第十三話:伝説の帰還

「教えてくれ。俺の何が足りなかったんだ」

 約束の履行を求めに芹沢のもとへ足を運んだ翔一郎に向け、彼は絞り出すような声でそう尋ねた。

 その憔悴しきった表情からは、信じられない結末をいまだ受け止められずにいる悔しさが手に取るようにうかがえる。

 だが発せられた第一声を耳にした翔一郎は、その言葉を彼の持つ走り屋としての矜持の表れだと受け取った。

 なんとも好ましい限りだ、と彼は思った。

「君が俺に劣っているところなんて何もないよ」

 あっさりと翔一郎は言い切った。

「腕前もクルマの性能も、間違いなくそっちのほうが数段上だった」

 それがある種の皮肉に感じられたのだろう。瞬時に芹沢が激高する。

 だったらなぜ、と、いまにも掴みかからんばかりに翔一郎を睨みつけた。

 負けん気の強さは競技者として大事な要素だ。

 ますますいい。

 不思議と湧き上がってくる彼に対する好感を弄びながら、翔一郎は言葉を続ける。

「勝敗を決めたのは、そういうのが原因じゃないってことさ」

 可能な限り感情を込めることなく、彼は語った。

 バトルの開始前、そう、翔一郎が代役を申し出たその瞬間から、すでに「戦い」は始まっていたのだと。

「ソフトとハードの両面で勝る相手に正攻法で勝つなんて、実際のところ不可能だ。

 だったらどう戦えばいいのかに、まず知恵を絞らなくちゃいけない。

 俺には事情通の友人がいてね。君のクルマが八神を走っていなかったってのは、前もって耳に入ってきていたんだ。それがどうしてなのかはあえて問わないけどな。とにかく君の現地での走り込みが足りないだろうってことぐらいは、そのことから容易に察することができたわけさ」

 翔一郎は、ひと言ひと言を言い含めるよう芹沢に接した。

「ドライバーの腕が自分より優れているのなら、それを発揮させなければいい。少なくとも君が自分の勝利に絶対の自信を持っていることは明白だったから、あとはそれを裏付ける状況をこちらから与えてやればいいだけの話さ。

 人間なんて単純なもので、勝ちが約束された争いごとに全力を尽くす奴なんてほとんどいない。もし君がそうじゃないひと握りの人間だったなら、不慣れなコースを舞台にして地元のベテラン相手に大勝負を挑むなんて真似をするわけもない。

 俺が代役を申し出た時、目の前に無造作に差し出された情報から、君は『このバトルは楽勝だ』って確信したはずだ。違うかい? そしてこっちの予想どおり、君は全力を出すことなく遊んでくれた。実際に俺の走りを確認していたわけじゃなかったのにね」

 芹沢は息を飲んだ。

 この男は、周囲から――味方からのものも含めて――嘲笑される屈辱をあえて味わいつつ、それでもなお自分自身の情報を徹底的に隠蔽。

 対戦相手の油断を誘ったうえで、その隙を突いたと言うのだ。

 しかもそれは、すべて事前の計算に基づいて行われたのだ、と。

「序盤戦でぶっちぎられていたら、いくらなんでも逃げ切られただろうな。でも、君は遊んだ。真剣勝負で」

 翔一郎が言葉を紡ぐ。

「君にとっては遊びだったんだろうけど、こっちにとっては負けられない戦いだった。手なんて寸分も抜けない。中盤戦で君に追いつけたのは、そういった意識の差だよ。

 そして、それは君にとっては想定外な現実だったろう。俺が『戦える腕の持ち主』だったなんて、君はちっとも予想してなかっただろうからね。

 後続する対戦相手が想像以上の実力を持っていることを知った君は、初めてこれが『バトル』なんだって気付いた。勝敗がかかっているんだと。

 にもかかわらず、君には相手の実力がさっぱりわからない。当然さ。君にとって、俺は単なる素人のオッサンだったわけだから。それが、自分の後ろを突っ付いてくるなんて、君の想像の範疇にはなかったはずだ。

 まあ、不意打ちの一種だね。そして、君は人間の心理に則って俺のほうに意識を向けるようになる。これも一般心理だよ。そうなることは、結構簡単に推測できた。

 ただでさえ八神に精通していない君は、後ろからくる俺の存在に気を取られ、次第に走行ラインが乱れていく。それは君自身、自覚していたんじゃないのかい?

