第二十八話:弟子入り志願 その弐
翌日になって土曜日の朝。
壬生翔一郎は、実に不本意な寝起きを迎えた。
自室内に不法侵入してきた眞琴の手によって、無残にも叩き起こされたのである。
毎度のことながら、眞琴はそうした一連の流れをまったくためらわずに実行する。
もちろん今回だってそうだ。
翔一郎のほうも彼女の襲来が迷惑ならそれに対する備えをしておけばいいものを、面倒なのかどうなのか、自室に鍵のひとつも付けないのだから、少女の手で意図せぬ起床を強いられる件に関しては、半ば自業自得であるとも言える。
「ふが」と、とても妙齢の娘には聴かせられない奇声を発し、翔一郎は覚醒する。
寝癖でくしゃくしゃな頭髪と顔を出し始めた無精髭が、普段以上に情けない風貌を作りあげていた。
「莫迦野郎。いったい何時だと思ってんだ?」
ぶつくさと不平をいいながら、翔一郎は半身を起こした。
このあたり、さすがに年寄り臭いと思える動きだ。
少なくとも、はつらつとした朝にふさわしくはない。
「『何時だよ?』って、翔兄ぃ。もうとっくに朝の十時だよ」
そんな翔一郎に向けて、開口一番、眞琴は言った。
「忘れてたでしょ? 今日は、ボクの愛車が納車される日だよ」
言われてすぐに翔一郎は気付いた。
ああ、そうか。
そう言えば今日は、眞琴のクルマが猿渡家にやってくる日だったっけ。
赤色のホンダ「CR-X」
高校生活を通じて眞琴自身がアルバイトで稼いだ報酬、そのほとんどすべてを費やして買った、彼女ただひとりのためのクルマ。
そんな代物がとうとう自分の手元にやって来るのだ。
嬉しくないはずがない。
ただでさえどこか子供じみたメンタリティーを持つ眞琴が遠足前の小学生気分だったことぐらいは容易に想像が付く。
よかったな、おめでとう。
いや待て、問題はそこではない。
起きがけの惚けた頭でも、翔一郎の頭脳はそう結論づけた。
眞琴のクルマが納車されるのと、俺が朝っぱらから叩き起こされるのと、いったいなんの因果関係があるってんだ?
半分閉じたまぶたを擦りながら、翔一郎は眞琴に尋ねた。
「そんなの決まってるじゃない」
その問いかけに眞琴がすぱっと即答する。
「翔兄ぃがボクにドライビングを教えてくれるからだよ」
「なんだって!」
翔一郎は仰天した。ほとんど反射的に反論の言葉が口を突く。
「いつ俺がそんなことを言った? 勝手に俺の都合を決め付けるな!」
「翔兄ぃじゃないと駄目なんだよ」
少し唇を尖らせて眞琴が詰め寄る。
「ボクは、翔兄ぃのテクを翔兄ぃ自身に教えてもらいたいんだもん」
「だから、なんで俺が」
「弟子に経験を伝えるのは師匠の役目でしょ?」
弟子?
師匠?
何を言っているんだ、コイツは。
翔一郎の思考が困惑するのを知ってか知らずか、畳みかけるように眞琴は告げた。
「は~い。『ミッドナイトウルブス』参号機の弟子、第一号で~す」
右手を高々と掲げて名乗りをあげる眞琴の姿を目の当たりにして、翔一郎は頭を抱える。
ああ、なんでこんなことになっちまったのか。
猿渡眞琴という少女は、一度言い出したら聞かない娘だ。
そしてそのこと自体は、翔一郎にとっても重々承知の事柄だった。
それでも当初、これ以上のやっかい事を抱え込みたくなかった彼は、敢然と彼女の意向を拒絶するつもりであった。
あえて強弁を用いず、ひとまず中立的な立場にある眞琴父へ仲介を持ちかけたのは、それが最良の選択だと信じたゆえの行動だった。
しかしながら、その眞琴父から逆に依頼をされてしまったとあっては、さすがの彼もそれを断り切ることができなかった。
思い返せば、このひとには自分が峠の走り屋だった時分を、すなわち朝から晩までクルマ漬けだった頃を知られているのだ。
それが単に「翔一郎君はクルマのことをよく知っているからねェ」程度の印象であったとしても、彼が「どうせ愛娘を預けるならば近しい者に」という心情を抱くことぐらい、予想してしかるべきであった。
一番話を聞かせてはいけない人間にあえて話を持ち込んだことを、心底後悔する翔一郎であった。
やれやれだ。
昼過ぎに納車された赤い「CR-X」を前に、翔一郎はため息をついた。
「まったく、俺は教習所の教官じゃないぞ」
