……!」


 感動的な空気の中、少女が元気よく答えた途端、どこからともなく、きゅるきゅると、緊張感に欠ける音が鳴った。

 真っ赤になって俯く少女に、ジルが噴き出した。


「あ……」

「……まあ、お互い一晩中良い運動をしましたから、私はともかく、貴女にはまず滋養のある朝食が必要ですね。

 そろそろ下に降りる仕度をしましょう」


 言って青年は先に身を起こすと、脇に置いたままになっていたバスローブに袖を通した。

 そして頬を赤らめたままの少女の身体を支え起こし、軽々と抱き抱えると、そのままシャワールームに向かったのだった。


 ──その日。


 相変わらず飲み物しか口にしないジルに対して、ジャンヌは終日に渡りその食欲を大いに発揮した。

 天使もかくやと褒めそやされた可憐な見た目に似合わず、成人男性も慄くような量の食事を朝食から平らげた彼女は、連れ添ういかにも貴公子然としたジルと共に、その場に同席した人間の注目をひたすら集め続けたのだった。



              ◆◆◆



「かくして……めでたく救国の聖女とその騎士は結ばれ、二人は末永く幸せに暮らしました……と」


 最後まで衆目の視線を集めながら、想い出深き場所となったホテルを後にした若い夫婦の姿を、やはり興味深げに見つめる姿がある。

 その男は読んでいた経済紙から目を離すと、彼等の背中を視線で追いつつ、端正な顔に人の悪い笑みを浮かべた。


「安っぽいフォークロアであればここで終わりだが、むしろ君の場合はこれからが大変だぞ。

 今はまだ誰一人知る由もなかろうが、彼女がかの聖処女だと知られるようになれば、人間であれ同族であれ、その奇跡に群がる輩は後を絶たないだろう。

 何しろ、その身は生ける聖遺物──賢者の石にして聖杯そのものだ──どれだけの価値がその小さな身体に集約されている事か。

 最も、今更その程度の試練に怖気付く君でもなかろうが」


 艶やかに整えられた黝い髪。底知れぬ力と知性とが湛えられた神秘的な蒼い瞳。そしてそれらが見事に調和した怜悧な美貌に古風な片眼鏡が印象的である。今は仕立ての良い三つ揃えに身を包んだその長身は、遠い昔、ごくありふれた簡素な修道服を纏っていた事もあった。

 歴史ある迎賓館のロビーの一角、不可思議な存在感を示す紳士に、それまで置物のように身動ぎ一つせず脇に控えていた老執事が、主人にそっと耳打ちする。


「──ああ、すまない。

 せっかく日本に来たんだ。どうしても可愛い息子達の姿を見たくてね。

 しかしまあ、これ以上、経団連の幹部とか言う御仁を待たせて、我が社の評判を下げるわけにもいくまいな。

 我々も行くとしよう」


 もはやその視界から完全に消えた彼等に、伝説の中にのみ隠れ潜むはずの〈黄金の王〉が言祝ぐ。


「彼女の存在をめぐって、またどれだけの命が君の舞台で踊るのだろうな──私は楽しみでならないよ。

 では、我が愛し子よ。君が私と並び立つ、来たるべき約束の時に、また会おう──」



              ◆◆◆



「ねえ、ジル」

「……なんですか?ジャンヌ」


 移動につかっているバイクが止めてある駐車場に向かう道中、ジャンヌがジルの袖を引きながら、上目使いで呟いた。


「えっと……私、もう貴方の奥さんになれた……んですよね……」

「ええ、私はそのつもりですが」

「だったらその……もう敬語はやめませんか?ジルは旦那様なんですし……そもそも私の方が年下ですし……」

「ふむ。確かに……そうかもしれませんね。

 ただ、私にとって貴女は尊崇の対称でもあるので……すいません、まだ違和感が……

 ああ、でしたらジャンヌ。貴女も私に敬語を使うのをやめて頂けますか?」

「えっ !? そ、そんなの無理です……私」

「でしたらお相子です。

 お互い、自然に呼び合えるようになるまで、待つ事にしましょう」


 二人して苦笑いした後、ジャンヌの指先がそっとジルの手に絡む。今度はジルも拒まなかった。

 自然に手を繋いだまま、またしばらく歩く。


「……ジル」

「はい」

「愛してるわ。だからもう私を置いていかないでね」

「ああ、約束する。君を絶対に離さない」

「……ふふ、やっぱりちょっと恥ずかしいですね」

「そうですね」


 ままごとのようなやりとりがくすぐったい。

 実際、まだ結ばれたばかりの自分達は、傍から見ればままごとの夫婦に過ぎないのだろう。

 それでもいい。

 いつか、こんなやりとりをした事も、笑いあえる日が来るまで。

 ずっとこの人と連れ添いたい。


「さあ、ジャンヌ。しっかりつかまって」


 手渡されたヘルメットを被ると、ジャンヌは大型バイクの後部に設えられたシートに腰を下ろし、ハンドルを握るジルの腰に手を回す。

 中には恐がる女性もいるだろうが、風を切る感覚が馬に乗っていた頃を思い出すこの乗り物が、ジャンヌはいたく気に入っていた。


 それは騎士の青年も同じらしく、最高時速300キロを超える新たな愛馬は彼のお気に入りだった。


「……ジル、あまりスピードを出し過ぎないで下さいね」

「善処します。

 ただ、どうにも気持ちが高ぶっていますので、どこまで抑えがきくか……」

「もう!せっかく生き返ったばかりなのに、また天国に出戻るとか嫌ですよ!私は!」

「ははは」


 軽やかな笑いを残して。

 かつて一つの国を、そこから続く世界を救った騎士と聖女が、新たな冒険へと旅立っていく。


 これより先、彼等が紡いでいく物語が、果たしてどのような色合いを見せるのか、それはまだ誰にも分からない。

 しかし、奇跡を宿す聖女の心には、微塵の不安も無かった。


 「私が帰りたいと思うのは……貴女の下だけです。ジャンヌ」


 あの日、彼は自分に言った。

 彼女がいるその場所こそ、自らの〈還り着く場所〉であると。

 そして、彼女にとっては、彼がいる場所こそ自らの約束の地に他ならない。

 ゆえに、こうして二人が共に在る限り、世界は何時でも〈楽園〉なのだ。


 鋼の黒馬が刻むエキゾーストノートに合わせて、自らの鼓動も早くなっていくのを感じながら、これでは彼の事は言えないな、と内心、ジャンヌは笑うのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る