 そして、終盤戦――」

 翔一郎は、ここでいったん言葉を切った。

 無言で佇む芹沢の脳裏に、あの「コークスクリュー」での一件が鮮明に蘇ってくる。

 速度の乗る直線で背後から浴びせられたハイビーム。

 反射的に前方から引きはがされた注意力。

 集中力の散漫が引き起こした空白の刹那。

 そして、それによって誘発させられたコーナリングラインの膨らみ――アンダーステア――をあたかも予想していたかのごとく完璧に実施された慣性ドリフトからのオーバーテイク。

 すべては――そうすべては、あの一瞬を呼び込むための布石だったのだ。

 ビジネス誌に掲載されている心理戦・情報戦などという言葉が、まるで子供の戯言にすら聞こえるくらいに血の通った実戦の駆け引き。

 それは、あたかも高名な哲学者が論ずるひとの世の生きた理のようですらあった。

 芹沢も、「カイザー」の面々も、そしていつの間にか彼らを取り囲むように集まっていたギャラリーたちも、誰もが皆、ひと言も発することなく翔一郎の言葉に聞き入った。

 ひとりとしてその言葉の本質を理解することはできなかったが、しかし、すべてを納得せざるをえなかった。

 目の前で起きた現実を強制的に受け入れなくてはならない状況。

 「魔術」

 そう、それはまさに「魔術」としか考えられないほどに恐るべき手管であった。

 なんてこった。

 壬生翔一郎という路上の魔術師から直々にトリックの種明かしを受けた芹沢は、奥歯を噛み締めながら文字どおり戦慄した。

 確かに自分はこの男よりもいいクルマに乗り、技術面でも上かもしれない。

 ひととおり語り終えた翔一郎が最後に告げた言葉――もう一度やれば君が勝つよ。もっとも真剣勝負に二度目はないけどね――を心の中で反芻しつつ、彼は思った。

 だが、それだけだ。

 自分がこの男に「走り屋」として勝っていた部分は、そのふたつだけしかない。

 確かにもう一度やれば、今回と同じ敗れ方はしないであろう。

 しかしその場合、この男は別の勝因を用いてやはり自分を打ち破るに違いない。

 単にクルマの性能や運転技術ではない。

 勝負師としての本質的な「力量」、いや「格」そのものが違っている。

 いまの自らが及ぶような低い場所に、この男は立ってなどいないのだ。

「あんた……いったい何者なんだ?」

 呆然とする自我を鞭打ち、ただそれだけを芹沢は尋ねた。

 単純明確な質問を受け、翔一郎は答えに窮した。

 とりあえず名前ぐらいは教えてもいいか、などと思い立ち、頭をかきながら少しの間考えを巡らす。

「翔兄ぃ!」

 その時だった。

 叩き付けるようなひと声が、観衆たちの間を一気呵成に駆け抜けた。

 翔一郎の名を呼ぶ者が、そのあとを追って鉄砲玉のようにやってくる。

 その者――猿渡眞琴が彼の胸中にどすんと身体を預けてきたのは、次の刹那の出来事だった。

 真正面からタックルを食らった格好となった翔一郎だが、体勢を崩しつつもかろうじてその場に踏みとどまる。

 そんな彼の状況を意にも介せず、眞琴は「凄い!」と「勝った!」を自己確認するよう何度も何度も口にした。

 やがて、背後にある芹沢の姿を認めたのであろう。

 先ほどの仕返しをするかのように振り向いた彼女は、両の拳を握り締めつつ腹の底から絶叫した。

「見たかァッ! 『ミッドナイトウルブス』参号機の魔術をッ!」

 その名が眞琴の口から飛び出したことに翔一郎は仰天し、遅れて姿を見せた倫子へと責めるような視線を送る。

 だが、その名を耳にして本当に目を丸くしたのは翔一郎のほうではなかった。

 ミッドナイトウルブス!

 半ば伝説と化した存在を目の当たりにしたギャラリーたちから、自然発生的なざわめきが巻き起こった。

 それらは徐々に数を増し、やがてうねるような動揺へと成長を遂げる。

 ミッドナイトウルブス!

 歓声が爆発した。

 頭上から降り注ぐ熱狂を一身に浴び、右手で顔を押さえたまま途方に暮れる翔一郎を、眞琴は、きょとんとした表情でいつまでも見上げていた。

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