わざと聞こえるような愚痴をこぼしてから、翔一郎は眞琴の運転とやらを確認するために「CR-X」の助手席へと乗り込んだ。
見ると、眞琴のほうは初めての愛車に浮かれまくっている。
地に足が着いていない状況とは、まさにいまの彼女にこそふさわしい表現だ。
まぁ、その心情は理解できるけどな。
翔一郎はむかしを思い出して苦笑した。
当時の自分といまの彼女とを、あるいはどこかで重ね見ていたのかもしれない。
「まずは、近くをふらっとひと回りだな」
とりあえず心の底から気乗りしていない風体を装い、翔一郎は眞琴に告げた。
「ドラテクどうこうの話は、そのあとで聞こう」
了解しました、と敬礼した眞琴は、早速エンジンのスターターを回した。
「CR-X」の心臓に火が入り、軽快な排気音が空気を揺らす。
始動は大丈夫だな。
エンジンのアイドリングにも異常はない。
古いクルマだからそれなりにいろいろくたびれてはいるだろうが、まあいまのところは気にしないでもいいだろう。
オイル交換など、水モノのメンテナンスに関してはいずれじっくり講習するとしてだ、まずは乗ってみてアラ出しするほうを優先しよう。
シートベルトをロックしながら、翔一郎は漠然とそんなことを思いやった。
しかしまあ、思えば眞琴も無茶をする。
試乗もせずに、よくこんなクルマに有り金はたく気になったもんだ。
いかに点検整備簿付きワンオーナー車とは言え、累計が二十万キロに迫る過走行。
たとえ車両本体価格が十万を切る激安物件であったとしても、普通ならまず間違いなく二の足を踏んでしまう代物だ。
欲しいクルマの方向性と財布の中身とを吟味すれば、ほかに選択肢がなかったというのも事実だったんだろうけど、それにしたって──…
「もう少しマシな買い物ができたと思うんだがな」
「えっ? いま何か言った?」
「いや、なんでもない。こっちの話だ」
思わずこぼれた心の声をごまかすため、翔一郎は真顔で言った。
「シートの位置を調整しろ。着座位置を自分の体に合わせるのは、スポーツドライビングの基本だぞ。あとステアリングの高さもだ」
それは奇しくも、十五時間ほど前の八神街道において、彼が高山正彦にレクチャーした内容とほとんど同一のそれであった。
腰は深く沈めろ。背もたれは心持ち立て気味に。まっすぐ伸ばした両の手首がステアリングに乗るくらいの位置でセットするんだ、と具体的な対応を矢継ぎ早に命じる。
シートベルトの着用は、当然のごとくチェックポイントだ。
押忍です、師匠!、と元気はつらつ、眞琴はそれに従った。
いつもと違って妙に素直なその態度に少しばかりの違和感を覚えながらも、続けて翔一郎は発車を指示した。
ただし、きちんと周囲を確認したうえでのゆっくり発進である。
クラッチを踏む左足をゆっくりと離し、クルマが前に出ようとするタイミングを感じてから徐々にアクセルを開けるよう、翔一郎は眞琴に告げた。
まだ数えるほどしかクルマを運転していない彼女の発進シークエンスは、とてもスムーズなものとは言えなかった。
とは言え、クラッチ操作を誤ってエンジンをストールさせたわけでもなく、初心者レベルのそれとしては、まず及第点を与えてやっても構うまい。
その点に関しては、昨日の高山も同様だ。
やはり運動競技をやっている人間はドライビングに必要なセンスも磨かれているんだろうな。
ふと、そんなことを思ってしまう翔一郎であった。
「CR-X」が公道に出た。
それは、眞琴にとって自分のクルマでの初ドライブとなる。
「翔兄ぃ、次の指示は?」
心底楽しそうに眞琴は尋ねた。
そこに、若葉マーク特有の緊張感は微塵も見られない。
そんな彼女に翔一郎は言った。
「そうだな、とりあえず近くのコンビニで買い出しするか」
なんとも気の抜けた口振りでそう応えた翔一郎に、眞琴は「え~ッ」っと不満を口にした。
「どうせなら八神街道でも走ろうよ」と自分の意見をこぼしてみせる。
「まずは軽くひと回りだと言ったはずだぞ」
今度は鋭く、翔一郎は言い切った。
「俺の指示に従えないなら、レッスンはなしだ」
はぁい、と返事はしながらも、眞琴はがっくり肩を落とした。
そう言えば高山君も、初めて俺の出した注文に同じ態度をしてみせたっけ。
