悪魔崇拝

 俺の言葉を聞いて、マガール牧師は初めて動揺するような素振りを見せた。

 無理もない。当事者である俺ですら、未だに何かの間違いではないかと思っているんだから。


「……『これ』です……」


 口で説明するよりも、実際にと思い、汗に濡れたシャツの肩部分を引き下ろした。

 外気に晒される俺の左肩。上腕の付け根の部分。そこに刻まれた『烙印』を見て、牧師は驚愕に目を見開いた。

 焼け付いた黒いマーク。長い角の生えた山羊頭と、五角形の魔法陣のような紋様がくっきりと浮かんでいて取れない。

 決して消えることのない、俺が奴らの『所有物』である証。


「……悪魔崇拝の印……! 『サタニズム』か……!」


 シャツで再び左肩を隠すと、牧師はヒカリの方へ目線を移す。

 ヒカリは美味しそうに乾パンを食べている。

 俺は彼女の『背中』を、優しくさすってやった。


「……悪魔に忠誠を誓い、奴らの『モノ』になれば殺されずに済むんだ。だけどその代わり、毎日少しづつ血液を抜かれ……。毎月一人、『生贄』を捧げなきゃいけない。タクシーの運転手、赤ん坊の身代わりになった母親、売れない俳優をやってたお兄さん、糖尿病の婆さん、耐えられなくて気の触れた政治家、自ら志願したおばさん……。そしてヤツらは今月……ヒカリを生贄に選びやがった……! 人間の子供を、よくも……!」

「……お前達以外にも、悪魔を崇拝することで生き残っている人間が、まだいるのか?」

「50人くらい……。でももう皆、目が虚ろで……。正気を保っている人なんて、ほとんどいない」


 東京スカイツリーの周辺に作られた『収容所』。俺達はそこで半年間生きてきた。

 東京崩壊の際に逃げ遅れ、悪魔達に殺されることもなく捕まった。『狩猟』だったのだ。俺達は、山中を走り回る野ウサギやシカのような存在だった。


 そして真っ赤に燃えた鉄の棒を、俺は左肩に押しつけられた。あの日の激痛は、今でもよく覚えている。忘れることなど一生できそうにない。

 そうして俺は、悪魔達に血液を供給するだけの『家畜』に成り下がった。

 ただし俺は、魂までは悪魔に売り渡さなかった。ヒカリの存在も大きかったと思う。

 俺とヒカリの間に血縁関係はない。半年前までは赤の他人同士だった。だが今は、本当の妹のような存在だ。大切な家族だ。ヒカリの純粋さに、何度も助けられた。だからこそ、『二度も』家族を失うわけにはいかない。


「なぁ、牧師さん……! 助けてくれよ……! もうあの場所には戻りたくない……! この東京から、悪魔達から逃げたいんだ! アンタ強いんだろ!? 俺達を、地獄みたいな『ここ』から助けてくれ……!」


 マガール牧師という人は、顔は怖いが優しい人物であると、もう分かっている。そうでなければ、俺達を助けたり食料を分け与えてくれたりなどしないはずだ。

 俺はその優しさに報いることも考えず、ただ一方的に助けを求めた。

 その時のマガール牧師の顔は、今までに俺が見たことのない種類の表情をしていた。人は、こんなにも複雑な感情が同居した顔を浮かべることができるのかと思うほど。


「……この眼鏡をかけていた日本の軍人。アイツは、お前らを助けようとして死んだ」


 ドクンと、心臓が跳ね上がる。

 バフォメットの斧に頭部を裁断された福原さんの最期を、血に濡れる自衛隊服を思い出して、胃にしまった乾パンを吐きそうになった。


「悪意がなくても、無力は人を殺す。お前達を責めるわけじゃない。だが、ガキ二人を抱えた状態で『助けてやる』なんて言えない。俺は俺を生かすので手一杯だ。……俺は、英雄でも救世主でもない」


 少し考えれば――いや、考えずとも分かることだった。

 俺は自分の思慮の浅さに、押し黙る事しかできなかった。


「……俺は今でこそ英国国教会の牧師という立場だが、ベテランってわけじゃない。イギリス軍特務部隊『ゲルニカ』……精鋭を集めて結成された傭兵部隊だ。俺も少し前までは、そこに所属していた。聖書を読んでいた時間より、戦場で銃を握っていた時間の方が長い人間なのさ」