昨夜の個人講習会を思い出し、翔一郎はほんのわずか、その口元を綻ばせた。
◆◆◆
「まずは、制限速度をきっちり守って八神の表と裏を往復してみせろ」と、翔一郎は高山に告げた。
「初心者だからって莫迦にしているんですか?」と抗議する少年に、「俺の指示に従えないなら、レッスンはなしだ」と、はっきり言い切る。
「ドライビングに近道はない、と、さっきちゃあんと言ったはずだけどな」
ですが、となおも食い付こうとする高山を翔一郎は片手で制した。
「文句があるなら、終わったあとで聞いてやる」
有無を言わせず彼は告げた。
「ただし、こいつが簡単にできるもんだと考えてるなら、そいつはとんだ大甘だぞ」
わかりました、と肩を落として「プリメーラ」へ乗り込む高山に続き、翔一郎もその助手席に乗り込んだ。
着座位置の調整とシートベルトの着用を確認し発進を命じる。
八神街道の制限速度である時速五十キロでのクルージング。
それは確かに、誰だってできる簡単な試練だと思える。
しかしこの時の翔一郎が指示したものは、「時速五十キロ以下」での巡航ではなく、可能な限り「時速五十キロを維持して」の巡航であった。
この最初のレッスンにおいて高山は、教官である翔一郎から完全なる赤点を突き付けられた。
彼は、途中に何カ所かあるヘアピンはともかく、平均程度のコーナーでも課題の速度を維持できず、逆に下りの直線では、重力に負けて速度が付き過ぎるという失態を犯したのである。
「初心者の走りなんて、こんなもんさ」
わざと挑発するように翔一郎は言い放った。
「当然だろ? 君はまだクルマという乗りものに乗ったばかりの赤ん坊なんだから。よちよち歩きがやっとの子供にスプリントの練習をやらせたってうまくなるはずがない。と言うより、もとよりそんなことができるはずもない。そいつはまったく自明の理だ。
だからさ。俺はまず、君に立って歩くことそのものを教えるつもりだ。実際に走る練習は、その次の次ってとこだな」
「理解してくれるかい?」と続ける翔一郎に、高山は「はい。よろしくお願いします」と頭を下げてそれに応えた。
さっきまで彼の態度に見え隠れしていた不信感は、ものの見事に払拭された様子であった。
それからの高山は、翔一郎に言われるがまま、夜の八神街道をそれこそ何往復もした。
長時間の緊張を持続できるのは、やはり若さゆえの特権だろうか。
途中で強い疲労感を覚えた翔一郎だったが、結局深夜までこの少年に付き合った。
初心者ならではのガクガクした加減速に頭を揺らされつつ、なお的確な助言を送り続けられたのは――翔一郎本人にとっても意外なことだったが――それがなかなか楽しい時間だったからにほかならない。
最後の締めは、八神街道を二本の足で歩くことだった。
ジムカーナ競技などではごくあたりまえに行われている、完熟歩行という行為である。
ゆっくりとコースを歩くことで、クルマでの走行中にはわからなかった舗装の継ぎ目や凹凸、道路の傾斜などが見えてくるのだ。
翔一郎が高山を帰宅させたのは、おおよそ日付の変わる時刻であった。
未成年を午前さま帰りにしてしまったことに対して、軽く謝罪の言葉を述べる。
「いえ、物凄く勉強になりました」
帰り際、高山は深々と、本当に深々と頭を下げた。
「こちらこそ、僕のわがままにお付き合いいただいて、ご迷惑をおかけしました」
「いいさ」
翔一郎は、軽く右手を振ってそれに応えた。
「若いうちはなんでも経験してみることが大事だよ。少しぐらいオトナに寄りかかったからって気にするな」
それに、と翔一郎は続ける。
「賢く行く道を選んであとから後悔するよりも、勢いだけで足を踏み出してずっこけるほうがはるかにマシさ。失敗するってのも、何かに挑んだ結果として初めて手にする勲章だと思えば、何ほどのことでもない。
君がこの件で何を得ようとしているのかは知らないけれど、とにもかくにも勇気をもって手を伸ばしたんだ。それを説教臭く否定できるほど、俺も人間ができちゃいない。背伸び上等。頑張りな」
「ありがとうございます」
高山は、そう言ってふたたび頭を垂れた。
他人の好意に鈍感な翔一郎はまったく気付いていない様子だったが、この時の高山の眼からは明確にある種の敬意が感じ取られた。
次回の講習は土曜日、つまり翌日の夜に決まった。
翔一郎としては可能な限りの密度で高山に付き合うことに異論はなかったが、さすがにいち社会人として仕事を持つ身、毎日というわけにはいかない。
とはいえ、鉄は熱いうちに打てという格言のとおり、短期間にできるだけの時間を投じてやろうという気になっていたのも事実であった。
まあ、週末ぐらいは身体を開けておいてやろう。
ヒマを持て余して昼寝しているよりは何十倍もマシだろうしな。
そう考えて心の準備をしていた、そんな矢先に起きた眞琴の襲来だ。
翔一郎としては、いきなりふたりの押しかけ弟子ができた勘定となる。
思わずため息を吐きたくなるような事態だ。
ただし、その心情はいま見せた態度とは真逆の方向に動いていた。
助力を求められたことに対するやりがいとでも言おうか。
無意識のうちに、ある種の思いが腹の底から込み上げてくる。
綻びかけた口の端を眞琴に悟られぬよう、翔一郎は窓の外に顔を向けた。
気が付くと、眞琴の運転する「CR-X」は近所のコンビニエンスストアに到着する寸前だった。
「ブレーキを踏む時は、今後なるべく踏み代を一定にしてみろ」
待ってましたとばかりに翔一郎は注文を付けた。
「それで、きちんと目標位置で止まれるようにするんだ」
OK、と眞琴は返事して、白線で表示された駐車位置へとおのれの愛車を向かわせる。
さっそく翔一郎のレクチャーに従ってか、ゆっくりと真っ赤な「CR-X」は停車した。
「思ったよりも緊張するね」
エンジンを切り、シートベルトを外すや否や、眞琴はそんな第一声を放った。
「そりゃそうさ」
翔一郎がそれに応える。
「だから、初めは自分のクルマに慣れることから始めなきゃな。おぼえることはたくさんあるぞ。街乗りだからって莫迦にできないんだ」
言い終えると彼はそのままクルマを降り、ペットボトル飲料を二本買ってきた。
一本を運転席の眞琴に手渡す。
お茶だ。
テレビCMでよく見る、有名どころの緑茶飲料。
翔一郎自身はお気に入りの甘いカフェオレを選んでおり、座席に腰を落ち着けると同時にひと口それを口にした。
「しかしな――」
唐突に翔一郎は嘆息する。
「なんで走り屋なんぞになりたがるかねェ。ろくなもんじゃないのは、世間の評判からみてわかっているだろうに」
「翔兄ぃにだけは言われたくないよ」
その発言にカチンときたのか、眞琴がぷっと頬を膨らます。
「その走り屋だったじゃない、翔兄ぃ自身が」
「そりゃそうだが」
眞琴の舌鋒を軽くいなして、翔一郎は続けた。
「走り屋だったからこそ見えてくる悪い面だってあるのさ。雑誌や漫画では格好良く描かれちゃいるが、あれは負の面を描かないからな」
「負の面?」
「クルマは時には凶器になるってことだよ」
珍しく真顔になって翔一郎は告げる。
「無茶やって怪我をするのが自分だけなら、そいつはあくまで自己責任の範疇だ。けれどな、クルマの場合、ドライバーの無茶は自己責任で済まないこともあったりする。優れた運転技術や派手なパフォーマンスなんかに目を取られて、運転の基本を忘れたのが多いからな、走り屋は」
「運転の基本?」
「自分の技量の範囲内でクルマを制御することさ。コイツを逸脱して莫迦な真似をすれば、クルマは、あっという間に走る凶器に早変わりだ」
ふたたびペットボトルを口に運び、翔一郎は眞琴のほうに目をやった。
「言っとくが、俺のレクチャーは滅茶苦茶地味だぞ。それでもいいっていうのなら、今回だけは特別に弟子入りを認めてやる」
「望むところだよ」
勢い良く眞琴は応えた。
「それって要するに、基礎体力付けろってことでしょ? 競技じゃそんなのあたりまえじゃん。翔兄ぃは体育会系を舐め過ぎだぞ!」
鼻息荒く一気にそう言い放った眞琴を目にして、翔一郎は呆れたように天を仰いだ。
ただし、その仕草はいささか芝居がかってもいた。
「ならば行こうか」
翔一郎は眞琴に告げた。
「何はともあれ、まずは実際にクルマを運転することから始めないとな」
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