 傭兵。通りで、牧師さんにしては修羅場慣れしているというか、死線をくぐってきた戦士のオーラを放っているわけだ、と納得した。


「だがゲルニカの部隊員達は……屈強なネパール民族を先祖に持つ『グルカ兵』の戦士達は、東京に降り立ってからひと月で壊滅した。もう生き残りは俺だけだ。……ここはそういう場所なんだ。今まであちこちの戦場を渡り歩いてきたが、俺から見ても、ここはもう戦場ですらない。本当に……ただの地獄だ」


 希望だとか期待だとか、そういったものが全部、身体から抜け落ちていく感覚がした。気の抜けた俺は、手に持った水を落としそうになった。


「水も食料も今渡したので最後だ。もう備蓄も何もない。悪魔に対抗する武器は、この『リー・エンフィールド』ライフルしかない。奴らに有効な純銀の弾丸も、残りはたったの13発。……こういうのを、この国では『縁起が悪い』と言うんだろうな」


 ならばもう、絶望しかないじゃないか。せっかく逃げ出せたのに、やはり俺達は助からないのか。


「……だが、希望はある。どんな時でもだ」


 俺はゆっくりと顔を上げる。

 牧師の瞳は相変わらず鋭くて、そして光を失ってはいなかった。


「ここから南西へ向かえば、新横浜駅という駅があるそうだ。そこに行けば、保護して貰える可能性はある。俺はお前達ガキを抱えたまま東京に残れない。だから脱出するんだ。確率は低いが、悪魔共に見つからず移動できれば、お前達は生き延びることができるかもしれん」


 再び湧いてきた微かな希望。精神的に弱っていた俺には、その言葉だけでも心強い。

 可能性はいつだってゼロじゃない。きっとできる。命からがら、あの劣悪な収容所から逃げ出せたんだ。

 そうだ。諦めてたまるものか。俺は生きるんだ。ヒカリとマガール牧師と共に、逃げきってみせる。


「……!」

「牧師……?」


 ふと、牧師の表情はより険しくなった。何かを察知したようだ。

 牧師は立ち上がり、教会の割れた窓ガラスから外を確認する。その眉間には、深い皺が刻まれていた。


「……お前達、隠れていろ」

「え……!?」

「――複数の足音だ」


 牧師はすぐに俺達を首のないマリア像の裏へ隠し、単身、壊れた教会の真ん中に立つ。

 俺は恐怖と不安に押し潰れそうになりながら、ヒカリの手を強く握って口元も押さえてやる。事態を把握できていないヒカリには、「かくれんぼをするんだ。だから静かに」と言って誤魔化した。


 しばらくして、本当に外から何人もの慌ただしい足音が聞こえてきた。

 教会の扉を荒々しく開け放つ侵入者達。何十人もの人間が、全員黒いフードとドクロの仮面を付けた姿だった。


(アイツら……!)


 その姿には、よく見覚えがあった。忘れるはずがない。俺とヒカリは、悪魔共の飼い犬と化したアイツらから逃げてきたのだから。


「……ここに子供が二人、逃げ込んだだろう」

「さぁな。……礼拝の時間は過ぎている。ここには見ての通り、しょぼくれた牧師さんしかいない」

「下手に匿えば、お前もサタン様の裁きを受けるぞ……! 我が主様達にこうべを垂れ、服従するなら……! 永遠の安息が与えられるがな!」


 その言葉にマガール牧師はため息を吐き、ボリボリと首筋を掻いた。


「……どうして宗教ってのはどこもかしこも、すぐに『永遠』を持ち出すかね……。弾丸一発撃ち込まれたら、悪魔も人間も死ぬってのに」


 黒いフードの悪魔崇拝者達は充血した目に、あからさまな怒りを浮かべる。そして手に持った鉄パイプや農具、中には日本刀まで持った奴らがその武器を振りかざす。

 しかし牧師の背中からは、動揺した様子など微塵も感じ取れない。冷静さの中に燃える闘志。そんな印象だ。


「来いよ素人アマチュア共。本物の『戦闘』を見せてやる」


 そう言って牧師は丸眼鏡を押し上げ、ライフル銃の銃口を連中に向けることなく逆手に持ち、棍棒のように握って駆け出した。

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